五章 三
「いつまでそうしているのですか」
声とともに障子戸が開け放たれた。
百夜が気怠げに顔を上げるよりも早く、声の主である世津は百夜に近づき脇に手を入れて強引に立ち上がらせると、崩れていた前身頃を整えた。
「もうすぐ女学院に入る年頃の子が、はしたない」
「だって、理奥がひどいんだもの。帝都のほかの人のおうちに行くって」
「百夜様の知っている理奥は、考えもなしにそういうことをいう人ですか?」
言葉に詰まる百夜を世津はくるりと後ろを向かせ、帯をほどき、結びなおし始める。
「いいことじゃないですか。こんな幸運なかなかないですよ」
「ばあやは知っていたの?」
「旦那様から軽くは聞いておりました。ただ、迷っているからどうなるかわからない、と」
「……どうしてここじゃ駄目なんだろう」
「百夜様には何でもできるように思えても、理奥が同じように感じてるとは限りませんからね。理奥はここではできないことがしたいのでしょう。決して、天城やこの家のことが嫌いになったのではないと思いますよ」
不服そうに口を尖らせる百夜に、世津は言葉を重ねる。
「いいですか、百夜様。私も永遠にここにはいられません。歳ですし、体が言うことを聞かなくなったらお役御免です」
「どうしてそういうこと言うの」
「誰であっても、いずれ別れはやってきます。それでも、ずっと一緒にいたい人がいるのはわかります。そのためには、相手にも頼ってもらえるような人間にならないといけません。百夜様が理奥と一緒にいたいのはなぜですか?」
「やさしくて、かっこよくて……寂しいときもずっと一緒にいてくれたから」
「そうですね。理奥はいつも百夜様のことを慮っていましたね。では、百夜様は理奥が同じような状況で同じことができますか?」
「できるわ」
「では何故、理奥がやりたいと言っていることを応援してあげられないのですか。その思いに対して、どれだけ考えましたか」
百夜は「だって……」と小さくつぶやき、うつむいた。
「理奥と会えなくなるのは嫌」
その言葉を口に出した途端、百夜の目に涙がじんわりとあふれてきた。
自分が天城にいれば理奥ずっと一緒にいられると当たり前のように思っていた。ここは百夜の家であるけれど、理奥の家だとも思っていた。
理奥が出ていくなんて、考えたことがなかった。
「そうですね。寂しいですね」
絞り出すような百夜の声に、世津が百夜の頭をなでる。
「寂しい」。その言葉を聞いた時、百夜は自分の中で渦巻いていた感情が形になるのを感じた。
「寂しい気持ちまで偽らなくていいんです。ひどいと責めるのではなく、『寂しい』と伝えたらいいんです。せっかく理奥が相談しようとしても、百夜様が拒絶したら、これから先、百夜様に都合のよいところしか話してもらえなくなりますよ。それは悲しいでしょう?」
「うん」
「今の寂しさを糧にして、貴女がいつか理奥とまた会えた時に、理奥の隣にいられるような人間になりなさい」
唐突に、百夜は色々なことを思い出した。
茜に恵まれているから分からないといわれたこと。
和真がここ三カ月くらいなにか歯切れが悪かったこと。
沙耶に羨ましいと言われたこと。
百夜が理奥と一緒にいたいと思い続けていた間、みんな、百夜の知らない思いを抱えていた。
だったら、理奥が抱えていた思いとは何なのか。
それを百夜は知らなかった。
ふいに、バタバタと駆ける足音が聞こえた。
「屋敷の中で走るのはおやめなさい」
世津が声を張り上げる。
百夜が驚いているうちに、その人物は姿を現した。
「世津さん……百夜!」
「り…おう……」
「よかった。無事で」
理奥の安堵の表情を見て、百夜は胸が締め付けられた。
それは罪悪感であり、うれしさでもあった。
「走ってきたのですか? 岩槻さんのお宅から」
「はい。百夜に話していないことがあるって気づいて」
「そうですか。百夜様も理奥に伝えたいことがあるそうですよ」
「えっ」
そんなことは言ってないし、聞いてもいない。
慌てた否定しようとする百夜を、世津は一瞥して黙らせた。
「お茶をお持ちしますね」
世津が立ち上がり、その場には百夜と理奥の二人だけ残された。




