#23 研究室の非常識
昼下がり。
煌真と葵生は、シンセシティ北区にある有名大学の一角へと足を運んでいた。
「……ここに、その“ある人”が?」
煌真が問いかけると、葵生は小さく頷いた。
「うん。大学の教授をしてる人だよ。数年前までは私と共同で研究してた。天才って言葉じゃ足りないくらい頭が切れるけど……一癖どころか、十癖あるからね」
葵生の微妙な言い回しに、煌真は苦笑を浮かべる。
大学の奥へ進むと、薄暗い廊下の先に「志野院研究室」と書かれたプレートが見えた。
扉を開けると、室内は静まり返っていた。
照明は落とされ、モニターの光だけがぼんやりと壁を照らしている。
机の上には見たことのない機械装置や、金属のパーツが無造作に置かれていた。
焦げた匂いが少し漂っている。
「……なんか、SF映画のセットみたいですね」
「そうだね。ここに来るたびに現実感が薄れるんだ」
葵生が苦笑する。
二人が室内を見回しても、人の気配はなかった。
「いないみたいっすね」
「そんなはずは……」
その瞬間、背後から柔らかい声が響いた。
「──葵生くぅ〜〜ん♡」
次の瞬間、葵生の体がふわっと後ろへ引き寄せられる。
黒い影が抱きついていた。
「うわっ!?」
「ちょ、ちょっと!? 離してくださいってば!」
煌真が目を丸くする。
抱きついていたのは、黒髪の長髪で、白衣を羽織った女性だった。
年齢は二十代後半ほどだが、どこか掴みどころのない雰囲気を纏っている。
「久しぶりねぇ、葵生くん。やっぱりあなた、前より可愛くなってる〜♡」
「教授……!いきなり抱きつくのはやめてください!」
女性は満面の笑みで葵生の頬を指でつんつんしながら、ようやく煌真に目を向けた。
「で?そっちの可愛い子は誰?」
「か、可愛い子じゃなくて……!第20班の班長、井原煌真です!」
「ふ〜ん……班長くん、ねぇ」
黒髪の女性は興味深そうに煌真を観察し、ニヤリと笑った。
「あ!もしかして葵生くんのカレシ君かな?」
志野院がニヤニヤしながら口を開いた。
「えっ!? ち、違います!そんなわけないですから!」
煌真は顔を真っ赤にして慌てて手を振る。
その姿を見て、志野院は「ふふっ、かわいい反応〜」と満足げに笑った。
空気を切り替えるように、志野院は棚の上から小さなカップを三つ取り出すと、コーヒーを注ぎ始めた。
「さてさて、それで今日はどんなお悩みかしら?」
葵生が少し前のめりになりながら話し始める。
「昨日、火災現場で捕らえた男がいるんです。尋問もできない状態で……でも、もしかしたらあなたなら何かわかるんじゃないかと思って」
志野院は興味深そうに頷きながら、足を組んだ。
「ふぅん。つまり、心の中を覗く系のお仕事ってことね?いいわ、引き受けるわ。──今すぐ」
「い、今すぐ!?」
煌真が思わず声を上げる。
「もちろん。準備してくるからちょっと待っててねぇ」
彼女は軽やかに立ち上がると、白衣の裾を翻し、研究室の奥に消えていった。
残された二人は、しばらくその場にぽつんと立ち尽くす。
煌真はため息をつき、机の上の湯気を見つめながらぼそっと呟いた。
「……すごい人だけど、癖が強すぎっすね。でも、なんか頼りになりそうな感じもする」
そう言って、出されたコーヒーに手を伸ばそうとした瞬間——
「待って!」
葵生の声が鋭く響く。
「え?ど、どうしたんすか?」
「それ、絶対に飲んじゃダメ。志野院さんの“飲み物”は、普通の飲み物じゃないんだ」
「えぇ……どういう意味ですか?」
煌真がカップの中を覗くと、コーヒーは黒く渦を巻き、わずかに紫色の光を帯びていた。
「……たまにね。飲むと一時的に記憶がぐるぐるするとか、幻覚を見るとか、そういう“副作用”があるらしい」
葵生がため息交じりに言う。
「そ、それもう飲み物じゃなくて薬物じゃないですか!?」
「だから言ったでしょ。“一癖どころじゃない”って」
葵生の言葉に、煌真は苦笑いを浮かべるしかなかった。
──そんな中、研究室の奥から何やらゴトゴトと大きな音が響き始めた。
金属の擦れる音、ガラスの割れる音、そして「いたっ!」という志野院の悲鳴。
「……本当に大丈夫なんすかね、あの人……」
「大丈夫。“結果”だけは、いつも完璧だから」
葵生がぼそりと呟く。
二人は奥の扉を見つめながら、不安と期待の入り混じった沈黙の中で待ち続けた。




