三章 四
稲花女学院を後にした百夜は、その日の宿泊のため、稲水国の港街である南波に向かった。
南波に着いた商品は桜宮へ送られることが多いため、南波へと続く道は整備されており、途中に通る町も大きな建物が多かった。
百夜の目にそれらはぼんやりとしか映らず、ただ菖蒲と交わした言葉を反芻していた。
ずっと、天城で暮らしていくのだと思っていた。
そこに突如として現れた選択肢。
それが現実を帯びるにしたがって、どうすればよいのか分からなくなり、しまいにはあれだけ強固だった女学院には行かないという決心でさえ、自分のものか分からなくなってきた。
五年前、唐突に当たり前の生活がなくなった。
当時は両親を亡くした寂しさや喪失感、これからの生活への不安でいっぱいだったが、理奥のおかげもあって、いつしか今の生活を受け入れられるようになった。
きっと、あの時以上のことはないだろう。
だとしたら女学院へ行っても同じなのだ。
菖蒲を見ている限り、女学院での生活は悪くないだろう。
理奥や茜と離れる寂しさもだんだん薄れ、いつしか新しい「当たり前」になるに違いない。
そうとわかっていても、もやもやとした気持ちで百夜はいっぱいになるのだった。
「ねぇ、沙耶は学校に行ったことがある?」
その夜、寝支度を終えた百夜は荷物を片付ける沙耶に尋ねた。
「結城で働いている間に読み書きや礼儀作法は習いましたけれど、学校は行っていないです。そんな身分ではありませんから」
「そういうものなの?」
「ええ。学校に通えるのは、それなりの家柄に生まれた人だけです。私の家は農家ですから、勉学や作法はこうして奉公しながら教わる程度で丁度いいんです」
「茜は行きたいって言っていたわ。沙耶も学校に行きたかったの?」
「そうですね。憧れはあります。でも私はどちらかというと……生活のことを考えずに過ごしてみたかったです」
沙耶の表情や声色もいつもと変わらない。 百夜はその言葉が示すことを理解することもできない。
けれど、ひやりと頬を撫でられたような気がした。
「私個人の感想は別としても、学問や作法を知っていることは力になると思いますよ」
「ちから?」
「騙されずに済んだり、よりよい環境を手に入れられたり。周りの人と渡り合える力があるということは、選ぶことができるということですから。百夜様が女学院で得たものは、いつか百夜様を助けると思いますよ」
沙耶の言っていることは理解できる。けれど、百夜の胸の中にある言葉にできない気持ちはなくならなかった。
翌朝、仕事に出かけた祖父を待っている間、沙耶に連れられて結城屋の南波支店に足を運んだ。
店舗前で神社を見つけた百夜は、少しだけと沙耶にお願いして立ち寄らせてもらい、理奥の心願成就を祈った。
今日は十月十五日。天望試験の日だ。
寄り道をしながらたどり着いた店舗内は賑わっていた。
だが店として賑わっているのではなく、使用人や常連らしき人々が酒や食べ物を持ってきて歓談していた。
前日に立ち寄った際は呉服が掛けられていた畳の間も商品が片づけられ、宴会場に近くなっている。どうやら、観月祭の間はこうして半分仕事、半分休暇のような状況が続くらしい。
「あら、百夜お嬢様。中へどうぞどうぞ。ねぇ、梨まだある?」
年配の女性に押されるようにして人の輪に加わった途端、梨や柿を勧められる。
「沙耶ちゃんじゃない。元気そうね。実家にもどったの?」
「今は本家で百夜お嬢様の側女中をさせてもらってます。こちらが百夜お嬢様です」
「正紀様と椿様の娘さん?」
「確かに椿様に目元がそっくり」
たくさんの人に見つめられ、百夜は顔を赤らめてうつむいた。
「本家といえば、あのかわいい金髪の坊っちゃんは元気かい?」
「理奥のこと?」
理奥の話に百夜は食いついた。
「そうだ。理奥ちゃん」
「理奥は今年、望試に出ているの」
「本当かい。そりゃぁたまげた。あのかわいい子がたくましくなって」
「子供向けの晴着の宣伝で女物の着物を着たことがあってな。それがえらく似合ってたんだよ。あれの写真残ってるかねぇ」
「私、見たい!」
百夜が目を輝かせると、「確か書庫に残っていたような。見てきますね」と若い女性が部屋を出る。
「懐かしいねぇ。あれは遥坊っちゃんも一緒だったっけね」
「遥坊っちゃんも今は大きくなっているんだろうねぇ」
「遥からは時々、手紙が来るの。今、商業学校に通ってるんですって」
百夜がそういうと、大人たちは「みんなどんどん大人になっていくんだねぇ」としみじみと言い合っていた。
百夜は最初、会ったこともないのに自分のことが知られていることが恥ずかしいし怖かったが、百夜が話を振っても応えてくれる。
こうして話をしていると、自分が天城の屋敷の中でずっと過ごしていたことが悔しくなった。
「写真、ありましたよ」
人の間を縫うように先ほどの女性が百夜の近くにやってきて、手に持っていた缶を開けた。中に入っていた写真をいくつか手に取り、そのうちの一枚を百夜に渡す。
「これですよ」
「わぁ。理奥かわいい」
そこに写っていたのは、神社を背景とした振袖姿の理奥と袴姿の遥の姿だった。
理奥は白粉と紅で顔を飾り、髪の毛は本来の色より少し濃い色の鬘を被り、ぱっと見は本人とは気づかない。けれど、目元付近や鼻筋に理奥の面影を感じた。
「これは南波に店が開店した時のじゃないか」
「これ本多さん? うわぁ若い」
缶をひっくり返してあれこれと思い出話が始まる。
畳の上に散らばった写真の中に、見覚えのあるものをみつけた。
祖父を囲むように従業員が集まっている。その右端に若い女性がいた。
「それ、椿様よ。ここで働き始めた頃かしらねぇ」
「お母さん?」
「懐かしいですね」
気づけば、後ろから初老の男性がのぞき込んでいた。
「噂をすれば。こちら、支店長の本多さん」
「はじめまして」
「はじめまして。ご両親からお話に伺っていた百夜お嬢様にお会いできて光栄です」
本多は畳に座ると、写真を懐かしそうに眺めた。
「奥様と旦那様が出会われたのも南波なのですよ。奥様のお家は布問屋だったのですが結城屋に合併されまして。それが気に入らなかったのか奥様は旦那さまをつけまわすようになり、付き人になり、やがて奥方になられたのです」
「本多さんはお父様やお母様のことよく知っているのね」
「私の恩人ですから。昔、娘が嫁に行くとき、欲しがっていた白無垢を用意できなかったことがあるんです。そうしたら、旦那さまと奥さまが金銭を足して用意してくださって。このご恩を返さねばと思ってやってきました」
百夜は改めて写真を眺める。
屋敷の外での両親のことを百夜は知らない。
ただ、色々な人と関わり、もちろん大変なこともあったと思うが、楽しそうというのは写真からみてとれた。
写真を眺めていた百夜は髪を引っ張られ、ぼうっとした意識から戻された。
見ると、五歳くらいの少女が目を輝かせていた。
「おねぇちゃんの髪飾りかわいい」
「こら、触らないの。百夜様、申し訳ありません」
百夜に謝る母親によって、百夜から引きはがされた少女が泣き出す。
どうやら従業員の娘らしく、月祭り期間は店舗に家族の出入りもあるらしい。
困り果てた百夜があたりを見回すと、視界の端に布切れが積まれているのが見つかった。
「あの、これもらってもいいですか」
百夜は誰に聞いたらいいのか分からず、傍にいた本多に尋ねると「どうぞ」と回答が返ってきた。
百夜は布切れを適当に見繕い、借りた鋏で形を整えると、少女に「今からおまじないをかけてもいい?」と尋ねた。
それは、茜がよく使っている言葉だった。
少女が頷くと、百夜は髪に布を編み込んだり、簡単な髪飾りを作ったりしながら、少女の髪形を整えていった。
茜はこういうことが得意で、都で流行りの恰好を集めた情報誌を見ながら、二人で試行錯誤していた。それが、思いがけないところで役に立った。
「おねぇちゃんありがとう!」
鏡を見た少女は、ぱっと笑顔になった。花が咲いたような笑顔だった。
それを見た他の少女たちが百夜に自分もとねだり、百夜の周りは髪結いを待つ行列ができていた。
百夜の様子を伺いつつ昔馴染みと話をしていた沙耶も髪飾りを作り始め、次第にその輪は広がっていった。
正隆が店に帰ってきた時も、百夜は髪の毛を結んでいる最中だった。
入り口で足を止めこちらを見据える正隆に、百夜は慌てて手を止め「おかえりなさいませ」と言葉を返しつつも目を伏せた。
「はしたない」と怒られるのではないかと思ったのだ。
けれど、叱りの言葉は降っては来ず、祖父は百夜の脇をすり抜け大人たちの酒宴に加わった。
夕食時、祖父から久しぶりに声がかかった。
「今日はどうだったかね」
「えっと……楽しかったです。皆様、お父様やお母様や理奥のこと、いろいろお話してくださいました」
正隆の期待に添えるような言葉を返そうと必死に考えたのだが、それしか出てこなかった。
「そうか。従業員やお客様との付き合いは普段から大事なものだ。良く覚えておきなさい」
「はい」
口調はいつもと変わりがなく、褒められている訳でもない。それなのに百夜は認められたような気がして、嬉しくなった。
夜も更け、ろうそくの炎を消し、布団にくるまってみるも、頭の中でいろいろな事柄が行き来して眠れなかった。
理奥からもらったお守りを抱えるように体を丸める。
頭の中で拡大していく靄をを振り払うように百夜は立ち上がり、宿の窓を開けた。
外の空気は冷たく、当たっているうちに気持ちが落ち着いていった。
一年で一番明るい月が高い位置に上がっている。
理奥と出会った時もこんな夜だった。
突然家族を亡くし、味方が誰もいない屋敷で出合った信頼できる人。
今頃、試験を終えた理奥は何をしているだろう。
「理奥に会いたい」
呟いた声ははかなく消えた。
別れてから何度も「理奥がここにいたらよかったのに」と考えた。
一緒の物を見たり、食べたりしたかった。
理奥がなにを考えているのか、百夜にはわからない。けれど、進むべき道をみつけているのだけはわかる。
一度手を離したら、きっと百夜が追いつけないところへ行ってしまう。
今まで辛いことも悲しいこともどうしたらいいか分からないこともたくさんあった。
それでも自分が生きてこれたのは、理奥がいるからだ。
この二日間、知らない世界と知らない人にたくさん会った。それは思っていたよりも怖いものではなかった。大人になるということは、こうやって多くの人々と関わっていくことなのだろう。
興味をひかれなかったと言えば嘘になる。
でも。それでも。
いくら学を積んでも、友ができても、結城にふさわしい人間になっても、その結果待っているのが理奥がいない世界ならば、百夜にとっては意味がない。
月にかかっていた雲が流れていくように、靄がかかっていた気持ちが鮮明になる。
理奥とずっと一緒にいたい。
自分の願いはそれだけなのだと、百夜はやっとわかった。




