#9 黒き真実
「……ん……」
かすかな声を漏らし、煌真のまぶたが震える。
重たい視界が開けていくと、そこにあったのは――至近距離にある葵生の顔だった。
「……っ!?」
目が合った瞬間、煌真は飛び起きるように上体を跳ね上げた。
息はまだ荒い。だが、身体を動かせるだけの力は戻ってきている。
「よ、よかった……!」
夕音が胸を撫で下ろし、千紗も大きく息をつく。
その横で陽が腕を組み、鋭い視線を煌真に向けた。
「……呼吸困難で意識が飛んでたんだぞ」
淡々とした説明だったが、その声音には怒りと焦りがにじんでいた。
だが煌真の耳には、その言葉の前にひとつの妄想が走る。
(……まさか、この距離って……! 葵生さんが……人工呼吸……!?)
頬が一気に熱を帯び、頭の中が爆発するように真っ白になる。
「ひゃ、ひゃいぃぃ……っ!」
と意味不明な声を上げてしまった。
「……」
葵生のこめかみに、また鈍い痛みが走った。
「あの……なんか……気分が悪いので、少し外に……」
ふらつきながら部屋を出ていこうとする葵生の背中を見て、陽は心の中で深いため息をついた。
(……一回、ぶん殴ってやろうか)
その目は、完全に呆れ果てていた。
そんな中、煌真の視線が再び動き――角の暗がりに立つ人影を捉えた。
宮河だった。
彼女の冷ややかな瞳に触れた瞬間、背筋が凍りつく。
さっきの圧倒的な殺気が蘇り、思わず後ずさった。
だが宮河は静かにまぶたを伏せ、低い声で言った。
「……さっきは、悪かった」
その一言に場の空気が揺れる。
予想だにしなかった謝罪。
「事情は全部、陽から聞いた。……お前が“ここに来ることになった”理由も」
瞳はなお深い闇を湛えていたが、言葉の刃は抜かれていた。
その声に、煌真はかろうじて喉を鳴らすことができた。
煌真は、心臓を落ち着けるように深呼吸をひとつしてから、意を決して口を開いた。
「……じゃあ、一つ質問」
「質問?」
「さっき、おれに言っただろ。“喰う”って。……あれ、どういう意味だ?」
部屋の空気が一瞬で重くなる。
宮河の瞳が細まり、ゆっくりと煌真に向けられた。
「……ああ、あれね?」
彼女は短く吐息をつき、立ち上がった。
そして、薄闇に包まれた室内の中央に右手を差し出す。
すると――空間がにじむように揺れ、闇の塊のような“黒い物体”が現れた。
それはじわりと床を這うように広がっていく。
「……!」
煌真は反射的に身を引いた。
背中に冷たい汗が伝う。
宮河は淡々と告げる。
「これは私の“能力”だ。名前はまだ無いが。」
「これが能力……」
「触れたものを、喰う。木も、鉄も、命も。等しくな」
その言葉に、煌真の喉がひくりと鳴る。
闇の塊が、確かに床板の一部を“消し”始めていた。
噛み砕くのでも、燃やすのでもない。ただ跡形もなく、そこを抉り取るように。
「ま、待って……」
「安心しろ。 人間を喰ったりなんかしない。――今のところはな」
最後に付け足された一言が、またしても寒気を背筋に走らせた。
煌真が言葉を失っていると、陽が前に一歩出て、低く補足する。
「……リィズ・テヘダ。それが宮河の本当の名前」
「リィズ……?」
「彼女は――“魔族”だ」
陽の言葉に、煌真の瞳が大きく見開かれる。
「魔族……? なんだ、それ……初めて聞いた……」
「それも無理はないね。だって未だに正体が分かってない存在だから」
陽の声音は淡々としていたが、言葉の端に“警戒”が滲んでいた。
「二年前――色々あって、ここに居候することになった。だけど彼女はユスティティア・ルカヌスの所属じゃないし、第20班の正式な一員でもない。ただ……ここに“いる”だけ」
「……」
煌真は、黒く蠢く物体と、無表情の宮河を交互に見た。
常識が音を立てて崩れていく。
煌真はまだ青ざめた顔のまま、陽に縋るように問いかけた。
「……陽先輩。こいつ、危険すぎるだろ……! なんで、こんな……」
言い終わる前に、宮河――いや、リィズが口を開いた。
その声音は驚くほど静かで、冷たい。
「安心しろ。少なくとも今のところ――お前らに危害を加えるつもりはない」
「……“今のところ”?」
煌真は眉を寄せ、さらに身を固くする。
「じゃあ……何のために、ここに居るんだ。人を喰うかもしれないような力を持って……」
問い詰める声は強がりだったが、震えが隠せなかった。
リィズは少しだけ視線を伏せ、そして淡々と答える。
「理由、か……特にない。ただ……」
黒く長い前髪が揺れ、その奥の瞳がかすかに光る。
「私は――自分が何者なのかを知りたい」
「……何者、って……」
「“魔族”と呼ばれているらしいが、私は自分がどこから生まれたのかも知らない。気がついた時には、ただ生きていた。過去の記憶は――一切、無い」
淡々とした声。だがそれは、無関心のようでいて、どこか底知れぬ“飢え”を孕んでいた。
「だからここにいる。ただの居候にすぎない。……それが気に入らなければ、すぐに出ていっても構わないが?」
挑発にも似たその一言に、煌真は返す言葉を失った。
陽が横で小さく溜息を吐き、肩をすくめる。
「……そういうこと。あんたもそのうち慣れるよ」
煌真はまだ納得できない表情のまま、しかしそれ以上反論もできず、唇を引き結んだ。




