五章 一
道の脇に並ぶ屋台。その間を埋めるような人混み。
その人混みを押しのけるようにして百夜は家路を駆け抜けた。
勢いのまま玄関をくぐると、
「あら、もうお帰りですか?」
聞こえたばあやの声も無視をして、自室に入る。障子戸を勢いよく閉めると、そのままへなへなと座り込んだ。
百夜が一人で外から帰ってきたのは初めてだった。自分でも、よく家にたどり着いたと思う。
途中、家の明かりも届かない真っ暗な道もあった。
けれど、百夜は自分の外側にある全てに意識を向けられる余裕がなかった。
もう帰ってこないと言う理奥を思い出す。
「嘘つき!」
身勝手だと非難する茜のことを思い出す。
「みんな、みんな、大嫌い」
百夜の気持ちを置いていくかのように、屋敷の塀の向こうの楽しげな音が聞こえる。
それは、百夜の両親が亡くなった時のようだった。
あの時も、両親との観月祭までに帰ってくるという約束は守られなかった。
「お父様も、お母様も大嫌い……」
膝を両手で抱え、その間に顔を埋めながら百夜が放った言葉は涙声で、何を言っているか聞き取れないものになった。
五年前。両親が死んだと聞いた時、百夜にはその意味を理解できず、使用人達があわただしく動いているのを、ただ、ぼんやりと不思議そうに眺めていた。
だいぶ後になって知ったことだが、両親の遺体は損傷が大きかったため事故現場近くで火葬され、屋敷についたときには既に遺骨になっていたそうだ。
形だけの葬儀が終わり、親戚の言い争う声ばかりが聞こえるようになって、百夜は異変に気付いた。
あれほど多くの大人がいるのに、父と母の姿が見えない。
屋敷中を探し回っても見つからず、ばあやに尋ねた。
「ねぇ、せつ。お父様とお母様は?」
「お父様とお母様は黄泉の国へ旅立たれました」
「いつお帰りになられるの?」
「……よいですか、百夜様。もうお父様とお母様がこの家に戻られることはありません。お顔をみたり、お話ししたり、一緒にご飯を食べたりすることはできないのです」
もう二度と顔を見られない。
泣き崩れるばあやを見ながら、百夜の中にその言葉がすとんと落ちてきた。
と同時に、百夜に声をかけてくる親戚達の、不自然な笑顔や優しい言葉の意味も理解した。
彼らは両親の持っていたものを奪いあっていて、百夜はそれを手に入れるための道具でしかないのだ。
不要になったら捨てられてしまうただの道具でしか。
途端に目の前のすべてが、幼いころからよく知っているはずのばあやでさえも、恐ろしいものに思えた。
「百夜様?」
肩に伸ばされたばあやの手をすり抜け、百夜は踵を返すと、一目散に自分の部屋に逃げ込んだ。
部屋を閉ざすと、張り詰めていた糸が切れたかのように涙があふれた。
それは両親が恋しかったからか、自分の居場所がなくなることへの不安だったのか、百夜にはわからなかった。
目が腫れて痛くなっても、涙は止まらなかった。
泣いていても、駆け寄って抱きしめてくれる人はもういないのだ。
「大丈夫だよ。百夜のことは僕が守るから」
そんな中、従兄の遥はそういって抱きしめてくれた。
暗闇に灯る蝋燭の明かりのような温もり。
それにすがるように、百夜は自分の存在を確かめた。
けれどそんな小さな希望でさえもすぐに吹き消えてしまう。
「百夜はうちの遥と仲が良いし、私がこの家を継ぐのが百夜にとってもよいのではないかね」
叔父、遥の父親がそう話しているのを聞いた瞬間、蝋燭の火がふっと消えるように、百夜を支えていたものが崩れ落ちた。
結局は遥も彼らの仲間でしかないのだ。
信じられる人は誰もいない。
そう悟ってから、百夜は自室にこもるようになった。
両親が与えてくれたこの部屋だけが、百夜を守ってくれる聖域だった。
手洗いに行こうと部屋を出るたびに、恐怖で心が締め付けられる。誰かに会えば外に追い出されてしまいそうで、隠れながら廊下を歩く。そして、無事に部屋に戻ってこられたら安堵の息を吐くのだ。
誰かが無理やり戸を開けようものなら、部屋のものを手当たり次第に投げて追い返した。
理奥と出会ったのはそんな時だった。
この状況で新しい登場人物が現れるとは思えず、理奥と出会った翌日、目が覚めた百夜は夢だと思った。
父と母に会ったという金糸のような髪の少年が自分を訪ねてくる都合の良い夢。
ふいに百夜の視界が揺らぐ。
もう何度も両親は本当は生きているのではないかと期待をし、そのぶんだけ絶望を味わったはずなのに、まだ涙は枯れる気配をみせない。
百夜がごしごしと手の甲で涙を拭き障子戸を見ると、その日の差し込み具合からみるに昼時だった。
こんな遅くまで起きていると、よく母やばあやに「百夜、そろそろ起きなさい」と怒られたものだ。
今日もこんなに遅くまで寝てしまったのかと思う一方で、それはたいした問題ではないかと百夜は思った。
百夜は何をしたいとも思えなかった。
何かをしようとしても、家じゅうにあふれる両親との思い出を呼び起こして、底のない沼に引きずり戻される。
仕事で外出していることが多い両親と百夜が過ごした時間は少ないように思えたが、その思い出はあちこちに眠っていた。
それに、最近の百夜はお腹もあまりすかないし、寝ても寝ても眠気がやってきていた。
だから、今日もこうしてひとり、部屋でぼうっと過ごすだけ。
百夜は現実から目を背けるように目を閉じた。
「百夜さま、お食事をお持ちしました。起きていらっしゃいますか?」
暗闇に光が差し込むように声が落ちてきて、百夜は飛び起きた。
障子に映るのは短髪の人物の影。
昨夜のことが夢ではなかったことへの驚きと混乱で、百夜の口が無意味に開閉を繰り返す。
そのうちに昨晩のことが百夜の脳裏に蘇ってきた。
問い詰めたら両親はやはり亡くなっていたことを告げられたこと。
そのまま、泣き始めてしまったこと。
そして、泣き止むまで抱きかかえてくれた彼に安心して、腕の中で寝てしまったこと。
彼の影はしばらく動かなかったが、食事の置かれた盆を置き立ち去ろうとする気配がした。
行ってしまう。
百夜は一人残される焦燥感から反射的に彼を引きとめようとした。けれど彼にかけようとした声は、のどの辺りで止まってしまった。
きっとあの人も同じだ。
両親が亡くなって、突如現れた親戚たちと同じ。
表面では親切な人を装っていても、百夜が見えないと思っているところで、いかに利益を得るかしか考えていないに決まっている。
もしそうでなかったとしても、百夜がこの屋敷から追い出されてしまったら離れてしまう。
だったら、最初から優しくなんてしてほしくなかった。
辛い気持ちから逃げようと百夜は再び床に転がり、目を閉じる。
そのとき、着物の袖が床に転がっていた手箱にひっかかっあ。ひっくり返した手箱の中に入っていた簪が床にぶちまけられ、派手な音を立てる。
百夜はぎくりと身を竦めた。
「百夜さま……? 大丈夫ですか?」
彼が動きを止め、こちらに呼びかける。百夜は息を殺して寝ているふりを決め込んだ。
「お昼ごはんこちらに置いておきますね。最近あまりお食事を召し上がらないと言うことなのでお粥を作ってみました。口に合うとよいのですが」
少しの間返答を待っていたらしい彼は、「よかったら感想きかせてくださいね」と言い残すと去って行った。
彼の足音がしなくなってから、百夜はこっそり障子戸をそっと開け、盆を手繰り寄せた。
立ち上る湯気に混じって届く薬草の香りにお腹が鳴る。
急いで戸を閉めると、匙で掬って口へ運んだ。空腹に暖かさがじんわりと広がっていく。
彼が作ってくれたのだろうか。
百夜のために。
百夜は胸のあたりがじんわりと暖かくなり、思いがけず涙があふれた。
けれど、その気持ちを取り消すようにあわてて頭を振る。
粥を半分ほど残すと、百夜はお盆を外に出した。
(だめだ。簡単に信じちゃいけない)
けれどもそんな気持ちとは裏腹に、百夜は頭の中ではどう感想を言えばよいのかを考えていた。
その後も、食事の時間になると彼は百夜の部屋を訪ねてきた。
厨房にあったものを適当に使って作られたというその食事は、味の上品さにはかけていたが、不思議とおいしかった。
食事の感想をきっかけに、百夜は彼からいろんな話を聞いた。
彼の母親が紗瑠詩絵出身であること、住んでいた南波という港町のこと、母親が亡くなってから彼は貿易船の荷役として働き、当番制で食事を作っていたこと。
彼の話が面白かったからか。それとも両親がいないという話を聞き、百夜は自分の仲間だと思ったからか。
最初は彼が一方的に話し、百夜は去り際に二、三言呟くだけだったが、二人が話す時間は次第に長くなって行った。
食事をする間の短い時間だったが、彼の話す内容、次はどんな食事が出るのか、いろいろ考えているうちに目の前が真っ暗な状況から少し抜け出せていた。
そうしているうちに少しずつ、身なりを整え、部屋を片付け、部屋の外に出て、前のように勉強や稽古ごとに出られるようになっていった。
いつしか学問所に時々連れて行ってくれるようになり、友達もできた。
今、百夜は両親の表情や声を思い出すことはできない。
それでも両親のことを思い出すと胸が締め付けられそうになるし、時々泣きそうにもなる。でも、ちゃんと起きて、食べて、勉強をして、遊んで、生きている。
全部、彼が、理奥がいてくれたからできたことだ。
それなのに、どうしていなくなるというんだろう。




