第一章「Misstopia」2
家について今に入ると、まず壁に掛けられた時計に目をやる。時計の針は十二時を少し過ぎた辺りを指していた。
時刻を確認し終わると、その下のメーターに視線をずらす。メーターの針は相変わらずゼロから一番遠い目盛を指してピクリとも動かなかった。ガイガーカウンターが振り切れる程の強い放射線。普通なら生き残れるはずもないような環境で俺達の命を繋ぐのは、ドニムと言う錠剤だった。引き出しを開けて、中から錠剤のシートを取り出す。シートにはピンク色のハートが印刷されている。
「愛のしるし、か。」
そう呟いてみたものの、それが愛のしるしではなく命のしるしであることは一目瞭然だった。こんな世界で愛なんて何の役にも立たない。このちっぽけな錠剤はまるでノアの方舟のようだった。
その方舟を口の中に放り込んで、水道水で流し込んだ。放射性物質で汚染されているかも知れない水道水で。方舟は水に押し流されてゆく。
どういう仕組みかは知らないけれど、定期的に支給されるこのドニムと言う薬を飲めば被曝していても放射線障害が出ることは無かった。今までと全く同じように暮らしてゆける。全てはもう元通りにならないけれど、人間自身だけは今まで通りで。
母が死んでいなくなったこの家は、一人で暮らすには少し広かった。首に吊るしたままになっていたホルガを今のテーブルに置いて、ソファに身体を沈める。昔はあれ程心地よかったクッションも今はもう潰れて、ただ尻が痛いだけだった。
「次の配給が来た時にでもソファ頼もうかな……。」
配給トラックに欲しいものを書いたメモを貼り付けておけば、次に来る時に大概の物は配給されるのだ。牢獄のようなチェルノブイリにおける唯一の特権、と言ってもいいだろう。ただ、テレビや電話、パソコンのような外部と繋がる事の出来る物は一切貰えない。物理的だけではなく精神的にも完全に隔離されているのだ。
だから、チェルノブイリの住民が一人銃殺された程度、外の人間にとっては何とも無いことなのだろう、と思う。何のつながりもない人間が一人死んだ程度で何が変わるということも無く日々を漫然と過ごしているに違いない。けれどそれは酷い話だった。どちらも同じ人間だと言うのに。
とは言え、それを何とかしようと言うような気力はこれっぽっちも湧かないのだった。「酷い話だ」とは思う。けれどだから何ってことは無い。別に何も感じないのだ。
吉木が死んだ時は少し哀しかった。そして松本を少しだけ恨んだ。けれどやっぱりそれは俺の心にとってさかむけ程度の痛みでしかないのだった。だって、俺はこうして生きてるだろう?
だから俺は、今のところはこの生活に満足していると言って差し支えないのである。
「昼、何食べよう。」
ソファから身体を起こしてキッチンの冷蔵庫を開ける。中には大したものは残っていなかった。どうせそれ程空腹でも無いし、スクランブルエッグでも作って食べよう。そう思って卵を取り出した。
今日の配給、忘れると酷いことになるな。三日に一回の配給。前に一回逃したことがあったのだが、その時は本当にひもじい思いをした。夕方に配給があるから、と昼食で冷蔵庫の中の物を使い切ったまま寝てしまい、配給に間に合わなかったのだ。今なら笑い話だけれど、その時は近所を回って「卵一個下さい、次の配給の時返しますから」と必死にお願いした。一日卵一個とジャムの生活は割と過酷だった。
「よし。」
上手く料理出来て満足する。料理、と言う程でもないけれど。チェルノブイリ地区の中でスクランブルエッグを作らせたらきっと俺が一番だと思う。綺麗な黄金色、絶妙な具合に混じる狐色。簡単に真似できる芸当では無い。
昔、まだ俺が小さな子供だった頃、父に教えてもらった。まだ危ないからと言って実際にやらせては貰えなかったのだけれど、様々なコツを学んだ。父は他の料理は何もできないけれど、卵料理だけはプロ並みの腕を持つ人だった。
父は家族を愛する人だった。けれど、余りに忙しすぎる人だった。俺が10歳になった時、両親は離婚した。俺は母に引き取られてこの地区に引っ越して来て、そして事故に巻き込まれたのだった。
今となってはもう、どうでもいい話だけれど。大切なのは今から生き延びていくこと、それだけだから。
質素な昼食を終えると、俺は本を開いた。桐生夏生と言う日本の作家の小説だ。この国は日本人の移民が作った国で、用いられている言語も日本語だ。だから日本の小説も読むことが出来る。俺は日本人の感性が好きだった。廃墟のような退廃的な物を愛する感性。そう、例えばチェルノブイリのような。
物語が佳境に突入し主人公が過去の記憶を取り戻した時、インターホンが来客を知らせた。本を閉じて玄関へと向かう。扉を開けると、そこにいたのは昼前に別れたばかりの松本だった。
「どうしたんだ?」
「ちょっとイーハトーヴァで話し合いすっから来い」
「分かった、大体何の話かは予想がつくけど。」
どうせまたチェルノブイリ脱出の話だろう。俺は興味無いんだけれど。
喫茶イーハトーヴァはこの家から十分程バイクを走らせた場所にある。
配給に頼るチェルノブイリ内で喫茶店などやっていける筈もないのだけれど、国に認められた最低限の娯楽施設は必要な物資を別に配給を受けていて、その最低限の娯楽施設の一つがイーハトーヴァだった。この辺りには他にもカラオケや居酒屋、バーなどがあるけれど、俺たち若者が集まるのは大体喫茶イーハトーヴァだ。
けれど、俺と生前の吉木はイーハトーヴァで一緒にくつろいでいながら、それでも彼らから一歩離れたところにいた。吉木はみんながわいわいと騒いでいるのを嗤いながらコーヒーを飲んでいるような奴だったし、俺はみんながわいわいと騒いでいるのについていけずに溜め息をついて紅茶を飲むような奴だった。だから俺がその話し合いとやらに呼び出されたと言うことは、それだけ重要な話し合いだ、と言うこと。
きっと、脱走するかどうかの最終決定をするんだろうなぁ、と考えると溜め息が止まらなかった。
説明乙。