第49話 過去が追いついてくる音
その日は、施設にとって久々の“外出できる休日”だった。
朝からみんなの空気がどこか浮き立っていたけれど、特に清美は珍しく落ち着かない様子で髪をいじっていた。
「……今日は、奢るから。あんた達、ついてきなよ」
不器用すぎる誘い方だ。
でもその頬は、ほんの少しだけ赤かった。
美桜と俺の三人で、上頭駅へ向かう。
駅のビルに近づくにつれ、休日特有の喧騒が耳に滑り込んでくる。
人混みのざわめきと、どこか子どもたちのはしゃぎ声と、風の匂い。
清美は言葉少なだったが、歩幅が少しだけ早い。
それが“楽しみにしている証拠”だと、俺は気づいた。
◆
ロイヤルホストの自動ドアが開く。
店内の暖かい空気と、油とバターの混ざった匂いが胸の奥に懐かしさを刺した。
――昔、奈緒と、三人の子どもを連れて来たことがあった。
けれども、その時のことは霧がかった写真みたいにぼやけている。
何を食べて、誰が笑って、どんな会話をしたのか……
まるで別人の人生を覗いているようで、胸の奥がチクリと痛んだ。
「これ、美味しいよ。……たぶん」
清美が差し出したメニューの写真を指差した。
照れたような、拗ねたような、そんな声。
ドリアだった。
ひと口食べると、熱さと同時に濃厚な旨味が広がる。
じわっと心がほどけていく。
「……美味しい」
思わず本音が漏れた。
美桜は嬉しそうに笑い、清美は「でしょ」とだけ呟いて視線をそらした。
たぶん本当は褒められるのが苦手なのだ。
少女三人での食事は、静かで暖かくて、どこか家族みたいだった。
◆
会計の時、清美はレジで財布を開いた瞬間、頭を抱えた。
「はぁ〜……高っ。
もうバイト増やすしかないじゃん……」
悪態をつきながらも、声が弾んでいる。
怒ってるふりをして、実は嬉しい時の清美の癖だ。
俺と美桜は顔を見合わせて、思わず笑った。
◆
そのあと三人でデパートに向かった。
休日のデパートは、色とりどりの音で満ちている。
エスカレーターのモーター音、子どもが駆ける靴音、フードコートの呼び込み。
「ちょっと服見てくる。あんた達は……ほら、少し自由行動で」
清美はそう言い残して早足で去っていった。
照れ隠しなのか、そっぽを向いた横顔が少し赤く見えた。
「じゃあ、私たちは……どうする?」
「見て回ろっか」
美桜と並んで歩き出したその瞬間。
視界の端に、緑色の電話ボックスが映った。
公衆電話。
胸が締めつけられた。
あの日からずっと、心の奥に刺さり続けていた棘が疼いた。
「……ごめん、美桜。ちょっとトイレ行ってくる」
「うん。行こう。」
美桜も付いてこようとした。
ついてこられたら困る。
「時間もったいないから…
先見てていいよ」
「うん、じゃあ私はお菓子街見てるね」
美桜は何も疑わずに笑ってくれた。
その笑顔が少し痛い。
俺は小さく息を吸い、公衆電話へ向かった。
◆
――逃げたこと。
あの日、警察署から。
責任を押しつけられたかもしれない元同僚。
(……ああするしか無かった)
保護した少年が消えたとなれば、きっと署内は混乱したはずだ。
報告、謝罪、説明……全ての矢面に立たされたのは、俺の元部下だろう。
(電話したところで、何も変わらない。
ただの自己満足だ……)
それでも。
“生きている”という事実を伝えられたら、少しだけ気持ちが軽くなってくれるかもしれない。
たとえ俺自身は戻れなくても。
公衆電話の受話器に手を伸ばす。
硬いプラスチックの感触が、妙に冷たかった。
硬貨を落とすと、からん、と乾いた音が響いた。
胸の奥が、ゆっくりと重く沈んでいった。
お小遣いとしてもらった数百円を、公衆電話に落とした。
こんな古い機械を使うのは何年ぶりだろう。
昔はあちこちにあった。
今ではすっかり見かけなくなったけれど、こういう古い建物の脇にはまだひっそり残っている。
受話器を耳に当て、前の職場の番号を押す。
ワンコール。ツーコール。
そして。
「はい、高崎警察署です」
女性のはっきりした声が耳に届いた瞬間、
心臓がぎゅっと縮んだ。
「あ、あの……生活安全課の、飯塚さんを……」
「かしこまりました。お名前とご用件をお願いします」
「……高橋です。前のこと、お礼を……言いたくて」
「少々お待ちください」
保留音が鳴った。
飯塚友美。
俺の元同僚で、真面目すぎて損しがちなやつ。
大きな事件があってセクションを外されているかも、と勝手に思い込んでいたけど──
まだ生活安全課にいる。
処分されて飛ばされているわけじゃない。
何度か保留が切れては、再度保留になった後、ようやく電話が繋がった。
「はい、飯塚です」
その声を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
変わってない。
少し背伸びしたような、でもまだ若い頃の面影を残した声。
「あ、あの……」
喉が詰まる。
言葉が前に進まない。
本当なら、「すみませんでした」とだけ言って切るつもりだった。
でも、いざ声を聞くと、全身が震えた。
「高橋さんだよね? ごめんね、どこで会ったっけ?」
俺の声が幼いと判断したのだろう。
急に優しいトーンに変わった。
「こ、この前は……に、逃げて……ごめんなさい」
息を呑む音が受話器越しに伝わった。
「……えっと確認だけど、外国人から署に逃げてきた子だよね?
11月11日の夕方、白い車が来て──」
彼女は、当時の状況を詳しく並べ始めた。
電話越しの“大声気味の説明”は、後ろにいる警察官へ状況共有するための技だ。
現場でよくやっていた。
それを、今は聞く側からやられる立場になっている。
俺の教えは、しっかり生きている。
「うん……本当に、ごめんなさい」
「ううん。大丈夫。あなた……無事だったんだね。
今どこにいるの? お巡りさんたち、本当に心配してたよ」
その優しさに、胸がきゅっとなった。
「い、今は……児童養護施設にいる。元気にしてる。みんな優しいから……安心して」
「そっか。よかった……。ねぇ、今どこ?
一度でいいから顔見せてくれない? 本当に無事なのか、ちゃんと確認したくて……」
その時だった。
「朱音〜!」
背後から美桜の声。
そして、ちょっと怒り気味の清美の足音。
まずい。
「……ごめん、もう行かなきゃ」
そう言って、受話器を置いた。
ことり、と小さな音が耳に残る。
美桜が首をかしげて近づいてきた。
「どこに電話してたの? 清美さん待ってるよ」
「……うん、ごめん。すぐ行く」
ちゃんと伝えられたかは分からない。
でも──
無事でいることだけは、言えた。
それだけで、胸の奥の棘が少しだけ溶ける気がした。




