二章 四
"あの人"と目が合うと、彼は赤くなって俯いた。
穴があったら入りたいとはこのような事なのだと、彼は思った。
見てはいけないものを見てしまったらしいと気づいたあの人はひどく慌て、仮名訓録を暗んじることができるなんて勉強熱心だとしどろもどろに褒め始めた。
次第に、話の内容は"あの人"の個人的な話へと移っていった。
どうやら故郷で知り合いが学問所を開いていて、その支援しているらしい。
"あの人"があまりにも動揺するのがおかしく、次第に彼の恥ずかしさはどこかへ吹き飛んでしまった。
「筆学所のに通っているのかい?」
「ううん。仕事があるから」
「仕事?」
「うん。船に荷物を運んだりする仕事。親方は、そんな暇があるなら一つでも多く運べって」
「そうか……」
"あの人"はなぜか少し悲しそうな顔をした。
「じゃあ、次来るときに『仮名訓録』を持ってくるよ」
「かな……?」
「君がさっき音読していた本だよ」
「おじさん、本当?」
彼の目がぱっと輝いた。
"あの人"は彼の目線に合わせてしゃがむと右手の小指を差し出した。
「ああ、約束だ」
「うん、約束」
彼は"あの人"の小指に自分の小指を絡めた。
彼の仕事場となっている港の管理主はあの人と知り合いらしいく、彼と"あの人"は暇な時に会えば話をする間柄になっていった。時々、"あの人"は自宅から書物を持ってきて彼にくれた。彼は夜になると、窓から入る月の光の下でそれを何度も繰り返し読んだ。
気のせいか、いつのまにか仕事仲間から嫌がらせを受けることも少なくなっていた。
"あの人"は、港へ取引にきている商人だった。
海外の商人と反物取引を行っており、奥方様とともに頻繁に港に滞在していた。
"あの人"には彼より六つ歳が下の娘がいるらしく、いつも懐には家族三人で撮った写真を忍ばせていた。仕事で各地を回ることが多いため、いつも常盤国の家で留守番させているという。
娘のことを話す"あの人"は、とても楽しそうだった。
けれど時々、寂しい想いをさせているだろうことを苦しそうに話していた。
彼は父親という存在が嫌いだった。
父親という存在が彼に残したものは、彼の容姿も、貧しい生活も、それを原因とした母の死も、嫌な思い出しか生み出さなかった。
けれど"あの人"の話を聞いているうちに不思議とその嫌悪感が消えていた。
"あの人"が自分の父親だったら、とさえ思い始めていた。




