三章 五
彼が長く過ごした港町を出てから、三週間が経った。
途中、"あの人"の仕事のために街に滞在したりしながら、目的地である常盤国天城へ向かう。
常盤国は海に面しない国だ。
そう彼に教えてくれたのは、あの人の付き人として天城からやってきた男だった。
和真と名乗ったその男は十数人の一行の中では一番彼に年が近く、旅の間なにかと彼の世話をしてくれた。
"あの人"の口利きがあったとはいえ、新参者の使用人でしかない彼は一行の最後尾についていくこととなった。
和真は、"あの人"が資金援助をしている学問所の経営者の嫡子だった。その恩義に報いるため、また、社会勉強になることも多いため、こうしてあの人の仕事に付き人としてついていくこともあると彼に語った。
旅を共にしたのは和真のように付き人として最初から最後まで道を同じくする者もいれば、道中の危険を少なくするため特定の区間だけ加わった者もいた。
生まれてからあの港町を出たことがない彼は町の外の世界が怖かったが、 和真が近くにいてくれたおかげで彼は少しだけ安心することができた。
"あの人"とは港町を出てからはあまり会っていない。
街に滞在していたころに宿舎に訪ねてきたときくらいだ。
といっても、彼に会うためにわざわざやってきたわけではなく、こうして従者を労うために酒や食べ物を差し入れてくれるのはよくあることだという。
心細かったけれど、そんな時彼は胸に手を当てた。
彼の着物の懐には港町を出る前にあの人と交わした契約書が入っていた。それは、あの人と彼の繋がりであり、彼の誇りでもあった。
途中、暴風雨のため数日足止めとなりつつも、一行は進んでいった。
常盤国に近づくにつれ人の流れは少なくなり、山の中を切り開きうねるように整備された道を進んでいく。
「あとどれくらいでしょうか」
上り坂と下り坂を繰り返す道につかれて理奥が尋ねると、和真は少し考えて「三日くらいかな」と答えた。
「結城の旦那、娘さんと月祭りまでには帰ると約束したそうだから、それまでには着くだろう」
和真の返答に目的地までにだいぶ近づいたと思うものの、まだ長い先行きを思って彼はため息をついた。
先日の暴風雨でぬかるんだ道に足をとられ、疲労が倍増している気もする。
「結城の屋敷からうちの学問所までも結構遠いし坂道だからな。弱音吐いてられないぞ」
「もっと簡単に移動ができれば良いのに」
「そうだな。桜宮から松宮の間は、近いうちに、高速で走る乗り物で運搬する手段が確立されるそうだ」
「さすが。この辺にも通ったらいいのに」
「そのためには、天城を含めて常盤国の複数個所をもっと重要な街だと思わせる必要があるな」
愚痴に返ってきた言葉に彼は驚いて和真を見上げた。
「学問所の人はみんなそのようなことを考えているのですか?」
「どうだろう。俺は、天城は好きな場所だけれど、人と物が集まりやすいところにはどうしたって勝てないものがある。それさえどうにかなればと考えることはあるかな。といっても、具体的にどうすればいいのかまでは思いつかないんだが」
そういって和真は困ったように笑う。
今まで彼は、文字や文章を覚えることや計算など目の前にあるものを学問だと思い、ひたすら知識を吸収することしかできなかった。
けれど、学問はきっと和真の言うようなことを実現させるためのものだと、彼はその時おぼろげながらも感じた。
その時、突如として耳に入ってきた地鳴りに様な音に彼の意識は研ぎ澄まされた。
その音に紛れて馬の嘶きや人の悲鳴が混じる。
彼がその不穏な音の正体を尋ねる前に、和真が駆け出していた。不安になった彼は後を追う。
急に視界が途切れた。
土砂崩れだ、と理解したのは少ししてからだ。
馬車が崩れた山肌の下敷きになっていた。
土砂の間から見える車の窓ガラスは割られ、柱がおかしな形に曲がっている。 その状況を認識した途端、彼の全身から血の気が引いていった。
他の従者や和真が馬車に駆け寄り、中の人間を助け出そうとしている。
けれど彼はその場から一歩も動くことができず、ただ、どこか遠くの出来事のようにその様子を眺めていた。




