一章 七
戸が開け放たれた部屋の中を窺うと、足音をききつけたのか、文机の上の書物から目線を上げた茜と目が合った。
「百夜……?」
目を丸める茜に百夜は駆け寄る。
「久しぶり!」
「久しぶり。どうして急に……って理奧か」
「うん。学問所に行くって言うからついてきちゃっ……いたっ……」
勢いで抱きついてしまったため、殴られたところがまた痛みはじめた。頭を手で押さえる。
「大丈夫? まぁ、赤くなってるじゃない。どうしたの?」
「ちょっと……怒られてしまったの」
「あぁ。和兄様に?」
「……うん」
「もう。女の子相手なんだから手加減しなさいよ」
ちょうど飲み物を持ってきた和真に向かって、茜は百夜の頭をなでながら強い口調で言う。
「これでも特別扱いしてるんだぞ。そんなに言うなら、お前も手伝ってやれよ」
「言われなくてもそうします」
自分の行いのせいで勃発してしまった兄妹喧嘩に、百夜は戸惑う。けれど同時に、茜の元気そうな姿に安心していた。
岩槻茜は、岩槻家の末娘である。
百夜より三つ歳が上であるが、百夜の知っている人のうちでは一番年が近く、初めてできた友達でもある。お互いの家に泊まったこともあるくらいだ。
茜は生まれつき体が弱く病気がちであるため、普段も自室で過ごすことが多かった。
その一方で、外国の少女小説への憧れからか、華奢な容姿からは想像できないほど心根が強い。
「外国の少女小説ではね、主人公の女の子は体が弱くても、天涯孤独になっても、強くたくましく生きているのよ」
茜はたびたび、そう口にしていた。
「お茶ここにおいて置くからな」
「ありがとう」
「理奥が帰る時に呼びにくるから。それまでごゆっくり」
去っていく和真の足音が聞こえなくなるまで待ってから
「それで」
茜が意味深長な笑みを浮かべながら訊ねてくる。
「最近どうなの?」
「最近って?」
「理奥。望試に出るんだってね。おめでとう」
「もう、茜まで。私にいわれても……」
赤くなりながら膨れっ面になる百夜を、茜はにやにやと見つめる。
どうしようかと困り果てた百夜の頭に、望試という言葉から、先日の祖父とのやり取りが思い出された。
「そうなの、聞いてよ」
急に語気を強めた百夜に茜は目を見開く。
「お祖父様が稲花女学院へ行けっていうの」
「女学院って……由比姉様が行ってるところ?」
「うん」
由比はここ常盤の国司の娘であり、和真や茜の乳兄妹にあたる人物である。母親が海の向こうの遠い国、紗瑠詩絵出身であるため、瞳の色も茶色味がかっており、同じ色の髪は緩やかに波打っていた。
家臣の妻が領主の乳母を務める習わしに従い、岩槻家は領主である常盤家の乳母や教育役、指南役を勤めることもある。和真や茜の母親は、常盤家長女である由比の乳母を務めた。
国司の娘であるにもかかわらず、乳兄弟について外を駆け回ることが好きだった由比は、成長してからも頻繁に屋敷を抜け出しては学問所にやって来て、講義や剣術の稽古に混じっていた。
その由比は、二年前から稲花女学院へ通っている。
「じゃあ、年に二回の長期休暇にしか帰ってこれないじゃない」
「行かないって言ったのだけれど、お祖父様はぜんぜん聞いてくれなくて」
「まぁ……百夜もいいとこのお嬢さんだものねぇ。それにしても、女学院へ行ける人って、なぜここまで嫌がるのかしら」
由比は女学院行きが決まった時、水以外のものは口にせずに部屋に籠城していた。
と思ったら、置き手紙を残して突然姿を消した。和真も同時に姿を消したものだから、大騒ぎとなったものだ。
「あのときは大変だったわよね」
百夜の家にも常盤家からの使いが来て、理奧も国府に連れていかれて事情聴取を受けた。結局、誰一人として二人の行方を知るものはいなかったが。
「でも、素敵よね」
当事者の二人は否定するが、百夜は物語のようだと思う。
もし理奥が自分をどこか遠くに連れ出してくれたら。そう考えるだけで百夜の胸はいっぱいになる。
「素敵かもしれないけど……こっちは気が気じゃなかったんだから。見つけ出される前に戻ってきたからいいものの」
行方不明になって二週間ほどたったころだろうか。二人は何事もなかったかのように戻ってきた。そして、由比はあっさりと女学院へ行くことを認めた。
だからこそ、和真はお咎めなしとなったのだ。
あれほど大騒ぎになったのだ。誰もが何があったのか気になって仕方がなかったが、それを知る者はいない。謝罪の言葉とお土産はもらったものの、何があったかについては二人ともごまかして何も言わなかった。
「領主様は怒鳴り込んでくるし、兄様は指名手配されそうになるし、うちだって国外追放の危機だったのよ。お父様は大丈夫だっておっしゃっていたけれど……でも、本気の逃避行だったらどうなっていたかわからないもの」
切実な口調の茜に、百夜は舞い上がっていた自分が恥ずかしくなる。
しゅんと黙る百夜に、茜はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「まぁ、理奥はまた別だし」
百夜の胸がどきりと跳ね上がる。
「もしそうなったらいいわねぇ」
落ち込んでいた頭の中に、先ほどの妄想が戻ってくる。
夜も更けたころ、理奥がこっそり百夜の部屋を訪ねてくる。
そして、いつもはあまり見せない真剣な表情で百夜の手をとる。
そして言うのだ。
「会えなくなるのは嫌だ、一緒に逃げよう」と。
百夜の顔が熱くなる。
「百夜って、やっぱりかわいい」
「……もう!」
上目遣いに睨んでくる百夜に、茜は悪びれずに笑う。
「お楽しみのところ悪いんだが…」
割り込んできた声に二人は動きを止め、勢いよく廊下の方へと顔を向けた。
そこには苦笑いをしている和真の姿と、その後ろに理奥の姿もあった。
「書類は書き終わったから、一応、様子を見に来たんだが」
「いやだ。そんなに時間が経ってたの!?」
ごまかすように大袈裟に驚く茜の脇で、百夜は今まで話題にしていた人物の登場に動揺して言葉が出ない。
微妙な空気が流れ始めたところで、理奥が助け舟を出すかのように提案した。
「もうちょっとここにいてもいいよ。ほら、百夜も久しぶりに茜に会ったことだしね」
「うん。もう少し茜といたい」
百夜は固い笑顔で答える。
「帰るときになったら和真さんの部屋に来てくれればいいから」
「う、うん」
去っていく理奥と和真をぎこちない笑みで見送った二人は、足音が聞こえなくなった瞬間、顔を見合わせた。
「どうしよう。聞かれちゃったかな」
「兄様の様子をみると、うーん…」
「どうしよう。どんな顔して理奥と話せばいいのかわからないよ」
「ほんと馬鹿兄貴、こんなときに存在感消さなくてもいいのに」
だんだん涙声まじりになってくる百夜を励ますかのように、茜は百夜の頭をなでる。
「まあ、これがいいきっかけになるといいわね」
「え?」
「何も伝えてないんでしょ。いつも一緒なのに」
「いつも一緒ではないけれど……うん」
理奥と出会ってもうすぐ五年が経とうとしている。傍にいるのが当たり前すぎて、想いを伝えたことはない。今のままで不満はなかったし、理奥の自分に対する感情は、きっと百夜のこの気持ちとは違うと、なんとなく察しがついた。
「言えばいいのに」
「そんな簡単に……」
「だって、いつまでも同じじゃいられないんだよ」
初めて岩槻家にやってきて、いろんな人と出会ってから五年。あのときに一緒に遊んでいた仲間の多くはもうここにやってこない。
和真は講師として忙しく、由比も女学院へ行ってしまった。
それ以外の者も、いつのまにか見かけなくなったり、遠い街へと嫁いでいったり、家業を手伝うのに忙しくずいぶんと長い間会っていない者ばかりだ。
その代わり新しい出会いもあったが、あの頃の雰囲気とは違うもので、昔の事を思い出すとやはり寂しさを感じてしまう。
「あーあ、百夜までいなくなってしまうのかぁ。寂しくなるなぁ」
わざとらしく明るい口調で茜が言う。
「だ、か、ら、行かないもの」
百夜もわざとらしく返す。
そうして、二人でくすくすと笑いあう。
百夜だって、茜が遠い存在になってしまうことは寂しいし嫌だ。
確かに、変わってしまうものはある。でも、ずっと一緒にいてくれる人もいる。
"彼"がそういってくれたから、百夜は信じている。
そのために、女学院行きはなんとしても阻止しなければいけないと、改めて心に誓ったのだった。