五章 二
「みんな、みんな、大嫌い」
百夜の部屋から聞こえる叫び声を耳にしながら、上尾世津は長く息を吐いた。
やはりそうなってしまったか。
百夜が家を出て行ったすぐあと、正隆が帰宅した。
屋敷に滞在したのは短い時間だったが、理奥のことを告げ、また出かけて行った。
理奥が役人の書生になるなんて、めでたいことだと世津は思った。
と同時に、百夜のことが気がかりになった。
あの子は快く送り出せるのか。駄々をこねるのか。
世津がそうだということは、おそらく、理奥はもっと気に病んでいるだろう。
めでたいことが誰にとっても良い事かはわからない。
昔、同じように思ったことがある。
正紀が椿を連れてきたときだ。
椿は大奥様とは全く違う嫁だった。
結城屋の職員としては優秀なところもあったのかもしれない。
けれど、家柄も大したところではなく、家族が増えることよりも服飾について考えることを喜びとしていた。
そしてなお困ったことに、正紀もそれを悪く思っていないようだった。
正紀の婚姻はめでたいことだったが、ふさわしい相手だとは世津には思えなかった。
天城の屋敷に毎日いたのは、おそらく百夜を産む前後の1年と少しの期間で、その後は少しずつ家を空ける日が多くなっていった。
世津は百夜のことをかわいそうな子だと思っていた。
両親は家を空けることが多く、祖父母は遠くに住み、幼いころから勉強や習い事に追われ、屋敷の外にも出れず、将来はこの家の重荷を担うことになるかわいそうな子。
世津は正紀が幼かったころから結城家で働いているが、正紀には常に近くに母親がいたし、兄弟もいた。家の中にいても退屈しなかっただろう。
「百夜様は寂しくありませんか?」
幼い百夜に世津が何気なくかけた言葉は、すこし底意地の悪さから来たものかもしれない。
百夜が寂しいと言ったら、椿にももっと強く家にいるよう言うことができるだろう。
けれど予想とは反対に、百夜は心底不思議そうに言ってきた。
「どうして?」
それを聞いて世津は、自分の勝手な思い込みを恥じた。
思い出せば、両親がそろって家を空けるときに百夜が泣くこともあったが「どうして百夜はお留守番なの?」と言う。
この子は両親に置いて行かれるのが嫌なのではない。
自分がついていけないのが嫌なのだ。
だから、ついていけるように熱心に勉強に励むし、書庫の図案を持ち出しては怒られるし、早く大人になりたいと願う。
色々なことに興味を持っていた少女は、両親の死を機にどこかおびえていることが増えた。
両親の死からしばらくして、理奥から百夜を屋敷の外に連れ出すことを提案された。
多くの使用人は百夜の健康を心配していたので、日常生活を送れるくらいまで回復させた功労者として理奥に好意を抱いていた。世津とて例外ではないが、その提案にはのれなかった。
いつかは外の世界を知っていくが、それは学校だったり、結城の店だったり、社交場だったりするはずで、決して庶民の集まりではない。
そう断ったら、あの生意気な少年は言ったのだ。
「正紀様も椿様も、そんなことは言わないと思いますけど」
確かにその通りだ。
「いつかこの子にたくさんの景色を見せてあげたい」
椿はよくそう言っていた。
「百夜様はこのままだと誰も信用できず、また部屋にこもってしまいますよ」
「その”信頼できる人”が庶民のなかにいると?」
「わからないでしょう? 少なくとも、岩槻の人たちは結城の人たちより良い人ですよ」
「口を慎みなさい」
「……申し訳ありません。でも、上尾さんもこのままでは駄目だと思っていらっしゃいますよね」
世津は言葉に詰まった。
その通りだ。
最終的には正隆が判断することであるが、正隆の考えにないことを上申するのは世津の役目であった。
けれど、庶民であり使用人でしかない世津には、ことの善悪が分からなかった。
分からないなりに考えて、最終的には百夜の意向もあり、世津は根負けした。
あの時の自分の判断は、どこまで正しかったのだろう。
もし、理奥の提案にのっていなかったら、百夜はしばらくは退屈な思いをしたかもしれないが、正隆からふさわしい友人を紹介してもらえたかもしれない。理奥に依存することなく、女学院に行っていたかもしれない。
そうしたら、百夜はもっと幸せに過ごせたかもしれない。
後悔は常にある。
それでも、次第に両親が亡くなる前のように笑うようになった百夜を見て、世津は安心したのだ。
きっと、この子はこうして自分で人との出会いを見つけられるのだと思ったのだ。
結城夫妻が亡くなった時。
幼く残された百夜が哀れで、世津はただ、当たり障りのないように見守ることしかできなかった。
今はあの時とは違う。
百夜も分別がつくくらいには大きくなった。
それに、今の百夜は自分の思う通りに行かないことに駄々をこねているだけだ。
「いつまで、そうしているのですか」
世津は百夜の部屋の戸を開け、散乱した部屋の隅で泣きじゃくる百夜に声をかけた。




