プロローグ2
二人が一冊の本を手に入れてから、早くも九年の月日が経つ。その間、隼人は蓮華と共にこの本にひたすらのめり込んでいた。
当然だろう。動く絵の本は、その世界のどこでも映し出し、その光景を音と共に伝えてくれる。商店の声はもちろん、兵士達の訓練の声、王城での会議、動物同士の縄張り争いもあれば、九年の間に人間同士の戦争もあった。
二人はその光景を見ながら、その世界の知識を少しずつ蓄えていく。
購入から二年ほどした頃には、蓮華が読むことのできなかった謎の文字を全て解読してしまった。どうやったのかと隼人が問えば、蓮華曰く、しゃべってる人がいて、その言葉を使っている場所があり、文章としての文字があれば二年もあれば誰でも解読できると言っていたが、類似言語すらない地球で、別の世界の言葉を読解することなど、常人には不可能だろうと隼人は思う。
そして判明したこの本のタイトル
『異界の書』
その内容は、別の世界の人間に異世界の存在を教えることと共に、その世界に行くための方法が記されていた。
なぜこのような本ができたのか、誰が書いたのか、何故そんなことをする必要があったのかなどは全く書かれていない。
ただ、その世界の事象を絵と文章で説明し、最後のページに世界を渡るための魔法が書かれているだけの簡単な本。
魔法なんて、と最初は否定していた蓮華も、実際に動く絵や、読解して分かったしっかりと体系化された文字などを知っては、信じないわけにはいかなかった。
そして、文字の読解と、異世界に行くための方法の理解は、二人の異世界に対するスタンスに小さな変化を与える。
これまでそれは、テレビの向こうと同じで、近くに感じることは出来ても決して手の届かない場所の話だった。しかしそれが今彼らの手の届く範囲にまで近づいたのだ。
行けたらいいなという淡い希望は、確かな現実となり、ゆっくりと彼らの目標になっていったのだった。
異界の書には、その世界のさまざまな光景が映し出された。
その中には当然人間の醜悪な姿を見せる物も多々あった。戦争はもちろん、強盗や殺人の数々、兵士達の横暴な姿、奴隷として消耗品同然に扱われる人たち、そんな光景を当たり前のように見ていた二人の倫理観が、現代の倫理観と食い違うのは当然とも言えたかもしれない。
これがテレビの中の話ならば、ただのフィクションならば、二人の倫理観が変化することは無かったはずだった。
しかし、紛れもない現実としてそれは起こり、その世界に行くとこを目標としている二人にとって、それは現実の、それこそ自分達の住む町に不審者が現れる程度の紛れもない事実として意識出来てしまっていた。
中学生にもなれば、二人は自分達と周りのみんなとのその違いに気付いた。
隼人が誰かと喧嘩をすれば、第三者が止められなければその相手を殺すまで殴り続けていただろう。
それが異世界の、命が数万円で買えるほど安い世界の常識だったからだ。
それゆえに、隼人は何度か少年院にお世話になる事にもなったし、巷では危険な少年と評価され、中学時代隼人のそばにいるのは蓮華だけとなっていた。
容姿も良く成績も良い蓮華が気に入らないと突っかかって来た女子は、相手が泣いて謝ってもあの手この手を使って徹底的に貶め続け自殺未遂を起こすまで追い込んだ。
やられたらやり返す。相手が二度と逆らえないようにするのが、異世界では一番安全だったからだ。
隼人と違う所があるとすれば、頭の回る蓮華は自分が表になるような行動は起こさなかったことだろう。常に裏から相手を追い詰め、相手が気付いたときにはすでに詰んでいる状態にしていたのだ。
故に女子たちの間で蓮華に対する共通認識はこうなった。
関わってはいけない相手。逆らってはいけない相手。そんな蓮華の傍にいるのは、いつも幼馴染の隼人だけだった。
自分達の常識が、すでに異世界の基準になってしまっている。それに気づいた隼人たちが行動に移るのは、当たり前のことだった。
隼人たちは中学と高校の約五年間を使い、異世界に行くための準備をする。
まだ異世界の言葉を覚えていなかった隼人に、蓮華が言語をスパルタで叩き込み、大量の絵から推測して、異世界の地図を作製、そこにどのような国があるのか、どんな山があるのか、どんな村があるのかどこに道があるのかなど、分かる限りに書き込み続けた。
同時に、異世界で生活するための基礎能力を手に入れるために、体力作りも始める。
これは言語で苦労した隼人とは逆に蓮華が苦労した。
もともとアウトドア派だった隼人と違い、インドア派だった蓮華の体力は文化部のそれと遜色ない。そんな状態で異世界などに行っては、車や電車はおろか自転車も無い世界では身動きが取れなくなってしまう。
コンビニなんて便利なものはないため、自炊もある程度は出来なければならない。
隼人たちは考えられる全ての可能性を考慮して、自分達の能力を上昇させる。異世界は現代よりも遥かに命の危機が多い場所だ。それは、本を見ていれば簡単に分かった。だからこそ、自分達の強化には妥協を許さない。
そんなことをしているうちに、隼人は高校を留年ギリギリの数字で進級し二年生になる。二人一緒に行動できるのが何かと便利だからと、同じ高校に通っていた蓮華も、こちらはトップの成績かつ、体力作りのおかげで体育の成績までトップに君臨するまでになった。まさに才色兼備と呼ばれる存在だ。
友人はいないながらも、その孤高の存在っぷりに惹かれる男子生徒は多く、しかしそのそばにはいつも隼人がいたため、蓮華がわずらわしい告白を受けることは無かった。
その代りに、二人が付き合っているという噂が公然のように流れていたが。異世界に行くために必死だった二人が、そんなことを気にすることは無かった。
そして高校三年生。
二人の通う高校は、隼人の頭に合わせたため進学校では無い。そのため、生徒たちは進学が就職かを選び、それぞれの将来に向けて準備を始めていた。
そんな中、隼人と蓮華の二人だけがいつもと変わらない日常を送っている。
教師が隼人を呼び出すのは当然と言えるだろう。
進路相談室では、担任と隼人が向かい合っていた。
「さて、呼び出された理由は分かるな?」
「進路相談だろ? ここ相談室だし」
「そうだ。もう何か決まってるのか? 先生は特にそんな話を聞かないんだが」
「一応決まってるっちゃ決まってるのかね?」
中学生のころから異世界で冒険することを目標にしてきた隼人にとって、この世界での将来など何の意味もなさないことだ。
故に、その受け答えはかなり適当である。
そんな様子の隼人に、教師は深いため息を吐いた。
「就職か? 隼人の成績だと進学はまず無理だろ」
「教師がそんなストレートにバカって言っていいんスか……まあ否定はできないけど」
もともとあまり頭のよくなかった隼人だが、異世界関連のあれこれを学ぶために、学校の授業は完全に捨て置いている。そのため、各教科の成績はギリギリ進学できる程度で、追試の常連に名を連ねていた。
「なにか伝手でもあるのか? 実家は確かサラリーマンだろ?」
家業があるのならばそれを継ぐのも選択の一つだが、隼人の父親は普通のサラリーマンである。どこかにコネで就職できるような力があるとも思えない。
「まあコネっちゃコネなんですかね? 結構蓮華頼みになってるし」
「蓮華さんのご実家か。確か人形師の家系と聞いたが」
隼人の答えに、教師は眉を顰める。
蓮華の実家は古くからある人形師の家系で、主に操り人形を作っていた。現代では昔の技術を受け継ぐ貴重な家系として人形師を目指す者達の憧れの存在でもある。
かなり特殊な家系故に、教師も良く分からない世界だ。そこを当てにしていると聞いては、どうこたえようか悩むのも当然だろう。
「あいつん家スゲーんですよ。壁中日本人形でひしめいてんの。子供のころはマジで怖かったわ」
「そ、そうか。それでコネで就職するつもりなんだな?」
「まあそんなところっすね。だから俺は問題ないっすよ」
「分かった。なら就職先が決まったら教えてくれ。こちらも生徒の進路はしっかりと把握しておきたい」
「了解了解。じゃあもう行っても良いっすか? 蓮華待たせてるんで」
「ああ、相変わらず仲がいいな。気を付けて帰れよ」
「まあ幼馴染なんでね」
進路指導室を出ると、廊下の窓際に蓮華がもたれ掛って待っていた。開けられた窓から入り込む風に、腰まである艶やかな黒髪が揺れる。第二次成長を迎えた蓮華の体は、子供のころよりもさらに女性らしさに磨きがかかり、異世界で生活するための体力トレーニングも相まって、誰しもが憧れる絶妙なプロポーションを体現していた。もしこの場面の写真や絵をコンクールに出せば、そのまま入賞してしまいそうなほど絵になる姿だ。
「お待たせ」
「予想より早く終わったわね。もっと長くなると思ってたわ」
「蓮華のアドバイスに従ったら上手く行った。やっぱ先生も知らない事情には突っ込めないみたいだな」
「それは当然よね。半端に首を突っ込んでも何もいい事なんて無いもの」
就職先のコネが蓮華の実家にある。そんなことは真っ赤なウソだった。この嘘は、進路指導室に呼び出された隼人に、蓮華が授けた知恵である。
担任である以上、生徒たちの将来には責任を持たなければならない。二人の担任も若いながら真面目な教師であり、生徒たちのことを真剣に考えている。それゆえに、曖昧な答えはただ時間を長引かせるだけでなく、変な就職先を斡旋されかねなかったのだ。それを防ぐための嘘が蓮華の実家のコネである。
二人が恋人というのは、公然の噂になっているため、教師も恋人の実家からのコネならば信じやすいと踏んだのだ。幼馴染という関係がその信憑性に拍車をかけていた。
「つか蓮華はなんで呼ばれないんだ? お前だって就活も進学もやってないだろ」
「当たり前じゃない。私の成績は常にトップ。向こうが心配するまでも無く、贅沢を言わなければどこでも受かるし、そもそも実家を継ぐって言えば全て解決するもの。一応進学希望で出してあるから、テストさえいい成績なら、教師が心配することも無いわ」
「それもそうか」
「けどさすがにそろそろ潮時ね。私たちの準備もほぼ終わってるし」
隼人が呼び出されたと言うことは、進路相談が本格的に始まったと言うことだ。今後、隼人が就職先を言わなければ、何度も呼び出される可能性があり、いずれ嘘とバレる可能性もあり得る。蓮華も今は大丈夫であるが、まじめなあの担任がいい機会だからと実家のことに色々口を出してこないとも言い切れない。
「なら行くのか?」
「ええ。来週の日曜日ぐらいでどう?」
「イイね、準備するものは?」
「数日の旅行気分でいいわよ。どうせ向こうじゃこっちの服なんて異質過ぎてすぐに着られなくなるし」
異世界の服は、こちらの世界との風習の違いや、品質的な違いもあり、現代の服を向こうの世界で来ていれば、かなり目立つことになる。
意味も無く目立って、金を持っていると推測されれば、変な連中に目を付けられるのだ。そんなリスクをわざわざ背負うバカはいない。
「食糧はこっちで用意しておくから、旅の準備だけはしておきなさいよ」
「転移先の場所は指定できるんだろ? 町の傍に出ないのか?」
「無一文じゃ町に入れないわよ」
少し大きな町になると、どこも入場に少なからず費用が掛かる。村からの行商ならば、その場で商品を渡して入れてもらえるが、ただの旅人では拒否されることが殆どだ。故に、異世界に行ってまずやらなければならないことは金の確保である。
「ああ、そういうこと」
蓮華からの説明を受け、隼人も蓮華が何をしようとしているのか理解する。つまり、異世界ならではのてっとり早く金を手に入れる方法を使うのだ。
「場所は分かってるから、問題ないわ」
「了解。ならこっちは服の準備ぐらいだけだな」
「旅の準備も忘れないでよ」
「分かってるって。野営って一度やってみたかったんだよな」
本の中で旅人達が野営をしている姿。数人でたき火を囲い談笑し、寝る時は誰かが周囲の警戒をする。
異世界で冒険することを夢にしていた隼人にとって、それはとてもうらやましい光景だった。
「はぁ……まあ好きにしなさい」
そうこうするうちに、交差点に出る。ここからは隼人と蓮華は別の道だ。
「じゃあまた明日」
「おう、また明日」
軽く挨拶だけ交わし、噂されている恋人同士とは思えないほどあっさりと、二人は自分の帰宅路に進んで行った。