一章 六
和真のあとについて、母屋へと続く道を歩く。
一度修学館へ戻り、理奥がいないことを確認すると「母屋へは一本道だから、理奥が戻ってきてもと行き違いになることはないだろう」ということで母屋に向かうことになった。
前回、百夜がこの道を歩いたのは二ヶ月ほど前。まだ夏の始まりだった。その頃まだつぼみをつけ始めたころだった道の脇の朝顔は、既に枯れてしまっている。
何度も通り、どこを曲がればよいのか百夜は知っているのに、目に映る景色は通るたびに様変わりして、まるで百夜だけ時間から取り残されているようだ。
「おめでとう」
今まで黙々と歩いていた和真が急に口を開いた。何の事だか呑み込めていない百夜に、「理奥のこと」と付け足す。
「どうして私に?」
「そりゃ、理奥に一番近い人だから」
からかい交じりの言葉に、「もう!」と百夜は頬を膨らませる。そんな百夜を見ながら、和真は悪びれもせずに意味深な笑みを浮かべている。
百夜の理奥への気持ちが、兄への思慕のようなものと異なることは、和真とその妹の茜にはいつのまにか知られていた。
むしろ、百夜自身には当たり前すぎた感情が、特別なものではないかと教えてくれたのが茜だった。
いぶかしげな百夜に、茜はやや興奮気味に一冊の本を貸してくれた。
それは海外の小説で、郊外で暮らすおてんばな少女と、少女に思わず意地悪をしてしまう少年の成長を主軸とした恋愛物語だった。
百夜は少女が巻き起こす事件に気をもむ一方、年を重ねていく少女と少年の感情の変化に胸が張り裂けそうになった。
『このまま時間が止まればいいのに』
物語の中盤での少女の独白は、百夜の気持ちにも重なった。
--これが、恋。
百夜は自分の抱いていた感情の名前を知った。
和真には、おそらく茜を伝って知れ渡ったのだろう。
それからというもの、茜は百夜をこっそりからかい、二人の動向を聞きたがった。和真がそんな茜を宥めるのもよくある光景だった。
百夜は気持ちを振り回され、疲れることもあったが、自分の気持ちをわかってくれて、応援してくれる存在があるというのは嫌ではなかった。
「理奥はすごいよなぁ。ここに来たばっかりの頃は読めない文字も多かったのに」
しみじみとつぶやいた和真の言葉に、百夜も静かに頷く。
「うん、すごい」
昔、所長が言っていた。
理奥は呑み込みがはやい、と。
それを聞いた百夜は、自分のことのように誇らしい気持ちになった。
それと同時に、毎朝早く起きて勉強していたりと、皆の知らない理奥の努力を知っていることが、なぜだか嬉しかった。
「すごいよな…」
和真はそう繰り返すと、再び黙りこんだ。
今日の和真は何かおかしい。
普段から積極的に話すほうではないが、百夜に合わせてあれこれと話をしてくれる。
ーー私のことを怒っているからだわ。
百夜はごくりと唾を飲み込む。
百夜の家にも結城屋の古い帳簿や図案が収められた書庫があるが、思い返せば、厳重に管理されていた。
百夜には自室にある教科書との差がよくわからないが、そういうものなのだろう。
和真がそこまで怒るのも当然だ。
百夜は自然とうつむき、その足取りもとぼとぼと元気のないものになった。
「和真さん!」
しばらく歩いていると理奥の声が聞こえた。
百夜が顔をあげるとこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「よかった。所長から収蔵庫に行ったって聞いて」
「悪い。ついでに参考になるような資料見繕ってたら、約束の時間過ぎてた」
「百夜も一緒だったんだ」
「う、うん」
「収蔵庫で拾ってきた」
「え? えぇ!?」
「お前が心配だったんだってさ」
「ちょっと!」
百夜は慌てて和真の袖をひく。
--そこまでは言っていないのに!
これではまるで、理奥のことを好きだと言っているようではないか。
「そっか。心配かけてごめんね」
「う、ううん!全然平気!」
百夜は顔を赤らめながら俯く。
「百夜も茜のところに行くっていうし、俺の部屋で書類書くか」
「じゃあお言葉に甘えて。荷物、僕が持ちますよ。ほら、百夜も行こう」
理奥は、和真の背負っていた風呂敷を受け取りながら、所在なさげにしていた百夜の名前を呼ぶ。
「うん」
百夜は二人に続いて、岩槻家の玄関をくぐった。