第一章「Misstopia」1
床に散らばるコンクリートの破片を踏みながら歩く。ちいさな破片が砕ける小気味好い音がした。色褪せたミントグリーンの螺旋階段、その上にあるステンドグラスは砕け散ってもう見る影もない。そこから差し込む光が、かつてこの豪邸に住んでいた人の生活の跡を照らしていた。美しい風景。ホルガを構えてシャッターを押す。
「そろそろ帰ろうぜ」
開け放された扉の向こうから松本の声が聞こえた。相当苛々しているらしく、彼の声には酷く棘があった。触れたら一瞬で指を貫通してしまいそうな。
「そうだな」
まだ見ていたかったけれど、手に持っていた硝子玉を仕方なく放り投げて、探索を切り上げる。
「特に面白いものは無かったよ。」
廃墟から外に出ると、扉の横の壁にもたれ掛かって松本が煙草を吸っていた。思わず顔をしかめる。煙草は嫌いだ。匂いだとか煙ったさだとか、とにかく全てが神経を逆撫でするのだ。
「こんなボロボロの廃墟にいいもんなんざあるわけねえだろ。」
松本が指に挟んだ煙草を俺の顔の前に突き付けて、不機嫌そうな声でぼやく。煙が身体を内外から犯して行くような感覚。俺は耐えきれなくなって数歩後ろに退いた。
「えらく機嫌が悪いな。」
たった十分程なのに何故そこまで怒るのか、理解出来無かった。しかし、俺の問いを聞いた松本は更に顔を歪めて「クソったれが」と吐き捨てる。
「吉木が殺されたってのによく平気な顔して廃墟探索なんて出来たもんだ」
「もう終わったことを引きずっても仕方ないだろう。」
溜め息交じりに答える。松本は怒りを込めて廃墟の壁を思い切り蹴ると、家のある方に向かって歩き出した。
三日前、ちょうど俺の十七歳の誕生日の日。俺と松本の友達だった吉木が死んだ。何のことは無い、封鎖地域から脱走を企てて、警備の兵隊に銃殺されたのである。頭を打ち抜かれて即死だった。
俺は、吉木の死について、正直なところ松本のことを恨んでいた。
吉木は封鎖地域、通称チェルノブイリからの脱走に反対していたのである。溜まり場の喫茶店で脱走計画を立てる松本に対して、彼はいつも嫌味そうな笑いを浮かべていた。
「逃げ出せるわけがないさ、それにお前は外に放射線をばら撒きたいのか?」
原発事故レベルの放射線になると、被曝した人間は放射化して放射線を出すようになるらしい。つまり、今俺たちが外に出れば沢山の人が被曝することになるのだ。本当かどうかは分からない。もしかしたらただ俺たちを隔離しておく為だけの嘘かも知れない。だって、国のずさんな管理の所為で起きた原発事故をよく知る人間がマスコミの取材なんて受けたら、面倒だから。
だけどそんなことはどうでもよくて、胎児なのは封鎖地域を囲うフェンスにはいつだって触れればすぐ死ぬ程の電流が流されている上に、ゲートの辺りにはいつでも逃げ出そうとした住民を殺せるだけの兵隊と兵器が配備されていると言うこと。彼の言う通り、逃げ出せるわけが無いのだった。
「そんなのやってみなきゃ分かんねえだろ」
吉木が死ぬ前日、松本はキレてそう叫んだ。
「放射能なんて知ったこっちゃねえよ、俺たちを見殺しにしてる外の人間なんて被曝して死んじまえばいいんだ! 中畑の野郎もぶっ殺してやんなきゃ気が済まねえ、首相の癖に俺らを見捨てやがって! それとも何だ? お前は外の人間を庇うつもか?」
「やってみなきゃ分かんねえ、か。お前がそう思うならそれでいいさ。」
吉木は左の口角を上げて笑うと、そのまま自分の飲んだコーヒー代も払わずに喫茶店を出て行った。そして翌日、ゲートを突破して逃げ出そうとして殺されたのだ。兵隊を相討ちで一人殺してから死んだらしい。武器は、何のことは無い、普通の包丁だった。
「ほら見ろ、無理だった。」
それが、吉木の最期の言葉だった。
「あいつは逃げ出そうと思っても無駄だってことを実証したんだろう、なのにさらに熱くなってどうするんだ。」
松本は黙ったまま速いスピードで歩いていた。松本は冷静さに欠け、しばしば暴走する癖がある。何かとんでもないことをやらかしそうで少し心配だった。
仕方ない、と思う。
いつも醒めた目で周りを眺めていた吉木や、正直これ以上状態が悪化しないのであればこのままでいいと思っている俺とは違って、松本には立場と言う物があった。チェルノブイリの若者たちのリーダーである。行動的で頼れるリーダーとして慕われる彼は、常に何かをしている必要があるのだった。
「そう言えば」
松本が歩くスピードを少しだけ落としながら言った。
「河原の小屋に住んでいるじーさんがいるだろ?」
「ああ、五十嵐さんのことか?」
秋川さんは、十年前爆発を起こした原発の割と近くを流れる川の畔に小さな小屋を建てて住んでいる七十歳くらいの男性だ。奥さんは事故の直後、放射線の影響で死んだ。
「五十嵐さんがどうしたんだ?」
「ドニム飲むのやめたんだってさ。もう長く無いだろうな。」
「…そう、か。」
余り付き合いの無い人だったけれど、こうして一人、また一人といなくなって行くのは何となく寂しかった。
事故の後処理で、当時大人だった人たちは男女問わずほとんどが駆り出されて放射線にやられて死んだ。俺の母や、松本の両親、吉木の両親も例外ではない。後に残ったのは、まだ力仕事が出来る年齢では無かった子供たちと、同じく力仕事が出来る年齢では無かった老人たち。五十嵐さんは当時六十歳だった上に、腰を痛めていたから生き残った。それが幸せなことなのかどうかは俺には分からないけれど。
秋が深まったチェルノブイリは、成長するままに放置された巨大な街路樹の落とす葉に覆われていた。それを、音を立てて踏みしめながら歩く二人。
終わった世界は、もう一度終末に向かって歩んでいるかのようだった。
四話まで書きだめしているのでちょいちょい出して行こうと思います。
とりあえず「君」一人目は松本。