プロローグ1
斎賀隼人の目の前には、見上げるほどに巨大な本棚があった。だが巨大と言っても、精々が大人の身長より少し高いぐらいの本棚だ。それが巨大に感じるのは、隼人がまだ十歳にも満たない子供だからだろう。
中に並ぶ本の背表紙は、そのほぼ全てが日に焼けて茶色く変色している。
それらを眺めている隼人の目には、何かを探すという目的は無い。ただボーっとその背表紙に刻まれた文字を追っているだけだった。
端的に言ってしまえば、実につまらなそうである。
上から順に背表紙を眺め、首が痛くなってきた所で視線を下に下げる。同時に、隼人の口からハーっとため息が漏れた。
「なあ、蓮華まだかよ」
淡々と背表紙を眺めることに飽きてきた隼人は、すぐ横で棚から本を抜きだし、真剣な表情で中身を調べている幼馴染の少女、芙容蓮華に声を掛ける。
同い年ということもあり、身長も隼人と同じぐらいだが、セミロングの髪が女性らしさを引き立たせ、細く白い指先は、本のページを捲るたびに切れてしまいそうなほど儚い。
まだ二次成長も迎えていない子供であるはずなのに、芙容蓮華には女性としての十分な資質が揃っていた。
その蓮華は、本から顔を上げることなく言葉を返す。
「まだって……ここに来てから五分も経ってないわよ。適当に面白そうな本でも読んで待ってなさいよ。私は探してる本があるの」
「つってもなー」
もう一度顔を上げ本棚を見るが、やはり興味をそそられるものは無い。
そもそも、隼人は古本屋に来るようなタイプの子供では無い。どちらかと言えば、公園を駆け回り、唐突に電車と駆けっこをするようなアクティブな子供だ。
逆に蓮華は、本屋や図書館などが似合うタイプの子供である。文字を習い始めてからすぐに小説に興味を持ち、次第にその分野は幅を広げて行った。
実家の特殊な環境もあり、今では独学で古文さえ難なく読めるようになってしまった、言わば天才である。
隼人自身、なんでこんな正反対の性格の奴と幼馴染になったのか謎だった。特別親同士も仲がいい訳でなく、家が近いわけでもない。
ただいつの間にか隣にいて、一緒にいることが多かった不思議な関係である。
今回は何して遊ぶかを決める際に、じゃんけんで負けたため蓮華の買い物に付き合うことになったのだ。もちろん荷物持ちもセットになっている。
「隼人ならヒーロー物とか好きだったでしょ? この本棚の裏側にそこらへんのがあったし、見てくればいいんじゃない? ここ古い本ばっかりだし」
「ならそうする」
蓮華に言われるまま、隼人は本棚の裏側に回る。そこには先ほどまでいた日に焼けた背表紙のみが並ぶ場所と違い、カラフルな背表紙も目立つ。
蓮華の影響か、小学生にしては漢字も読める隼人は、その中の一群に気になる文字を見つけた。
『異世界』『冒険』『剣と魔法』
それは以前にも、蓮華から勧められたことのあるジャンルだった。
中学生や高校生、はたまたそれ以上の人たちが、ある日突然何らかの偶然から異世界へ渡り、そこで剣や魔法を使って冒険を繰り広げていく物語。
昔からあるジャンルであり、かつ今なお根強い人気に支えられ続々と新しいシリーズが登場している作品群だ。
隼人も年相応の小学生である。冒険にも興味があるし、剣や魔法も面白そうと感じるには感じる。
しかしダメなのだ。隼人の嫌いな授業は、第一位が国語で第二位が社会である。とにかくグダグダと文字を読むことが大嫌いなのである。ちなみに好きな教科は言わずもがな体育だ。
それなのにひたすら文章が続く小説を読めるはずも無く、読み続けられるのは、精々が漫画の中のセリフぐらいしかない。
「異世界ねぇ」
ずらっと並ぶ異世界の文字の中から、隼人は適当に一冊の本を取りだしパラパラとめくる。
挿絵でも入っていればと期待してみたが、そんなものは無く、ページは一面の文字で埋め尽くされていた。
ため息を一つ吐き、その本を元の場所へ戻す。
そしてその隣の本を取ろうとしたとき、隼人の目に不思議な文字が飛び込んできた。
ちょうど目線の高さにあった棚に収められた本だ。
文字は社会で習った象形文字のような、はたまたどこかの漫画で見たルーン文字のような不思議な形をしている。
隼人はなぜかその文字に興味がわいた。それは、その文字が文字では無くむしろ絵のように見えたからか、はたまた不思議な力によって惹かれたのかは分からないが、隼人はその一冊を手に取る。
ハードカバーのその本はかなりしっかりとした作りで、指で軽くノックするとコンコンと良い音が帰ってくる。本のタイトルは、背表紙と同じ文字で書かれているため分からない。裏を見たりしても日本語どころか英語らしき物も見つからない。
「どこの文字だ?」
蓮華なら分かるかもしれないが、本を読んでいる最中の蓮華を邪魔するとかなり機嫌が悪くなるため、頼るのはやめておく。
中を見て、全て同じ文字なら諦めようと、隼人は適当にページを開いてみた。そしてそのページに釘づけになる。
たまたま開いた半分ぐらいのページ、そこには大量の文字と共に一枚の写真のような物が付いていた。
写真にはこの本の舞台なのだろう、見たことも無い中世のような街並みが広がっている。そこで人は商品を売り、買い、兵士が街中を巡回している。
そう、巡回しているのだ。その写真はまるで動画のように動いていた。耳を澄ませば、僅かに声らしき物も聞こえてくる。
目を擦ってもう一度見るが、やはり絵は動いていた。
「マジかよ」
他のページを開いてみると、そこにも同じように写真が貼ってあり、当然動いている。森の中、城のような場所、誰かの家の中、貴族の屋敷、平原、山、川、海、巨大な塔。
開くページ全てに写真が貼ってあり、その全てが違う場所の光景を映し出している。
魔法。隼人の頭の中にそのワードが浮かんだのは必然だろう。
「これマジもんってやつか。あれだろ、魔導書とかそういうの」
一旦本を閉じ、それを脇に抱えて、この興奮を伝えるために蓮華の元へと戻る。
蓮華は先ほどと同じ棚で、まだ本を読んでいた。隼人の足音で戻ってきたことを知り、うんざりした様子で顔を上げる。
「なに、良さそうなのは見つからなかったの?」
「いや、その逆だ。最高に面白れぇもん見つけた!」
隼人が抱えた本を蓮華に向かって差し出す。蓮華は先ほどとは打って変って楽しそうな隼人の表情に疑問を抱きながらも、その本を受け取って開く。そして先ほどの隼人と同じように釘づけになった。
本を真剣に見つめる蓮華を見ながら、隼人は興奮した様子で蓮華に語りかける。
「な、スゲーだろ。これ魔導書ってやつじゃねぇの?」
「どういう仕組みかしら? いたずらにしては高度すぎるし」
隼人の興奮とは裏腹に、蓮華は冷静に本の仕組みを分析しようとしていた。予想とは違うその反応に、隼人は不満を覚える。
「ンだよ、ノリ悪ぃな……どう見ても魔法の本じゃねぇか。人も動いてるし、いろんなページにいろんな場所が映ってるんだぜ? 文字だって見たことない文字だし決まりだろ?」
「魔法なんてそんな非科学的なモノ、簡単に信じられる訳ないでしょ。子供じゃないんだから」
「いや十分子供だろ」
小学三年生、傍から見れば十分すぎるほど子供である。
隼人のツッコミを華麗にスルーした蓮華は、本を閉じて表紙に張ってあるはずの物を探し、首を傾げた。
「どうしたんだ?」
「値札が無いわ。これどこから持ってきたの?」
「蓮華の言った裏の本棚。別に均一の場所じゃねぇぞ」
「おかしいわね。張り忘れかしら」
古本屋ならば、まれに均一コーナーで値札の表示が無い本もあるが、隼人が本を見つけてきたのはそれとは別の、むしろまだ新書に近い物が置かれているコーナーだった。
「買うのか?」
「お金が足りればね。さすがに私も興味あるし」
蓮華が如何に大人びていると言っても、もらえるお小遣いは年相応だ。ハードカバーの本では、一冊で千円を超えることも珍しくないため、蓮華のお小遣いが足りるという保証はない。
ちなみに、隼人はお小遣いこそ貰っているが、貰った初日に使い切るタイプであるため、蓮華は端から宛てになどしていなかった。
「おじいさん、この本いくらですか?」
「ん?」
蓮華はその本をレジの上に置き値段を尋ねる。レジにいる老人はこの店の店主であり、よくこの古本屋を利用する蓮華にとっては既知の存在だ。
その老人は、レジに置かれた本を見て、首を傾げた。
「儂はこんな本を仕入れた覚えはないぞ?」
「え? でも本棚にありましたよ?」
「ああ、あっちの本棚に並んでた」
隼人が本の置いてあった本棚を指差す。
老人は、隼人が指差した本棚を一瞥してもう一度首をかしげると、まあどうでもいいかといった様子で値段を答えた。
「ふむ……ボケたのかのう。なら三百円でいいぞ。値札が無いなら均一額で売るのがこの店じゃ」
「ありがとう」
その額は隼人には無理だが、蓮華ならば十分に出せる値段だ。
蓮華は老人ににっこりとほほ笑み、財布から三百円を取り出しレジに置く。
老人はその間に本を袋に入れて口をテープで止め、蓮華の横に立っていた隼人に袋を渡してくれた。
隼人はそれを受け取って脇に抱える。
「ちょうどじゃな。車に気を付けて帰りなさい」
「うーい」
「はい、ありがとうおじいさん」
その後二人は、速足で蓮華の自宅へと戻り、再び本を開いたのは言うまでもない。
これが、二人の未来に大きな影響を与える、一冊の本との出会いだった。