四章 五
――百夜のことは苦手だった。
理奥は、時々百夜の名を呼びながら、結城の屋敷までの道を急ぐ。
脳裏には昔のことが蘇っていた。
百夜は確かに幼いころに両親を亡くしたし、その前も両親と過ごせた時間は少なかったのだろう。
けれど、恵まれた環境で育ち、それを当たり前として我慢がない。
そんな百夜のことが苦手だったが、正隆との賭けのために……自分の居場所を守るために、彼女の望む言葉を与えた。
そうでなければ、また、あの港町での生活に戻ってしまう。もう二度と、誰かがあの環境から掬い上げてくれることはないだろう。
百夜が求めているものは、すごくわかりやすかった。
どんな時も傍にいてくれる優しい人。
それは、幼き日の自分が欲しくて手に入らなかったものだから。
そう考えて、理奥は自分に吐き気がした。
でも、四年前のあの日。
「みんな、いつかいなくなっちゃうもの」
そう言って泣いている百夜を見て、いつも能天気に見えるこの子の奥底に色濃く残る喪失と孤独に初めて触れた気がした。
同時に、理奥のそばを離れない百夜が、在りし日の結城夫妻に対する自分と重なった。
そんなことをしても喪失感は埋まりはしないのに……。
だからこそ、理奥はそうじゃないと言いたかった。
理奥自身がそうだったから。
誰も信じられない中で、信じられる人に出会えたから。
その人がいなくなっても、他にも信じられる人はいたから。
思えば、結城の屋敷で働きながら学問所に通い始めた頃、理奥は荒れていた。自覚はあまりなかったが、慣れない環境に適応できず、どうふるまえばよいのか分からなかった。
あの時に突き放さないでいてくれた和真に、理奥は今でも感謝している。
きっと、百夜と一年くらいの付き合いしかない理奥の言葉には説得力がないだろう。
説得力がないなら、理奥自身がそうなってみようと思った。
百夜にとって都合のいい人じゃなく、信じられる人に。
これは、今の環境を与えてくれた、正紀と椿への恩返しだ。
ずっと結城の家で働いていければよいと、理奥は思っていた。
けれど、できることが少しずつ増えるにつれて、どこまで行けるか試してみたいと思い始めてしまった。
「出場する分には問題ないが、もし最終選考に残ったとして何がやりたい?」
天望試験に出る許しをもらいに行ったとき、正隆からそう言われた。
深く考えていなかった理奥は、ふと、初めて常盤国に来た時のことを思い出した。
「もっと、常盤国の重要性を高められるような方法を考えられる人間になりたいです。例えば、帝都のような大きな国との交通が良くなれば、物流が多くなって豊かになります。そういう方法を考えたいです」
「それは全部、君が考えたことかね」
「いえ。この国に初めて来たとき、すごく大変でした。その時、和真さんが言っていたことをずっと考えていました。もし、他の都市と楽に行き来ができたら、百夜も両親と一緒にいられる時間が長かったかもしれない。そしたら……」
――そしたらもっと安全性を確認しながら、帰ってこれたかもしれない。
最後の一文を理奥は飲み込んだ。
正紀と椿がいるこの屋敷で働くことを、理奥は今でも考えることがある。
天望試験の結果が張り出され、その中に自分の名前がなかった時。
やはりこの程度だったか、と理奥は思った。
思いに区切りをつけるようにしばらくたっていると、後ろから肩を叩かれた。
振り向くと男性が立っていた。
歳は四十半ばだろうか。試験の運営職員の衣装である直衣に身を包んでいた。
理奥の記憶にない人物だったので驚いて声を出せないでいると、彼は身衣から名刺を取り出した。
人事や祭事を司り、大学寮を統括する部署の官吏を務めるという男の名は、篠崎武といった。
「私の家の書生にならないかい?」
「書生…ですか?」
理奥は言われた意味が分からなかった。
「私の家が君の衣食住や学費の面倒を見るということだよ。君は見どころがあるし、見目もよい。何より、外国の血が混じっているなんて珍しい」
「……僕は、何をすればよいのでしょう」
理奥は訝しげな様子を隠さずに言葉を返した。
うまい話に裏がないはずがない。
相手がこちらの望むことを言ってきた場合、必ずそれによって相手が得をすることがある。それを見極め、こちらの出方を考える。
それは、正隆から教えてもらったことだ。
「真面目に勉学にいそしんでもらって、できれば優秀な成績で卒業して、できればこの国の官僚になってもらいたい。といっても、これは国を憂いてのことではなくて、私の娯楽みたいなものさ。そこに書いてある住所に来てもらえば、家の者が案内するよ」
ふざけていると理奥は思ったが、裕福な人間とはそのようなものなのかもしれない。
「……返事を待っていただくことは可能ですか」
「もちろん。いつでも来なさい」
その日の午後、迎えに来た所長とともに、理奥は篠崎家へ赴いた。
迎えてくれた篠崎の奥方は、2人に屋敷を案内してくれた。
途中、何人かの書生とすれ違った。
帰国前に駄目もとで結城の店に立ち寄ったところ、運よく正隆と会え、思いの外あっさりと篠崎家の書生になることについて許可をもらえた。
それでも。
(きっと、あの子はきっと泣くだろうな)
それは、篠崎から話を聞いてから、ずっと理奥の頭の片隅にある言葉だった。
すぐに返答できなかったのは、結城に雇われている身であるからだったが、それ以上に百夜のことが気がかりだった。
――どこか危ないところでしゃがみこんだりしていないだろうか。
市街地の明かりが見えてくるところまで辿り着きながら、理奥は先ほど岩槻家の庭先でしゃがみこんでいた百夜を思い出す。
そういった時に駆けつけて言葉をかけるのは、長い間、理奥の役割だった。
でも、ここ数年、ぼんやりと考えていた。
もう、百夜に対する自分の役割は終わったのではないか、と。
思い返せば、正隆の仕事の合間に見かけるご令嬢方の隣には女性が控えていた。
少し考えれば、当たり前だ。
性別が違えばわかってあげられないことも多いだろうし、これからそれは増えていくだろう。
実際、理奥がしているのは宥めて甘やかすだけで、厳しく言うところとの線引きはできていない。
きっと、沙耶がその役割なのだと思う。
けれど。
「百夜様と一緒にいるのは退屈よ」
仕事である以上、面と向かって悪意をもった対応はしていないだろうが、沙耶にしては珍しく否定的な言いぶりをしていた。
百夜と沙耶の相性は良さそうにない。
茜は対等な関係かもしれないが、理奥の役割が茜にすり替わるだけならば、たぶん意味がない。
誰がいなくなっても、進んでいけるようになってほしい。
だったら、百夜がどこかで対等な相談相手になれるような多くの女性と出会えたらいいと理奥は思った。
例えば、そう、稲花女学院で。
だから百夜がうずくまって泣いていても理奥は手を差し伸べない。
もう、それは自分の役目ではないから。
「ずっと一緒にいるって言ったのに! 嘘つき!」
百夜にそう言われて気づいた。
確かに昔、ずっと一緒にいると約束した気もする。
おそらく、軽い気持ちで言ったから忘れていた。
「成績が良かったら大学寮に行くこと、百夜に伝えてないの?」
あれは、そう、結城様に許しを得て天望試験を受けることが決まった日。
和真にそう訊かれたことがある。
「そうなってから言おうと思ってます。叶わないと嫌だし」
「いいのか? あれ、お前にめちゃくちゃ気があるじゃん」
改めて言われなくても、理奥はもうずっと前から知っていた。
「うーん……和真さんは雪姉ぇのこと覚えています?」
「そりゃ、幼馴染だし」
理奥は稲川学問所に通い始めたころ、なにかと世話をやいてくれた女性を思い出した。彼女は三年前に別の町に嫁いでいった。もう理奥が会うことはないだろう。
「僕、雪姉ぇのこと好きだったんですよね」
「……へぇ」
「でも、今もそうかというと違って。独りぼっちだった子供が、親切にしてくれた人を好きになるのはよくあることですよ。だから、百夜もいつか僕のことなんて忘れます」
「そうかなぁ」
「そういうもんです」
その意見は今も変わっていない。
けれど一つだけ間違った。
いずれ忘れる一時の感情だからといって、粗末にしていいわけがない。




