ある世界。ない世界
隼人が最初に感じたのは、重力だった。
転移の最中は、まるで水の中にいるような感覚だったものが、突然無くなりストンと地面に着地する。
片膝立ちで着地した隼人が視線を上に向ければ、自分の頭より少し上の高さに、異界の書によって作られた魔法陣と同じ物が輝いていた。
そしてその中からは、今まさに蓮華が転移してきている最中だ。すでに腰までは転移を終えており、ゆっくりと降りてくるように魔法陣に隠れていた体の残り部分も見えてくる。
下から見上げてしまったせいで、蓮華のスカートの中身がはっきりと見えてしまったため、すぐさま視線を周囲へと外した。
そして、頭の先まで完全に魔法陣から出終った時、魔法が切れたかのように蓮華の体がストンと落ちる。隼人は自分が感じた落下の感覚もそれだったと理解した。
蓮華も突然の感覚に慌てることなく、しっかりとその両足で着地する。そしてゆっくりと目を開くと、周囲を見渡して片膝立ちで周囲を見ている隼人に視線を向けた。
「覗いたわね?」
「さて、なんのことやら」
隼人はとぼけてみせるも、蓮華の確信を含んだ言葉に、半ばあきらめた気持ちで肩を竦める。すると、蓮華はフッと笑って追求せずに、周囲を見渡した。
「まあ今回だけは許してあげるわ、不可抗力みたいだし。それより転移はちゃんと成功したみたいね」
「ああ、完璧だ」
「じゃあ荷物の確認だけして、さっさと移動しましょ。こんなところに長居は無用よ」
「おう」
隼人たちは近くに落ちていた荷物のもとに移動し、確認しようと屈みこむ。
瞬間、隼人は自分の心臓が一際大きく鼓動した気がした。そして全身を這いずりまわるような激痛に襲われる。同時に、隼人の周囲に風が吹き荒れ、まるで隼人を囲うように周囲を回転し始めた。
思わずその場に蹲り、歯を食いしばって体を抱える。異変に気づいた蓮華が、驚いた様子で隼人に問いかけた。
「どうしたの!?」
「わかんねぇ……突然体中に痛みが……ぁ……」
額からは汗が拭きだし、自分の肩を抱く手に力がこもる。その様子にただ事ではないことを感じた蓮華が隼人に近づこうとした時、蓮華にも同じ症状が現れた。
隼人と同じようにその場で蹲り、痛みに苦悶の声を上げる。
「これは……」
「くぅ…………」
痛みは体中を駆け巡り、まるで血管の中を虫が這いずるように移動する。抗おうにもどうすることも出来ず、ただその場に蹲り我慢するしかなかった。
噴き出す汗は止まるところを知らず、額から顎へと垂れ地面に吸い込まれていく。いつの間にか食いしばっていた唇には血が滲む。
痛みを誤魔化すように強く握り締めた両腕には、しっかりと爪が食い込み傷を作る。しかしその程度ではごまかしのきかない痛みが全身を駆け巡り続けた。
何秒、何分、何時間、時間の経過すらあいまいな感覚の中、ひたすら耐えることに集中した。
そして渦巻く風が止むのと同時に、隼人たちを襲っていた痛みがスーっと引いていく。
隼人は蹲ったままの姿勢で、息も絶え絶えに蓮華に尋ねた。
「何が起きたんだ……蓮華、分かるか?」
蓮華は何か思い当たる節があるのか、体を起こし、地面にペタンと腰を下ろしたまま弱々しく答える。
「魔力のせい……かしらね? 私も多少は変化があるとは思ってたけど、まさかこんな激痛が来るなんて予想外だったわ」
「魔力?」
「ええ」
蓮華の考えはこうだ。
二人の体は元々魔力の無い世界で作られたもので、その体の中に当然魔力などというものは存在しない。
しかし、こちらの世界には空気と同じように魔力が存在する。
真空の瓶に突然穴が開けばどうなるか。当然そこには空気が流れ込むだろう。
それと同じように、魔力が無い状態の体が異世界に転移した場合、周囲にある魔力が一気に隼人たちの体の中に流れ込む可能性は当初から予想していた。
しかし、それがこれほどの痛みを伴う物だとは、さすがの蓮華も予想しきれなかったのである。
「多分さっきの痛みは私たちの中に入って来た魔力が原因。強引に魔力の通り道を作ったものだから、体の中を這いずりまわるような痛みに襲われたってところかしら」
「つまり俺達にも魔力が宿ったってことか?」
それは自分達も魔法を使える可能性が出てきたと言うことだ。
「多分ね。けど、存在しなかったものを操る方法を私たちは知らないわ」
「試してみようぜ」
「どうやってよ……私たちは魔力の扱い方を知らないのよ」
「そんなもん、漫画みたいに意識を集中させてみりゃいいさ」
そう言って隼人は、瞑想するかのように目を瞑ると自分の体に意識を向ける。そしてそれは意外なほど簡単に分かった。
自分の心臓の右横に異物を感じるのだ。それは心臓と同じように鼓動しており、それに意識を向ければ余計にはっきりと分かる。
「なあ、想像以上に簡単に見つかったかも。なんか自分の体の中に異物があるのがはっきり分かるんだけど……」
「なによそれ……達人にでもなったつもり?」
「いや、マジで簡単に分かるんだ。蓮華もやってみろよ。心臓の右側に変なもんを感じるから」
「変なモノ?」
隼人の言葉に、半信半疑ながらも蓮華はとりあえず隼人が言う通りにやってみることにした。
そして蓮華も遺物の存在に気づき、眉が僅かに上がる。
「これが魔力ってやつなのかね?」
「だとしたら、きっと全身に魔力の血管ができてるわね。心臓みたいに鼓動してるじゃない」
「面白いなこれ」
一度意識してしまえば、それを感じることは簡単だった。
隼人は、心臓からつながる魔力の血管を全身に感じ、それを昔見たアニメのように手の平に集中させる。
魔力はいとも簡単に、隼人の意識した通り手の平へと集まり、その姿を現した。
手の平に生まれた琥珀色の球体は、隼人の意思を反映してグニャグニャとその姿を歪める。
「見てみろよ。スライムみたいで面白れぇぞ」
「そうね。これは色々応用が利きそうだわ」
隼人が魔力の塊で遊んでいる最中、蓮華も同じように自分の中の魔力を操作していた。
そして、蓮華は自分の指先から糸のように細い魔力を出している。それは、風に揺られることなく、蓮華の意思に従ってにゅるにゅると自由自在に動いていた。
「ちょっと操作が難しいけど、これで操り人形とか動かせそうね」
「こっちに来て早々、考えることはそれか」
「私がこっちに来た目的なんだから当然でしょ」
「はいはい。これ武器にもなるのかね。お、固さも変わった」
隼人が弄っていた魔力は、隼人の意思を反映して形を変えその硬度を上げる。それはまるでガラスの剣のように輝く琥珀色の綺麗な物だ。とても武器に使えるとは思えない、少し固い物にぶつかれば粉々に砕けてしまいそうな儚さがあった。
「これ武器になると思うか?」
「振ってみれば?」
蓮華は自分の糸を色々と操りながら、興味なさげに近くにある岩を指差す。
「まあ、ものは試しか。どうせ魔力だし」
壊れたところで何かを損するわけではない。隼人は岩の近くまで歩み寄ると、その剣を振り上げ、力の限り岩に向かって叩きつけた。
ズドンッ!!
直後、振り下ろした剣はあっさりと岩を破砕し、その下にある地面を穿つ。
土煙が舞い上がり、一瞬にして隼人や少し離れた場所にいた蓮華をも飲み込んだ。
「隼人! 何やってんのよ!」
視界もままならない中で、蓮華の怒鳴り声が響き渡る。
「知らねぇよ! ちょっと振り下ろしたらこうなっちまったんだ!」
土煙から出てきた隼人は、全身に砂埃を浴び、砕けた岩の破片で服がズタボロになっていた。
「マジでヤバかった……割と本気で死ぬかと思ったわ。魔力が無ければ即死だった……」
岩を破砕した瞬間、いくつもの破片が隼人目掛けて襲い掛かって来たが、とっさに魔力を体から溢れさせ、防御したのだ。
「はいはい。で、どうやったらあんな状況になるのよ」
土煙が晴れた後には、えぐり取られたような地面だけが残っている。周辺の草も衝撃で吹き飛び、遠くの草でも岩の破片によって引きちぎられている物もあった。幸い、蓮華のもとに破片が飛んでくることは無かったが、それでも土煙を浴びて服は汚れてしまっている。
一言で言えば、惨憺たる状況だ。
「ほんとに剣を振り下ろしただけなんだって。それ以外には何もやってないし、変な考えもしてない」
「剣だけであんな威力に?」
「おう。こりゃいい武器が手に入ったな」
「まあそうなんだろうけど……色々と調べてみる必要がありそうね。けど時間が無いわ。そろそろ移動しないと、日暮れまでに間に合わなくなる」
「それもそうだな」
自分達の強力な武器となるのならば、もっと詳しくこの魔力のことを知る必要はあるのだが、異世界に来て何の基盤も無しにのんびりと研究をしている余裕はない。
蓮華が持ってきた食糧にも限りがあるのだ。それを使い果たす前に当初の予定に従って当面の物資を確保する必要がある。
故に、今は一旦魔力のことを棚上げにし、隼人たちは移動することにした。
「どこに行く予定なんだ? ってかここどこだ?」
こちらの世界に転移してからの予定を、隼人は全然知らない。そもそも、転移場所を決めたのすら蓮華とあって、今自分が世界のどこら辺にいるのかも分からないのだ。
その為、移動先は蓮華に頼るしかない。
「とりあえず、現状を説明する前にこれを渡しておくわ」
蓮華は自分の鞄から、地図と共に何かを取り出す。それはコンバットナイフだった。
「こんなもんどうやって手に入れたんだよ」
隼人はそれを受け取り、鞘からナイフを抜き放つ。
刃渡り三十センチはありそうな無骨なサバイバルナイフだ。現代日本で持ち歩けば、まず間違いなく補導される代物である。
「通販よ。それとこれもね」
蓮華が渡してきたのは、万能ナイフだ。柄の中にナイフのほかにもハサミや缶切り、のこぎり、栓抜きなど、色々な用途に分けて使い分けの出来る刃物が収納されている物である。
「あると便利だから、ベルトにでも差しておきなさい」
「了解。確かに便利そうだ」
もともとサバイバルを想定して作られた物なだけあって、その用途は幅広い。ちょっとものを斬りたいときから、何かに襲われた時まで、一つの物で対処できるのは冒険する身としてはかなりありがたかった。
「高かったんだから大事にしなさいよ。すぐに壊したら承知しないから」
「分かってるよ。直しも利かないだろうしな」
刃物を作る技術はあっても、万能ナイフのような多機能な物を作る技術まで備えているとは限らない。
壊れたら捨てるしかないと考え、隼人は大切に扱うことにした。
隼人が万能ナイフをポケットにしまい、ベルトにサバイバルナイフを差したのを確認して、蓮華は隼人の横に腰をおろし地面に地図を広げる。
「今いるのがここの辺り。国で言えばシャノン王国の衛星都市ベルデの近くね。歩いて三日の距離ってとこかしら」
「お、ベルデの近くなのか」
「ちゃんと隼人の希望も考えてあるわよ」
そこは大陸の東側に面し、五大国と呼ばれる巨大国家の内の一つだ。温暖な気候と豊かな土地は人々の精神にも影響しているのか、隼人たちが知る限りでは戦争なども無く平和な国である。
ベルデはそのシャノンでも第二位の規模を誇る都市であり、隼人が異世界に来たら最初に行こうと思っていた都市だった。
「で、今から向かうのはここの森。ここからは一日あれば着く場所よ。ベルデからだと四日って所かしらね」
蓮華が地図上の指をスッと動かす。そこは、ベルデと現在地を直線で結べば直角三角形になる位置だ。
「予定だと今日の移動で森の近くまで行って、明日盗賊の根城から金品を強奪するわ」
「やっぱそうなるよな。てっとり早く稼ぐ方法って」
「当たり前でしょ。それ以外に私たちがてっとり早く金を手に入れる方法なんて無いんだから」
盗賊を襲撃して金品を奪う。それは、異世界に行く前から計画していたことだった。
この世界で無一文から金を稼ごうと思えば、動物を狩ってその皮や肉を売るか、薬草を採取して薬師の元へ持っていくぐらいしか存在しない。
しかし、その程度で手に入る金では、一日の食費をねん出することすら難しい。
そこで蓮華が考えたのが、盗賊を襲撃することだ。幸い、異界の書によって盗賊のアジトは見つけてあるし、その規模も判明している。
後は留守ならば盗めばいいし、いるなら殺して盗賊たちから金品を奪ってしまえばいいのだ。この世界の基準では、盗賊は現場判断での殺害が許可されているため、それで隼人たちが犯罪者になることも無い。
「けど二人で襲撃とか大丈夫なのか? 少人数ってことは魔法使いもいるんだろ?」
少数精鋭の盗賊団ならば、その中に魔法使いがいるのはほぼ確定だ。そうでなければ、盗賊団として少数でやっていくことなど不可能だからだ。
異界の書で観察した限り、盗賊団は魔法使いが一人から二人の場合は二十人から三十人規模の集団で動いていることが多かった。それ以下の人数の場合、魔法使いが三人以上いることを想定しなければならない。
「全部で十人の集団ね。うち三人が魔法使いよ。最初は慎重に寝込みでも襲おうと思ってたけど、今の私たちなら大丈夫でしょ。だってほら――」
隠れ家に住む盗賊は、夜襲をかけることはあってもかけられることは滅多にない。騎士団などは、正面から潰してしまえばいいし、盗賊ハンターも隠れ家を探す間に大抵の場合が先に見つけられてしまい奇襲をするのは難しい。
しかし、隼人たちにはその場所がすでに分かっているのだ。ならば、寝ている所を一人ずつ殺していけば、数的にも経験的にも不利な隼人たちでも問題なく盗賊たちを狩ることが出来る――――予定だったのだが
蓮華が座った状態で左手を横に振るう。それだけで、蓮華の左手から二メートル程度の範囲にあった草が一瞬で刈り取られた。
指先から出した魔力の糸によって斬ったのだ。
「こんな力があるんだもの。隼人の剣だって、人間に向けて振れば一瞬で片が付くわよ」
「なるほど」
岩を砕き地面を抉る。人に向ければ完全なオーバーキルだ。一瞬でひき肉にされることは免れないだろう。
さすがにやり過ぎではないかとも思うが、殺されるよりはマシである。
「じゃあ移動するわよ。道はこっちね」
隼人たちは荷物を担ぐと、蓮華が鞄から取り出したコンパスで方位を確認しながら歩き出した。