二章 三
いつから理奥のことが好きなんだろう。
そう考えたとき、百夜が思い出すのは八歳の頃の記憶だ。
理奥と出会った翌年の秋。
稲川学問所からの帰り道。
繋いだ理奥の手から伝わってくるぬくもりに安心を覚えていたあの頃。
「茜に花火一緒に行けるって言ったらね、すごく喜んでくれたの」
「良かったね」
「うん」
茜から観月祭に誘われたのは、萩月の初め。まだ街のどこにも祭りの気配を感じられない頃だった。
茜の話によると、観月祭の期間は路面に出店が並び、暇を見つけては学問所の子やその兄弟姉妹で集まって遊ぶのだそうだ。最終日は昼間からひとしきり遊んだあと、川沿いで上がる花火を見に行っているという。
射的で勝負をしたり、花火の煙にむせながら焼きイカを食べたりしていたことを茜は楽しそうに話した。
「百夜も一緒に行かない?」
そう誘ってくる茜の瞳は、肯定の返事が来るという謎の確信に満ちていた。
確かに、いつもの百夜ならば実現可能かどうかはさておき即答し、どうやってばあやを説得するかを考え始めただろう。
「お誘いはとても嬉しいのだけれど…お母さまとお父さまの法要があるから…ごめんなさい…」
この法要は、父母が死後穏やかに暮らせるように祈るためにあり、とくに命日からちょうど一年後に催される一周忌の法要は大事なものとなる。
親族と会いたくないと法要を嫌がる百夜に、世津はそう言った。
この一年、何度か法要は行われたが各地から親族が集まる大きな法要は久しぶりであった。
観月祭期間は世津を含め、使用人も家族や友人と過ごす人が多い。だから、百夜は一人で月祭りを過ごす時間も長かった。今年は理奥も茜も和真もいる。彼らと過ごす祭りはさぞ楽しいだろう。
一周忌の法要自体は月祭り前に終わっている。しかし、月祭りの終わりまで滞在する親族もおり、その間は大規模な食事会が開かれることになっていた。
「そうよね……お父様とお母様のことだものね、大切だわ」
茜は残念そうに目を伏せたが、少しして名案が思い浮かんだとでもいうように「じゃあ」と目をきらめかせた。
茜は、こういうときだけ頭の回転が早い。
「花火があがる時間帯だけ遊びにいかせてもらうのはどう?」
「どうかしら……」
「夜も遅いし、その親戚の方々も寝ているでしょ?」
「最後まで食事会にいたことがないから、分からないけれど……」
「ね? 一緒に行こう」
百夜は最後は押し負けるようにして「相談してみる」と頷いた。
思えば、このころから百夜は茜に根負けすることが多かった。それが不思議と嫌ではなかった。
ともあれ、祖父や世津に相談した結果、法要にはきちんと出席し、割り当てられた役目を果たすという条件付きで許しが出たのだった。
「理奧も一緒に行ければよかったのに」
「仕方ないよ。生活させてもらってるんだから、きちんと仕事はしないと」
唯一残念だったのが、理奧は親戚の皆が寝静まった後にも後片付けなどの仕事があるため、一緒に行けないということだった。
その話をきいた時、百夜は祖父に理奥の外出も許してもらえるように頼もうとしたのだが、理奧が頑なに拒んだ。
「僕のぶんまで百夜が楽しんできてよ」
もし百夜が理奥の立場だったら、きっと行きたいに決まっている。だから不服ではあったが、ここで百夜がむくれていたら理奧を悲しい気持ちにさせてしまう。
「お土産、買ってくるね」
「うん。ありがとう。百夜は優しいね」
理奥に優しいといわれると、百夜はくすぐったい気持ちになる。
この時の百夜は純粋に観月祭に思いを馳せていた。
嫌な予感がし始めたのは、街に笹の葉が飾られるようになり、祭りのそわそわとした気配が感じられるようになってきてからだ。
きっかけは手紙だった。
百夜は毎週のようには学問所に行けないため、会えないときには理奥づてに茜と手紙のやり取りをしていた。
手紙の内容は最近の出来事など些細なことが主だったが、百夜は理奥のことを書くことが多かったし、茜は読んだ本について少し創作交じりの感想を長々と書いていることもあった。
五年前のその日、茜からもらった手紙に「最近、少し体調を崩していて、何もできなくて悲しい」と書かれていた。その手紙は、ちゃんと月祭りまでには治すから大丈夫だと、明るい調子でおわっていた。
次の週、手紙はこなかった。
「起き上がるの辛くて手紙書けなかったけど、月祭りまでには治すから大丈夫だって言ってたよ」
理奥は何事もないようにそう言っていた。
茜が体調を崩すことも、その結果、手紙がないこともよくあることだ。
そうとわかっていても一年前の両親のことが思い出され、百夜の胸の奥がざわついた。
胸のざわつきは次第に大きくなっていったが、百夜は「大丈夫、いつものこと」と自分に言い聞かせた。
そうしているうちに百夜の親族が結城の屋敷に集まり始め、法要や食事会が開かれた。
そんな日が数日続いたある夜、朝から晩まで百夜の傍から離れない従兄の遥に「お手洗いへ行く」と嘘をつき、百夜は息抜きに廊下へ出た。
障子の向こうからは、酒が入って声が大きくなっている大人たちの声が聞こえる。
ぼんやりと庭を見つめていると、塀の外からも賑やかな声が聞こえてくる。
まるで、別世界のもののように。
「もう、月祭り、始まっているのね」
百夜はぽつりと呟いた。
毎日が目まぐるしく過ぎていき、結局、茜の様子がどうなのかはわからずじまいだった。
茜は今頃、どうしているだろうか。
「百夜」
喧噪の中でも、自分の名前を呼ぶ理奥の声は不思議と百夜の耳に届いた。
法要が始まってからずっと理奥に会えていなかったから、まさか会えるとは思わなかった。
「どうしたの?」
「ちょっと休憩」
理奥の心配そうな声に、えへへと弱く笑いながら返す。
「そっか」
表情を緩めた理奧は、百夜の傍まで来ると縁側に腰かけた。
それを見た百夜は理奥の隣へ腰をおろした。
きっと百夜が戻ってくるのが遅いと遥を心配させるだろう。遥には申し訳ないと思うが、これはここ数日頑張ったご褒美だと百夜は思った。
「理奥は? お仕事終わり?」
「今は皆様がお食事中だから少し休憩。お部屋に戻られる頃にまた忙しくなる、かな」
伸びをする理奥を百夜は見上げる。
理奥の隣は心地が良い。
何かを気にすることはなく、思ったように話したり笑ったりできる。
そう思ったら張りつめていた糸がとぎれてしまったかのように、百夜の目から涙がこぼれた。一度あふれた涙は止まらない。
「どうしたの?」
背中を撫でる理奥の掌の重みが伝わってくる。
確かな存在にすがりつくように、百夜は理奥に抱きついた。
「茜が死んじゃったらどうしよう」
こらえきれず不安な思いを言葉にすると、「もしかしたら」と思っていただけのことが現実に訪れてしまうような気がした。
理奥は思いがけない言葉に驚いたように一瞬息を飲み「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。ほら、最近急に寒くなったから」と言った。百夜の頭上から落ちてくる声には楽観的な響きがあった。
「だって、お母さまもお父さまも急にいなくなったもの。茜がいなくなってもおかしくないじゃない」
呑気な理奥に腹立たしくなり百夜が思わず叫ぶと、百夜の背を撫でていた理奧の手が突然動きを止めた。
その動作ひとつで、百夜は自分の予感が間違ってはいないんだと確信した。
法要が始まってから祖父との約束通りきちんと挨拶をしたし、あれこれと生活のことを詮索されても、黙りきって泣き出したりせず、きちんと受け答えをした。
もっとも、一年前と違い正式に当主となった祖父からの印象が悪くなることを避けていたからか、それとも従兄の遥が百夜の隣にずっといて周囲を威嚇していたからか、鋭い言葉に心をえぐられることも少なかった。
そのかわりに耳に入ってきたのは百夜の小さなころの話や両親の思い出話だった。
それは百夜に懐かしくて暖かいものを思い出させ、同時にそれを失った時の足元が崩れるような恐怖も思い出させた。
茜ともう会えない、一緒に他愛もないことを話したり、お互いの家に泊まって夜更かししたりすることもできない。そのことを考えるだけで、あの底のない沼に引き戻されそうになる。
「みんないつかいなくなっちゃうもの」
いつだってそうだ。大切な人は急に自分のそばからいなくなる。
そんな大事なことを、どうして忘れようとしていたのだろう。
ふいに、泣きじゃくり続ける百夜の背中に、理奧の手が回された。
抱きしめられたということに百夜が気づいたのは、少したってからだった。
「大丈夫だよ」
普段とは違う芯のある理奥の声に、百夜は一瞬息が止まった。
言葉は先程と同じなのに、なぜか百夜の心の奥まで染みわたっていく。
それがなぜか怖くて、百夜は理奥の腕を振り払い、叫んだ。
「どうしてそう、簡単に言えるの? 理奧だって! いつか、い、いなく、なっちゃう、くせに」
泣きすぎて言葉がつっかえ、上手く声にならない。
ひどいことを言っていることはわかっていたが、百夜は言葉を止められなかった。
理奧がよく、ぼんやりと何かを考えこんでいることを百夜は知っている。
そんな時、百夜は理奧が消えてしまうように思えて、たまらず抱きつく。そうすると、理奧はいつもどおり穏やかな笑顔で百夜のことを見てくれる。それで百夜はやっと安心できるのだ。
「僕はずっと百夜のそばにいるよ」
恐怖から、百夜は理奥の顔を直視できない。
表情は見えなかったけれど、理奥が口先だけの言葉をかけているのではないことは百夜に伝わってきた。
だから、だろうか。百夜にはそれ以上否定する言葉を持てなかった。
百夜がしゃくりあげながら俯き黙り込んでいると、百夜の視界に理奥の右手が映り込んだ。小指だけを伸ばし、他の指を折りこむ形。
「約束」
理奧がいつもの穏やかな口調で告げる。
百夜は何かに導かれるように、その指に自分の小指をそっと絡めた。
理奥の言葉も行動もそこに込められた思いも、不思議と信じられた。
そうすると気持ちが緩んで、再び涙が止まらなくなった。
その後、百夜を探しに来た遥がやってきて理奧が百夜を泣かせたと勘違いして理奧に立ち向かったり、遥にかばわれた百夜が必死に否定したり、大人たちも駆けつけてちょっとした騒ぎになった。
そして翌日の昼前に和真の手から茜の手紙を渡され、最終日、百夜は茜の家の縁側から二人で遠く上がる花火を見たのだった。
後で百夜が茜に聞いたところ、理奥が言った通り、急に寒くなったので体調を崩していただけだったらしい。
どんな時でも理奥が一緒にいてくれる。
それは、百夜の中でお守りのように灯り続けている。
百夜が理奥とずっと一緒にいたいと思うようになったのも、きっと、その時だ。




