二章 二
学問所の図書館にある約二千冊の本。それを片っ端から母屋の広間に運ぶ。
棚が空になったら水を含ませて固く絞った雑巾で拭き、そのあとに別の雑巾で乾拭きをしていく。
百夜に課された罰掃除は、稲川学問所が所有する本の虫干しの手伝いだった。
罰掃除の基本は、いつも生徒全員で始業前にやっている講義室の清掃を一人ですることらしい。
今回はたまたま本の虫干しの時期と重なったため、その手伝いとなった。
岩槻家から借りた埃除けの浴衣を着物の上に羽織り、袖は邪魔にならないように襷で上げる。書籍を書架から出すと舞い上がる埃をよけるため、頭を手拭いで覆い、時には口元も手拭いで覆いながら作業を進めていく。
貴重な資料が収められている収蔵庫と違って、学生が日常的に使うような資料が収められているのが図書館である。
年に二度、全ての書籍を図書館から出して母屋にある一室へ運び、風を通すことで虫やカビが発生しないようにしている。同時に、書籍に虫食いなど問題がないかを確認していた。
また、書架の清掃をすることで、図書館内の虫の発生などを防いでいた。
母屋の一室に入ると、畳の上に薄布が敷かれている。百夜はその上に本を中を開いた状態で置いていく。
置かれた本はその後、学問所の講師や職員によって一頁ずつ問題がないか確認されていく段取りとなっていた。
図書館から母屋まで距離があるうえに、本を落としてはいけない。
風呂敷に包むなどしてなるべく一度に多く運べるように工夫するが、それでも百夜が一度に運べる冊数は十冊が限度で、何往復もしなければならなかった。
決められた午前中の三時間の作業を終えると、百夜はへなへなと縁側に座り込んだ。
「大丈夫?」
茜が心配そうに百夜に声をかける。
「うん。茜は平気?」
「私は大丈夫。体調の良いときは家の掃除手伝ってるし、慣れてるから」
「ごめんね。つきあわせてしまって」
二人して縁側に座り、昼時の日差しに照らされる。
いつも茜は資料の確認作業はするものの、運搬や書架の清掃はしないらしい。
今回は生まれてこのかた一度も掃除をしたことのない百夜に付き添って、あれこれと教えてくれている。
ちらりと隣の部屋を伺うと、理奥と和真がなにかを言い合っている。
「喧嘩……かしら?」
「ああ、あれは討論よ」
「討論?」
「望試には一つのお題について自分の意見を書く科目があるんですって。だから日頃から考える訓練をしているって、兄様は言っていたわ」
「そうなのね」
百夜が罰掃除を命じられたことを知ったとき、理奧はひどく驚いていたが何も訊いてはこなかった。世津も同じで、規則を破ったことについて怒られはしたがそれ以上のことはなく、百夜よりも早く起きて毎日朝餉の支度をしてくれている。
茜にしてもそうだ。何も言わず毎日百夜に付き合ってくれている。
それが、百夜にはとても心苦しかった。
朝早く起き、学問所まで一時間以上歩き、虫干しの手伝いをする日々は百夜にとっては大変で、こうしてぼうっとしていると思わず寝てしまいそうになる。けれど弱音は吐けなかった。
声が聞こえなくなったことに気づき百夜が揺らいでいた意識を戻すと、ちょうど理奥と和真が休憩を入れるところだった。
茜は「お茶淹れてくるね」と立ち上がり、百夜もそれに続く。
台所までたどり着くと茜は戸棚の中を探し始めた。
百夜はここ数日と同じように、瓶から鉄瓶に水を移すと窯にかけ、竹筒で息を吹きかけて火を調節する。
こういうことも岩槻家に頻繁に出入りするようになってから身に着けたことだ。結城家では世津や使用人たちがやってくれるし、炊事場に頻繁に出入りするのは行儀が悪いとされていた。
けれど、岩槻家では皆が協力して家のことをやっている。茜が学問所の生徒用に飲み物や軽食を用意する事は珍しくなく、なりゆきで百夜もそれを手伝うことがあった。
家で禁止されている事をすることには最初はかなり抵抗があったが、やってしまえばどうということもなく、今ではすんなりと割り切れていた。
「あのさ、あのときのこと聞かれてた?」
急須に茶葉を入れながらそわそわと茜がたずねる。
「え?」
「一週間前のよ。あれから進展ないの?」
きっと、百夜と茜が理奥について話していたことを、理奥自身に聞かれていたかもしれない、という意味だろう。
どうやら、茜はずっと訊く機会をうかがっていた様子だった。会話の内容が、百夜の理奥への恋心を暗に含んだものであったから気になるのだろう。恐る恐るといった体ではあるが、その表情からは気になって仕方がないことがはっきりと読み取れた。
「その……よくわからないの」
口ごもりながら百夜は答える。
あの日の帰り道も、その後も、理奥の自分への態度は変わらないままだった。
「そう。それは残念」
つまらなそうな茜に百夜は文句を言おうとしたが、言いかけたまま口を閉じた。
百夜自身、安心した反面、少しだけ残念に思ったのは事実だった。
恋愛小説の出来事のようなことに憧れはあるが、理奥との関係は今のままで構わない。そう思っていたはずなのに、それ以上を望む気持ちがあることに戸惑った。
「まぁ、機会はまだあるか」
「変な事考えないでよ」
「別にー考えてませんよー」
嘘っぽい口調で茜は言いながら、鉄瓶を火から離し、柄杓で湯を急須に入れ、少し待つと湯呑に注いでいく。
「でも…」
その様子を見つめながら、百夜はぽつりとつぶやいた。
「最近、理奥が遠くなった気がするの。ぜんぜん違う世界の人なんだな、って。努力家で物知りな理奥も好きだよ。でも、私が近づけない人なんだなって……」
天望試験の受験資格を得たことを嬉しく誇らしく思う反面、屋敷の使用人も含め色々な人がそれを祝福していると、それを寂しく思う気持ちもあり、理奥がどこか遠いところへ行ってしまうのではないかと急に不安に襲われることがあった。
昔、茜の乳兄弟でもある由比が理奥と楽しそうに学問所での話をしているのを見たことがある。そのときも同じような気持ちになった。
由比と理奥は片親が紗瑠詩絵出身という共通点もある。
昔、百夜も理奥や茜と一緒に常盤家へ招かれ、由比の母から紗瑠詩絵の料理をふるまってもらったり、民族衣装を着せられたりしたことがある。異なる文化を知れるということは楽しい出来事であったが、心の底から楽しめなかったのも事実だ。
きっと、由比には理奥と同じ世界が見えていて、同じものを感じている。百夜が感じれないことが。そのことがすごくうらやましかった。
「うーん。無理して近づこうとしなくても、百夜は百夜でいいと思うんだけど」
「そう、かな」
「私もそう考えていた時期があるからそう思う気持ちもわかるけど」
「茜が?」
「ほら、兄様も由比姉様も武術とか体を動かすの好きでしょ。でも私は一緒についていけるほど丈夫じゃないし。そのうち、話もあわなくなることが多くなって」
百夜から見た三人は、血のつながりなど関係ない絆で結ばれているとしか思えなかった。それだけに、それは百夜にとって思いもかけぬことであった。
「きょうだいの中でわたしだけ入れなくて寂しかったし、由比姉様のほうが本当の妹みたいで悔しいと思ったこともあったけど。でも、二人が私のことを邪魔だって思っているわけじゃないし、そんなこと考えても仕方ないなって」
茜は少しだけ苦しそうで、けれど懐かしそうだった。
理奥が百夜から離れていくようなそぶりを見せたことはない。
――私が勝手に距離をつくっているだけなのかな……。
そう思いつつも、百夜はどうしてもすんなり気持ちに折り合いがつけることができなかった。




