第60話 次への準備
春は、気づいたときにはもう逃げ場がなかった。
施設の玄関には、新しい上履き袋が並び始めている。
名前がまだ書かれていないままの布袋。
中学生になる、という現実が、少しずつ形になっていた。
ホールのテーブルには、進学準備の紙が広げられている。
千夏がそれを指で叩きながら言った。
「制服はね、学校から綺麗な中古を回してもらえるから」
「今日はサイズだけ測っておこう」
俺と美桜は並んで座り、
分かったような顔で頷いた。
そのとき――
後ろから、突然、頭をぐしゃっとされた。
「ちょ、なに――」
振り向くより先に、声が落ちてくる。
「二人とも、ありがとね」
ゆかりだった。
後ろから、もう一度、くしゃくしゃと頭を撫でる。
「今日から、にゅーゆかりーだから」
そう言って、少し大げさに胸を張った。
制服姿はいつも通りだ。
中学二年生の、少し着慣れたブレザー。
髪の毛は真っ黒に戻っていた。
でも、表情だけが違った。
無理に明るいわけじゃない。
全部吹っ切れたわけでもない。
ただ、前を向いている。
美桜が笑って言う。
「それ、どんなゆかり姉?」
一瞬、ゆかりは息を呑んで表情は戻る。
「んー……」
「ちゃんと生きてるやつ」
その言い方が、ゆかりらしくて、
俺は小さく息を吐いた。
千夏がメジャーを持ってやってくる。
「じゃ、順番に測ろうか」
「朱音からね」
立たされて、肩、腕、胴、股下。
淡々と測られていく。
「……138センチか」
千夏が数字を確認して、少し考え込む。
「うーん……」
「中古、あるかな……」
横で美桜が言う。
「私、もう154あるよ」
胸を張る美桜。
確かに、最近ぐっと伸びた。
俺は自分の身長をもう一度頭の中で反芻する。
138。
……小さすぎないか。
中古制服。
中学生用。
ブレザー。
俺が、それを着る。
頭の中に浮かんだ映像に、
一瞬、別の意味で不安になる。
それにしても――
俺が制服って。
……犯罪じゃないだろうか。
自分で自分にツッコミを入れそうになって、
慌てて思考を止める。
今は、田中朱音だ。
中学生になる、ただの子どもだ。
千夏はメモを取りながら言った。
「大丈夫よ」
「小さいサイズも、意外と残ってるから」
その言葉に、少しだけ救われる。
午後には、必要な文房具のリストも配られた。
ノート、ペンケース、体操着。
どれも、特別なものじゃない。
でも――
ちゃんと「これから」の話だった。
帰り道、
施設の庭で、桜の蕾が少しだけ膨らんでいるのを見つけた。
まだ咲いてはいない。
でも、春は確実に来ている。
守れなかったものもある。
取り戻せない過去もある。
それでも、
制服を測って、
名前を書く準備をして、
席に座る未来がある。
俺は、田中朱音として、
中学生になる。
それでいい。
それだけで、いい。




