表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/60

第53話 戻れない距離

 ここに、奈緒がいる。


 その事実だけで、

 喉の奥が、ひゅっと縮んだ。


 もう二年くらい――会っていない。


 時間の長さなんて、

 数字でしかないはずなのに、

 心の中では、冬みたいに積もっていた。


 どうなっているんだろう。


 俺が見捨ててしまった家族が。

 俺が置いてきた生活が。


 相談室から聞こえる声は、

 壁越しの遠さでも、

 それでも、やけに生々しい。


「またですか?」


 担当の警察官の声。

 少し気だるそうで、

 慣れた人間の温度だった。


「これで何回目ですか?」


 軽く言ったつもりの言葉が、

 俺の胸の奥に、鈍く刺さる。


「お母さんも探したんですか?」


 何回目。


 何回目って――何の。


 伊吹が、何回目も家出しているのか?


 頭の中が、ざわつく。


 伊吹は、今……5歳だったはずだ。

 数ヶ月たてば、年長になるはずだ。


 なのに、

 “何回目”と数えられるほど?


「本当に申し訳ありません……」


 奈緒の声が聞こえる。


 申し訳ない、と。

 あの奈緒が、

 そう言う声。


「もういっぱい探したんですが……

 いつも行く公園とか、お店とか……行ったんですが……」


 その声には、

 疲れと、

 薄い震えが混じっていた。


 俺は、胸の奥で、

 何かがきしむ音を聞いた気がした。


「友達のところは?」


「それは全員に聞いています」


 奈緒は、必死に手順をなぞっている。


 それでも、

 声が、少しずつ削れている。


「家出した心当たりは?」


 警察官の声が、

 少しだけ真面目になる。


「塾に行きたくないって言ってはいました。

 でも……ここ最近は、いつも、とっくに帰ってくる時間なのに……」


 奈緒の言葉が、

 途中で小さく欠ける。


 それは、涙じゃない。

 無力を嘆くような苦しさだ。


「分かりました。

 では、また行方不明の手続きをしましょう」


 俺の中の世界が、ぐらっと傾く。


 奈緒の声が、

 さらに一段、低くなる。


 疲れている。

 削れている。

 奈緒は疲れている。


 俺は――どうしたらいい。


 伊吹は、何をやってるんだ。


 頭の中が混乱して、

 熱いものが、額の奥に溜まっていく。


 視界が、少しだけ狭くなる。



 背後では、千夏がスマホをいじっている。


 画面をスクロールする音が、

 やけに冷たく聞こえる。


 ……どうすることもできない。


 今の俺には、どうすることも――




 俺は、ゆっくり千夏のところへ戻った。


 千夏は、ちらりと俺を横目で見て、

 それだけで、またスマホに視線を戻す。


 分からない。


 ただ、

 このままでいいのか、という問いだけが、

 胸の奥で膨らんでいく。


 ここで逃げたら――

 また奈緒を、家族を、見捨てることになるんじゃないのか。


 でも、今の生活がある。


 俺は、少女の身体で。

 施設で。

 美桜がいて。


 戻れない距離が、

 目の前に、線のように引かれている。


 その線を越えた瞬間、

 全部、壊れてしまう気がした。


 千夏が急に立ち上がる。


「はぁ〜、いつ終わるの〜」


 気の抜けた声。


「ちょっとお手洗い行ってくるね。

 ちょっと待っててね」


 俺は横目で、

 千夏が歩いていくのを見送った。


 足音が遠ざかる。


 今、ここにいるのは――

 俺だ。


 このままでいいのか。


 答えは、最初から決まっていた。


 もう間違っちゃいけない。


 何ができるか分からない。


 でも。


 それでも、

 出来るはずだ。


 考えるより先に、

 身体が動いていた。


 俺は階段を駆け降りる。


 一段、二段。

 足音が、やけに大きく響く。


 この時間帯、

 正面の出入り口を通るには、

 当直の警察官がいる窓口を抜けなければならない。


 今の俺には、

 それは無理だ。


 ――でも。


 俺は、知っている。


 警察署には、

 もう一つの出口があることを。


 裏口。

 パトカーや関係車両が使う、

 人目につきにくい門。


 ただし、

 そこには番号付きのロックがある。


 俺は、息を整えながら思い出す。


 ……変わっていなければ。


 確か、

 1234。


 あまりにも安直だ。

 でも、それが現実だ。


 俺が勤務していた頃、

 一度も変わらなかった。


 今も、そのままのはずだ。


 裏口へ向かう通路は、

 当直時間帯、

 用がなければ人がいない。


 足音だけが、

 妙に広がる。


 防犯カメラがあるのは分かっている。


 ……でも、

 今は、それどころじゃない。


 門の前に立ち、

 指で、数字を押す。


 カチ。


 一瞬の間。


 そして――

 ロックが外れた音。


 胸の奥が、

 ひゅっと鳴った。


 俺は、門扉に両手をかける。


「……っ」


 押す。


 重い。


 想像していたより、

 ずっと重い。


 警察官だった頃は、

 気にも留めなかった重さ。


 今は、

 少女の身体には、

 容赦なくのしかかる。


「……っ、く……」


 腕が、震える。


 歯を食いしばって、

 もう一度、力を込める。


 ぎい、と

 金属が軋む音がして、

 ようやく、人一人が抜けられる隙間ができた。


 閉める余裕なんて、なかった。


 俺は、

 そのまま身体を滑り込ませる。


 外の空気が、

 一気に肺に流れ込んだ。


 冷たい。


 でも、

 頭が、少しだけ冴える。


 家と警察署は、

 そんなに離れていない。


 この足でも、

 15分もかからないはずだ。


 俺は、

 また街の中を走り出した。


 夕方の空。

 街灯が、ひとつずつ灯り始める。


 制服も、肩書きもない。

 ただの、

 十二歳の身体。


 それでも。


 今度こそ、

 間違えないために。


 俺は、

 走った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ