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第45話 窓際の少女は画面を見つめ

施設の朝は早い。

朝食は六時半。

まだ外は眠ったような空気をまとっている。


大人だった頃――

俺は毎朝五時半に起き、七時には職場へ向かい、前日の事案を確認するのが日課だった。

その頃は眠気なんて、意識の隅に追いやって動けた。


だが今は違う。


(……眠い……身体が、重い……)


六時半ですら起きたくなかった。

この身体は、十二歳の少女としての睡眠をしっかり求めてくる。


美桜の部屋に向かうと、彼女も同じだった。

扉を開けた瞬間、髪も服もまだ整えられていない美桜が、半分眠った目でこちらを見た。


「……朱音……ねむい……」


まだ着替えていないらしく、俺が椅子に座って待っていると、

ふわふわした足取りで近づいてきて――


背中に、ぎゅっ。


「……昨日、一緒に寝れなかったから……

 ちょっと補充……させて……」


寝ぼけた声で抱きついてくる。


(補充……? いや可愛いけど……)


心臓に悪い。

でも嫌じゃない。



ダイニングへ行くと、すでに高校生の子が朝食の皿を運んでいた。

キッチンではゆかりが卵焼きを器用にひっくり返している。


「あっ、朱音ちゃーん。おはよー!」


「おはよ」


返事をすると、ゆかりは笑顔で指さす。


「もうご飯できてるよ!これ持ってって!」


テーブルに運ばれた卵焼きとほかほかの白米。

施設の“兄弟姉妹”が作る食卓は、驚くほどあたたかかった。


それから全員で手を合わせる。


「「いただきます!」」


声が重なり、少しだけ胸が温かくなる。



朝食を終えると、子供たちは学校へ行く準備を始めた。


その途中で、ゆかりがこちらへ駆け寄ってきた。


「ちょ、ちょっと朱音ちゃん!

 寝癖がひどい〜!」


「あ……ほんと?」


「うんうん。そのままでも可愛いんだけど……

 ちゃんとしたら“もっと”可愛くなるよ〜♡」


そう言って、勝手に俺の髪を櫛で整えはじめた。


三つ編みを作る手つきが妙に早い。

警察の取調室で犯人を縛るより早い。


美桜にも三つ編みをしてくれた。


「はいっ、完成!

 じゃ、行ってきまーす!」


ゆかりは大きく手を振りながら、忙しそうに学校へ走って行った。


(……朝から体力すごいなあの子)



俺と美桜は、近くの小学校に通う予定だ。

だが、まだ書類の処理や転校手続きが残っているらしく、まだ施設で過ごすことになった。


(……さて。

 この“新しい生活”……どうなるんだろう)




ダイニングが静かになると、ふと気づいた。

まだホールに ひとりだけ残っている子 がいた。


美桜が、小さな声で俺の袖を引く。


「……あの子、学校行かないのかな?」


「かもね。事情あるのかも」


視線の先――

窓際に座っているのは高校生の女の子。

名前は確か 辻元清美つじもと きよみ


机いっぱいに広げた勉強道具の前で、

清美はスマホを覗き込んでいる。


背中越しにちらっと画面が見えたが、

写っているのは ホーム画面だけ。

LINEの通知も、SNSの画面も開かない。


(……何か連絡待ってるのかな?

 でも、勉強してるようで全然集中してないな)


彼女は問題集を数問解いてはスマホを触り、

また数十秒でスマホに戻る。

充電ケーブルを差しっぱなしのまま、

まるで “それが命綱” と言わんばかりだ。



俺と美桜は、小学六年生の漢字ドリルをしていた。

(簡単……のはず)と思っていたが、

久しく手書きしていなかったせいで、微妙に怪しい漢字もある。


それでもなんとか埋めていると――


「わぁ、全部合ってるじゃない」


背後から千夏が覗いてきた。


美桜のノートを見ると、1割も埋まっていない。

美桜はむぅっと頬を膨らませ、こっちを睨んでくる。


(……しまった。調子に乗って書きすぎた)


「たまたま……です」


慌ててドリルを裏返す。


すると、少し離れたところから声がした。


「ねぇ、千夏?

 もう勉強終わったから制限解除してよ」


清美だ。

視線も向けずスマホだけ見ている。


千夏は清美の解いたページを覗きこむ。


「……全然できてないじゃない。

 終わってからね」


「え〜〜〜無理だよこんなの!

 わかんないし!」


「じゃあ、学校行く?」


「……ん〜、じゃあもうちょい頑張る」


清美は渋々、鉛筆を持ち直した。


千夏は時計を見て小さく伸びをする。


「私は昨日宿直だったから、もう帰るね。

 制限は1時間だけ解除しておくけど、

 勉強は明日ちゃんと見るから」


「はーい……」


千夏が去ると、清美は秒でスマホに戻った。


(……依存症ってやつだな)


両手の親指が、まるで呼吸をするみたいに忙しく動く。



1時間後。


突然、スマホを机にバタンと置いた。


「はぁ〜〜〜……」


どっと疲れたような、燃え尽きたようなため息。


そのあとも、ずっと、片時もスマホを離さない。


そしてお昼――。


「できたよー!取りにこーい!」


清美が野菜炒めを皿に盛って持ってきた。

味は……しょっぱいし、キャベツは硬いし、

ピーマンは大人の俺でも苦い。


(……子供の味覚でこれ食べるの拷問じゃ?)


美桜の顔が明らかに険しくなった。


清美は食べ終わると、


「じゃ、片付けといてねー」


と言い放って、またスマホに戻っていった。


(……こりゃ重症だな……)


そんなことを思いながら、

俺たちは皿を洗い、静かなホールに戻っていった。




 その日の夕方だった。


 夕食を終え、順番にお風呂を待っている時間。今は男子が入っている番で、脱衣所から楽しそうな声が響いてくる。

 俺、美桜、ゆかりの三人はホールの隅でカードを広げて「ダウト」をして遊んでいた。ゆかりが強すぎて、俺も美桜も嘘のつき方が下手すぎて、ほぼ一方的な戦いになっていた。


 その時だった。


「……はぁ? なにこれ」


 突然、清美がイスを勢いよく引いて立ち上がった。

 スマホを両手で握りしめ、肩まで震えている。


「こんなの書いてないし! やだやだやだ、何これ何これ!!」


 画面を見ながら叫び、両親指を叩きつけるようにスマホを操作する。

 あまりの焦り方に、ホールの空気が一瞬で凍りついた。


 すぐに騒ぎを聞いた職員が駆けつけてきた。今日は千夏ではなく、別の優しそうな女性職員だ。


「清美ちゃん、どうしたの? 落ち着いて」


「ちがうの! 本当に違うの! 私じゃないの、こんなの書いてないの!!」


 清美は泣き叫ぶ寸前のような声で訴えている。

 職員は慌てず、しかし強く彼女の肩に手を置いた。


「分かったから……向こうの部屋でゆっくりお話しよう。ね?」


 清美は乱れた呼吸のまま職員に連れられてホールを出ていった。

 その背中は、怒っているのではなく、怯えているように見えた。


 清美の姿が見えなくなったあと、ゆかりが無理に笑顔を作りながらこちらを向いた。


「ごめんね、びっくりしたでしょ。清美、スマホ依存がちょっと強めでさ……。

 スマホのことになると、ああやってパニックになるの。前はもっと大変だったんだよ?」


 ゆかり自身は悪くないのに、どこか申し訳なさそうに肩をすくめる。


 その気遣いが、やけに優しかった。


「うん、大丈夫…」


 俺が言うと、美桜も俺の手をそっと握りながら、


「だいじょうぶ。怖くないよ」


 と同意してくれた。


 それを見たゆかりは「ひゅ〜」と口笛を鳴らしながら大げさに身を乗り出してきた。


「うわぁ〜仲良しだぁ〜! いいな〜いいな〜混ぜて〜!

 はい、ゆかりもー♪」


 と言って、当然のように俺と美桜の手の上に自分の手を重ねてきた。


 なんか、姉妹になったみたいで……少し笑えた。


 そんな賑やかな時間もあって、夜はそのまま就寝となった。



 翌朝。

 いつも通り、6時半の起床アラームが館内に流れた。


 ホールに集まった子たちが眠そうにあくびをしながら朝の準備を始める中、

 一人だけ――清美だけが部屋から出てこなかった。


 玄関で靴を履きながら、ゆかりがこちらを振り返った。


「昨日のこと、気にしなくて大丈夫だからね! ほんと、いつものことだから!」


 そう言って、手をぶんぶん振りながら学校へ走って行った。

 あの子の明るさには、助けられてばかりだ。


 ゆかりは、あの子なりに昨日の空気を和らげようとしている。

 胸がじんわり痛くなった。


 食卓には、甘い香りのフレンチトースト。

 砂糖がふわりと雪みたいに降り積もっていて、朝の光を反射している。


(……甘っ……でも……おいしい……)


 大人だったころの味覚が遠くに霞んでいく。

 今はただ、この身体が「美味しい」と正直に喜ぶのを感じる。


 食後は勉強の時間。

 机がいくつも空いているのに、美桜は当然のように俺の真横に座った。

 肩が触れるか触れないかの、ほのかな距離。


 でも……全然集中できない。

 頭の中には、昨夜の清美の叫びがこびりついて離れない。


 すると、美桜が横から覗き込み、小さな声でささやく。


「ねぇ……清美さん、気になるんでしょ?」


 図星だった。


「……うん。だって、すごく……震えてたから」


「だよね。じゃあさ、勉強終わったら行ってみよ。

 手、冷たいよ? ずっと気にしてる顔してる」


 美桜は、俺が言葉にしなくても気持ちを読んでくれる。

 その優しさが、時々胸の奥まで痛い。


(本当は……巻き込みたくないのに)


 でも、あの子はきっと、俺が一人で突っ走らないか心配してついてきている。


 そんな時──千夏が声をかけた。


「ちょっとお買い物行ってくるね。二人はここで勉強して待っててね」


 千夏が外に出た瞬間、ホールが静けさを取り戻した。


「……今だね」


「うん」


 二人でそっと廊下に出る。

 声を潜め、足音を吸い込むようにして清美の部屋へ。



 ドアの前に立ち、軽くノックする。


「清美さん……?」


 返事はない。


 もう一度、少し強めに。


「昨日……怒ってたから。その……心配で」


 しばらくして、くぐもった声が返った。


「……何?」


 ゆっくり扉を開ける。


 ――息が詰まった。


 室内は、闇に沈んでいた。

 カーテンがきつく閉められ、空気が淀んでいる。

 その中で、ひとつだけ鮮烈に光るものがあった。


 清美の手元のスマホ。


 画面を見えないように傾ける仕草。

 でも、一瞬だけ見えた光の色──青。


(SNS……?)


 清美はベッドの端に座り込み、疲れた瞳でこちらを見上げた。


「……で、何?」


 その声は、昨日の叫びとは違っていた。

 もっと弱くて、もっと脆くて──“助けを求めてるのに拒絶する”みたいな矛盾が滲んでいた。


「昨日、すごく動揺してたから……気になって」


 俺がそう言うと、清美は小さく舌打ちした。


「大丈夫って言ってるじゃん。

 ていうかさ……ここにいるなら、あんまり首突っ込まないほうがいいよ。

 特に……こういうのには」


“こういうの”には──その言い方が妙に引っかかった。


「でも……助けになれるかもしれないよ」


 俺が踏み込むと、美桜がそっと続いた。


「わたしも……過去を隠して、触れられたくなかった。

 でも朱音に助けてもらって、変われたの。

 清美さんも……誰かが手を伸ばしたら、変わるかもしれない」


 その言葉に、清美の肩がぴくりと震えた。


「……あー、もううるさいな。

 無理だって言ってんじゃん。

 これ以上しつこいと……マジで怒るよ」


 怒りよりも、“恐怖で自分を守っている声”に近かった。


(……危険な気配がする)


 胸の内で警察官としての経験が警鐘を鳴らす。


 でも──

 俺は、目の前の背中を放っておけなかった。


 あの叫びは、本当は「助けて」と言っていたのかもしれない。

 誰にも届かない形で。


 だから俺は、あえて核心を突いた。


「清美さん……

 アカウントに入った“相手”が誰なのか……

 分かる方法があるかもしれない」


 瞬間。


 清美の瞳が、大きく、大きく見開かれた。


「…………え?」


 声にならない息が漏れ、スマホを胸に抱きしめる。

 膝が震えている。


 その顔は、恐怖・動揺・拒絶──

 全部が入り混じった表情だった。


「なんで…、そんな……」

 暗い部屋で、

 清美の震えが、スマホの青い光に照らされて揺れていた。

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