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ツキカゲノチギリ  作者: 八重乃 葎
三章

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三章 三

 木々の葉が紅葉しはじめた季節のある日、”あの人"の奥方様が彼を訪ねてきた。


「二週間後の木曜日、お願いしたい仕事があるんだけどいいかしら。吉田運送には理奥が休む許可はもらってるわ」


 彼は勢いに飲まれるように返事をした。


 奥方様はのんびりとした"あの人"と違って、台風の目みたいな人だった。


 以前、どういう話の流れだったかは忘れたが、彼は奥方様に言われたことがある。


理奥(りおう)は真面目よねぇ。私は勉強が嫌いだったもの」


 勉強が特別好きなわけではなかった彼は、そう思われていたことに驚いた。

 それとともに、どうして空き時間に勉強するのかについて思わず考えてしまった。


「勉強が好きというわけでもないんですけれど……いつか、自分がここに居たいと思える場所で働きたいなと思っていて。でも、これが正解なのかはよくわからないです」


 彼は文字を覚えたり、文章を暗記したりするのは嫌いではない。

 だが、彼の中に強くあるのは、目的ではなく、ここから逃げたいという気持ちだった。

 たまたま仕事場の近くに筆学所があり、たまたま"あの人"が教科書をくれるだけで、これが正しいかは彼には分からなかった。


 うつむきがちに言う彼に、奥方様は言った。


「いつかのために備えておくのは悪い事じゃないわ。私の実家は結城(ゆうき)に買い取られたの。商売を続けることはできたけど、方針とかは従わなきゃいけないし、ずっとよくしてくれた人も雇い続けられなかったし、悔しかったわ。 それで、正紀(まさのり)さんに近づいたりもしたし。あ、これ本人に言うと泣いちゃうから内緒ね。でもそのおかげで、私は今でも呉服屋で好き勝手できてる。 きっと理奥にもいつか機会が巡ってくるから、その時のために準備しておくのは良い事よ」


 思っていた形と随分と違うが、「機会」とはこういうことを指すのだろうか。

 ともあれ、"あの人"の仕事の手伝いができることに、彼の心は高揚した。


 約束の日、待ち合わせ場所として指定された結城屋の南波(なんば)支店に行ってみると、奥の畳の間に案内された。

 そこには、衣紋掛けに色や模様の違う着物が二十着ほどかけてあった。

 奥方様のほかに二、三名の女性が話している脇で、彼より少し年下に見える少年が緊張の面持ちで立っていた。


「理奥、いらっしゃい。こっちに来て。(はるか)も」


 遥と呼ばれた少年に鋭く睨まれながら、彼は奥方様の前に座った。


「今日お願いしたいのは、千歳(ちとせ)節句(せっく)用の撮影なの。遥は去年やったからわかると思うけれど、理奥は千歳の節句はわかる?」

「はい」


 千歳の節句は、七歳前後の子供の行事で、健康と成長を祈るものだ。

 晴着を身につけ、近くの神社に祈祷にいく。

 彼の生活は貧しかったが、母が近隣の方から子供用の晴着を借りて神社に行った記憶はあった。


「来年の千歳の節句に向けて、広告を出そうと考えていて。写真を載せた手に取りやすい大きさの広報紙を作って、店頭に置いたり配ったりしようと思うの。で、二人には被写体になって欲しいのよ。最近、海外の人が瑞穂(みずほ)で暮らすことも増えてきたから、せっかくだし、理奥にもお願いしようかなと思って」


 奥方様が、紙に書いた手書きの構想を見せながら説明する。


「あの、僕、十二なのですが」


 彼は疑問に思ったことを口に出した。

 七歳だった頃よりもだいぶ身長が伸びた気がする。


「そこは写し方で工夫するから大丈夫。理奥が女の子用、遥は男の子用の衣装でお願いね」

「ちょっと待ってください!」


 考えていなかった展開に彼は慌てた。


「本当は、沙耶(さや)にやってもらおうと思ったんだけどね」

椿(つばき)様、それはあまりにも恐れ多いです…」


 後ろで着物と帯の組み合わせを試行錯誤していた、自分とあまり年の変わらない少女が振り返る。


「こう言うからさ、趣向を変えてみようと思ったの。(かつら)の髪色は変えておいたから、知り合いに気付かれないとは思うし、お給料も弾むわよ」


 お給料という言葉に、彼はごくりと唾をのんだ。

 生活に代えられるものはない。


「じゃあ遥はこっち、理奥はこっちね」


 部屋の隅、二ヵ所に設けられた衝立の向こうには三面鏡が用意されている。それぞれ指定された方に行くと、待っていた女性たちに囲まれた。


「だいぶ日焼けしているわね。おしろいとか大丈夫?」

「おそらく…」

「まず、化粧して髪を整えるわね。その後、着付けね」

「はい」


 理奥はされるがまま、化粧を施され鬘を被されると、衝立の陰で肌着を着るように言われる。


 衝立から出ると、

「やはり目や髪の色に合わせると、緑色がいいんじゃないかしら」

「いや、流行りの橙色も似合うんじゃない?」

 女性陣にあれこれと言われながら一方的に女ものの着物を着せられた。


 めまぐるしくされるがままに着飾られていると、鏡の向こうに別人がいた。

 それが自分だと思うと、恥ずかしさがこみあげてきた。


「わぁ、かわいい。理奥に頼んでよかったわ」


 既に支度を終えた遥と何かを話していた奥方様は、彼を見ると嬌声をあげた。

 かわいいと言われて喜ぶ男がいるのだろうかと彼は思ったが、口には出さなかった。

 とにかく衣装も鬘も重くて、困ったように笑うしかなかった。


 その後、写真店の店員が撮影機を持って訪れ、近くの神社で撮影が行われた。


 何種類かの着物で試すため、神社と店を往復する。

 着替えのたびに、沙耶と呼ばれていた同年代の従業員がお茶をふるまい、化粧を直してくる。


「君が出ればよかったのに」


 三度目の着替えに疲れていた彼が言うと、沙耶は勢いよく頭を横に振った。


「遥坊ちゃまは椿様の甥っ子なんですよ。そんな方と奉公人に過ぎない私が一緒に宣材写真を撮るなんて、とんでもない」

「あのチビ、そんなえらいんだ」

「えらいというか…いずれ結城の当主になる方かと」


 だからか、と彼は妙に納得した。

 撮影の合間、彼が転びそうになっても冷たい一瞥をくれるだけだが、奥方様には積極的に話に行く。

 遥からすれば、奥方様と、そこら辺の市民とでは価値が違うんだろう。

 いけ好かないやつだな、と彼は思った。


 撮影終盤になり確認のため奥方様が呼ばれた時、彼のもとに遥がやってきた。


「お前、椿様とどういう関係だ?」

「別に。時々話すだけだけど」

「そんな奴が、宣材の撮影に呼ばれるか? 店の顔だぞ?」

「知らないよ。単に外国の人向けなんじゃないの? さっき言ってたじゃん」


 遥は納得していない様子で唸った。

 そんな遥を横目で見下ろしながら、彼の中に少しだけ意地の悪い気持ちがもたげた。


「僕に嫉妬してんの?」

「なっ! ただ、自然に気に入られているのが腹立つだけだ」

「腹立つって……君はお店の跡取りなんだろう?」


 彼は奥方様にとって一時的な存在だが、遥は次期当主のはずで、彼など歯牙にもかからない存在のはずだ。


「違う。跡取りは百夜だ」

「百夜?」

「呼び捨てにするな、使用人。正紀様と椿様の娘だよ」


 彼は「使用人じゃないし」と小さく文句を垂れながら、そういえば、"あの人"に娘の写真を見せてもらったことを思い出した。


「母上や父上のお考えは違うみたいだけれど……私は百夜を支えるために生きていると思っている。百夜はまだ小さくて常盤の本家を出られないから、代わりに私がいろんなところに行って、各地の様子を伝えるんだ」


 そう言う遥のまなざしは、今日一番まっすぐだった。


 遠くから奥方様が呼ぶ声が聞こえる。どうやら撮影終了らしい。


「がんばれよ」


 そう言い残して、彼は重い衣装をはがすために一足先に店舗へと向かった。


 遥はもう決めているのだ。自分が何をするかということを。

 到底仲良くはなれないけれど、その一点に関して、彼は羨ましく思った。


 彼は今まで誰かのために何かをしたことがなかった。

 日々を乗り越えるのに精いっぱいで、そんな余裕すらなかったのかもしれない。

 でも、たとえば。

 今回の撮影は大変なことも多かったけれど、苦痛ではなかった。

 それは、奥方様の下で働くときの空気のようなものが嫌いでなかったのかもしれない。


 衣装を着替え、化粧を落とし、軽く茶菓子がふるまわれていると、奥方様がやってきた。

「理奥、お疲れ。今いろいろと確認中だけど、良いものができそうよ。ありがとう。これ、御礼ね」


 奥方様はそう言うと、小袋を手渡してきた。絣模様の布地で作られた手のひらくらいの大きさの袋だった。


「商品を買ってくれた人におまけとしてつけようと考えているものの試作品。小物入れとして使って。あ、お給料はあとでちゃんと払うから安心して」


 そう言っているうちに、店に"あの人"がやってきた。

 "あの人"は遥と話した後に、彼のもとへやってきた。


「お疲れ」

「お疲れ様です。今日は別のお仕事だったのですか?」

「それもあるけれど。こういうのは椿に任せておいた方がいいから」


 なるほど、と彼は思った。


「これ、お給料」

「ありがとうございます」

「どうだった?」

「想像していたこととは違ったんですけれど」


 それを聞くと、"あの人"は高らかに笑った。


「ごめんごめん。当初の予定とだいぶ違ってしまって。さっき、簡単な構想を聞いたんだけど、おかげでよいものが出来そうだよ」

「それは良かったです……あの!」


 会話が途切れる前に、捩じりこむように彼は言葉を絞り出した。


「また、お店のお仕事を手伝わせてもらえないでしょうか」

「ほう」

「なんでもいいんです。荷運びとかでも」

「そうか……少し考えておくよ」


 それからの二年間、彼は品物の棚卸や在庫の整理など、"あの人"の仕事を手伝う機会に恵まれた。

 叱られることもあったけれど、誰かが助言をくれ、失敗も次回に活かすという、そういう職場だった。

 "あの人"の仕事を手伝っているうちに、彼は読み書きや計算も少しずつ覚えていった。


 彼が十四歳になった年の夏の終わり、"あの人"から呼び出しを受けた。


「もしよかったら、うちで働かないかい?」


 彼は驚いて声が出なかった。特出した能力のない自分ができるのは短期の仕事だけだと思っていたからだ。


「吉田さんにはもう伝えている。当面の間は天城の屋敷で使用人として働いてもらうことになる。仕事内容としてはここに記載しているけれど、読めるかな」


 六つ折りにされていた厚めの紙を開き、彼に向けて差し出される。

 そこには、おおまかな仕事内容と住み込みで働くことと給与、また、彼が学問所に通う学費を結城家が負担することが書かれ、最後に"あの人"の名前が書かれ、朱印が押されていた。

 全てが、今までの生活では考えられないような待遇だった。


「こんなに……いいのでしょうか」

「今までの君の働きぶりを見て、これくらいなら任せられると決めたんだよ」


 そうか。今まで自分がしてきたことは、無駄ではなかったんだ。

 彼の中に生まれた熱い気持ちは、涙となって流れ落ちた。


「そのかわり、暇な時でいい、娘の話し相手になってほしいんだ」


 それを聞いて、彼は怯んだ。

 彼は同じ年頃の子供と遊んだ経験などなかった。

 まして、相手は六つも年が下の女の子だ。

 その話し相手を務められる自信が、彼にはなかった。


 けれど、迷いは一瞬だった。

 こんな機会は二度とないだろう。

 それに、"あの人"のもとで働けるなら、きっとどんなことでもできるような気がしていた。 


 彼の返事を聞くと、"あの人"は嬉しそうに微笑んだ。


「よかった。君のような子が百夜の友達になってくれたらと思っていたんだ」


 この時の彼にはこれから起こる事を知る由もなく、ただ、これからの生活に胸を膨らませていた。

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