第七話 セミテリオから犬にも乗って その三十
(あのぉ、マック君が兄弟だからブラン君に挨拶、そこまではユリ、わかるけれど。同じ犬ですし。でも、鳥さんやとかげさんともお話できるなんて、いいなぁ)
(ユリちゃん、犬になってみたくなったかい)
(虎ちゃん、いくらユリが何にでもなりたがるからって、他の動物にはなりたいって思いません。人間だって二十年保たなかったのに)
(そうっすか。俺、なんかうらやましかったっす。俺、犬や猫なら少しは、挨拶ってんじゃなくて、芸教えられるけど、あんな色んな動物と話しできるって感じ、もしかしたらマック君ってすごいのかもって。ドリトル先生並っしょ)
(ふむ。人間は人間とも話が通じないですしね。言葉が違うとなかなかね。まぁ、以心伝心と申しましょうか、言葉が違っても心は通じることはなきにしもあらずでしょう。なるほど、言葉があるがばかりに、かえって人間は不便なのでしょうか)
(言葉を得たばかりに失ったものもあるのかもしれませんね)
(動物って、もしかしたらすごいのかしら。わたくし、今ふと思いましたのよ。鶏の鳴き声がね、仏蘭西のと日本のと違いますわと夫に申しましたの。夫は、同じだと。違うのは、英吉利ではコッカドゥドゥドゥ、仏蘭西ではコケリコォ、日本ではコケッコッコーと表しているに過ぎないと。でもね、わたくしの申したかったのは、そうではなくて、本当に、聞こえる声が違っているということだったんです。でも夫は、日本の鶏は日本語で鳴くんだと冗談みたいに申してましたの)
(鶏も日本にいれば日本語で鳴くんじゃないっすか。日本人がみんなコケコッコーって言うから、鶏もそう鳴くもんだって思うとか)
(え〜、そうなんですか。ユリ、鶏がコケコッコーって鳴くから、ユリは鶏はコケコッコーって鳴くって思ってました)
(国によって言葉が違うように、住む場所によって鶏も鳴き方が違うのでしょうか。もしかして、日本の鶏はコケコッコーで、周囲の他の鶏と会話しているのかもしれませんね)
(ご隠居さんの説ですと、で、日本の鶏を仏蘭西に連れて行ってコケコッコーと鳴いても、仏蘭西の鶏は意味がわからなくてなんて、やっぱり僕には冗談にしか聞こえませんよ。カテリーヌさんのご主人のおっしゃったことが、僕には一番妥当に聞こえますよ)
(カテリーヌさんのおっしゃったこと、望も申してましたわ。どうも、住む場所によって、動物の鳴き方が違うみたいですって。同じ日本の中でも、犬どうしで微妙な違いがあるみたいですって。もっと狭い範囲ですと、ブランとマックは話しが通じているみたいでも、他のお家の犬さん達とは微妙に通じていない様に感じるらしいですわ)
(って、やっぱ、あっちの部屋で、マック君は他の動物と話ししていたってことっすか。いいなぁ。マック君ってやっぱドリトル先生並じゃないっすか)
(マック君が他の動物に鼻先付けてただけだろう。あのくらいだったら別に挨拶とか話ししてるってことにはなりませんよ)
(そうですかねぇ、僕には、何か、もっと何か聞こえたような印象でしたよ)
(そんな、ご隠居さん、お医者さんだった方が、そんな非科学的な事をおっしゃらないでくださいよ。文科の僕だって言わないのに)
(いやぁ、僕も文科になりそうだった坊主なりそこないの医者でしたし。それにね、虎さん、非科学的という言葉で片付けるにしては、僕、たった今、目にしましたし耳にしましたしね)
(ご隠居さんの目にした耳にしたで、ユリ気付いたんですけど、ねっ、虎ちゃん、ユリたち、お口もお目々もお鼻もお耳も、ユリ達には見えるけれど、あちらの世界の方には普通、見えませんよね。でも、ほら、ユリ達、互いに触れないけど、でもほら、こうやってお話できているでしょ。虎ちゃんだって、ユリの言ってること聞こえるでしょ)
(それは認めるけれど)
(虎ちゃん、なんかいやいや言ってる)
(まぁ、僕も、こちらに参るまでは、こんな世界があるなどと思ってもいなかったわけですし、坊主なりそこないでしたから、宗教とは何かと科学的に考えてしまいますとね、世界中に色々な宗教があって、そこで崇め奉られ信仰されている諸氏諸神仏は実在したのか、言い伝えられているご利益や奇跡の数々は事実だったのか、あの世があるのか等々、生きる苦しみ、死ぬ恐怖から逃れるための救い道を与えたものが宗教であり、信じていれば日々の恐怖や苦痛から逃れられるから宗教心は数千年も続いているんだなどと思っておりましたがね。そうそう、むしろ私はハナの方が不思議でしたね。あちらの世では、本堂の仏さまがあった頃には本堂で、その後も仏壇でお経をあげて信心深かったのにね、いざ僕がこちらに来てみたら、こんな世界は信じられませんこんな筈じゃなかったんです、ですからね。僕の方は、ほとんど信じていなかったのに、こちらに来てからは楽しんでますよ。たぶん、信じたくないと、目の前にあっても見えない。ましてや見たこともないものは、信じられない、ってのが虎さんでしょうか)
(私もそうでしたわ。最初は、望や愛が動物と話できる、なんて嘘だと思ってましたの。でも、あのお部屋におりますと、だんだん、動物の言葉と申しましょうか、感情かしら、何か伝わって来るようになりまして。今、みなさまとお話ししておりますように言葉ではないのですが、何かこう、暖かさや受け入れてくれたり共感してくれたり嫌だっていう拒絶や無関心を表すような、感情の空気みたいな柔らかい波のようなものを感じられまして、最近とみに。私、生きておりました頃は、こういう話しをすると、主人に馬鹿にされてましたのよ。斑惚けだの、幻覚だのと。精神科が専門の主人にそう言われますとね、自分でも幻聴だったのかしら、夢だったのかしらなんて思って。でも、今では、私、うっかりすると望より私の方があちらのお部屋の動物さんたちと心が通じるように思っております。動物は馬鹿で、人間こそが一番賢いんだって、ずぅっと、そう思っておりましたのよ。でも、独りよがりだったんですね、きっと。動物がこんなに人間と判り合おうとしていたのに、それに気付かない人間の方が愚かなのかもしれません)
(なんか、小学校の林間学校の時に会った、長い髯のじゅいさんみたいな話っす)
(まぁ、林間学校で獣医と会ったんですか。どちらにいらっしゃったの。きっと狸や狐や熊も出る辺りなのかしら。そういえば、森林関係にも獣医の仕事があるって望が申してましたっけ)
(行ったのは、福島県のどっかだったっす。けど、獣医じゃなくて、じゅ医っす)
(えっ、獣医ってじゅういですわ。うの音が入ります)
(うっす。じゅういじゃなくて、じゅ医っす)
(武蔵君、じゅとはどういう漢字なのかい)
(え〜と、ほら、木のこと、桜や紅葉の木の難しい字あるっしょ。俺、苦手っすけど)
(あ〜、樹木の樹ね。えっ、樹の医者がいる時代なんですか)
(そういえば、僕もテレビで見たことありますよ。樹の幹に聴診器をあてて、樹液の流れを聴かせて、木も生きていることを納得させる、ああいう方の事ですね)
(うっす。だから木も生きていて、木も会話してるって言ってたっす。俺たち、ほとんど誰も信じなかったけど、でも、聴診器を耳に入れるとたしかに音してたし。さっきもマック君が話ししているような感じしたし、今なら、木も話しするって言われたらそうなのかもって思えるっす)
(粘菌もそうらしいですしね)
(まぁ、年金も話すんですか、まさか、そうなんですか。まぁ。主人の年金、いえ恩給は良くてね、民男は厚生年金でしょう。健さんもそうですが、ましてや愛などほとんど国民年金だけみたいなものですから、こども達は二人とも主人の受給額に腹立ててましたわ。親の世代がこんなに貰うから、とばっちりを受けているって。国家公務員はずるい、と。愛など、なんで私が貰う予定年額より父親の月額の方が多いんだ、二倍ぐらいならまだしも、十二倍以上なんてあんまりだって。昔の国家公務員は安月給でしたから、退職金と年金で釣られて永続勤務でしたものね。主人ぐらいの年齢でしたら、それで人生の収入は民間の方ととんとんでしたのよ。今の国家公務員は給与も民間の二倍以上だそうで、それで、退職金も年金も優遇されてますものね。もしかして、主人が私に申しておりましたように、共済年金が厚生年金に、厚生年金が国民年金に自分の方が偉いんだぞなどとお話してらっしゃるのかしら。国民年金さんがお可哀想ですわ)
(ここの皆の衆は世代からして年金のことはほとんどご存知ないでしょう。年金じゃなくて粘菌ですよ。ねばるの粘に細菌の菌。南方先生が研究なさってた粘菌にも、今では何か意思や感情があるとされているようですね)
(南方先生、たしか第一高等学校にいらした方ですね)
(そうそう、途中でどこでしたっけ、イギリスに渡られた)
(へぇ〜)
(ユリ、ちんぷんかんぷんです。じゅいだのねんきんだの)
(ユリさん、わたくしもですわ。何のお話していたんでしたっけ)
(動物が話すなんて僕は信じられないということですよ)
(あっ、信じていないのは虎ちゃんだけみたい。ここにいるみなさま、動物もお話しするって)
(ですわねぇ。わたくし何となくそう思っておりますし、夢さまは望さんよりお判りになってらっしゃるようですし、ユリさんも、でしょ。武蔵さんとご隠居さんも何となくそう感じてらっしゃるみたいですし。ロバートさんは行方不明ですし)
(えっ、僕だけですか。畜生は悲しんだり憎んだりしないって言われてましたし、そんな、畜生に感情があるなんて、ましてやそのあるかどうかわからない畜生の感情を畜生でない僕という人間がわからなくても当然でしょうに)
(虎之介さん、たぶん、逆かもしれません、と私、感じておりますのよ。お隣のお部屋の動物さんたち、私が悲しい時にも嬉しい時にも、いっしょに寄り添ってくれるんです。でも、五十年以上連れ添った主人は、私に、そういう意味で寄り添ってくれたこと、あまりなかった様に思います。一緒に喜んでくれたり悲しんでくれたことはほとんど無くて。いえ、こどもたちが産まれた時にはもちろん一緒に喜んでくれました。特に民男の時には最初の子でしたし男の子でしたから。でも、私が何かで悲しんでいても、そんなことは取るに足らないことだと言われ、私が何かで喜んでいると、たかがそんなことで一々喜ぶんじゃない、感激音痴だと言われ。でも、動物さんたちは、私が嬉しい時には一緒ににこにこしてくれ、悲しい時にはぺろぺろしたり黙ってじっとくっついてきてくれたり。感情がないのが畜生なら、主人の方がよっぽど畜生。でも主人が畜生だなんて、おほほ、まず認めることないでしょうけれど。主人は自分こそ万物の霊長だと申しておりましたもの)
(昔の男は、感情を顔に出すものでないと育てられましたからね。中まで感情が無いわけではないでしょう)
(いえ、ほとんど笑顔もありませんでしたし。家族の誰かがちょっと失敗すると小馬鹿にしたように笑ったりするぐらいで)
(うへっ。失敗なんて、俺、しょっちゅうだったっす。っていうか、俺、こっちの世界に来たのも失敗だったし)
(武蔵君、そうだったのぉ)
(うっす。けど、あんまし話したくないっす。まだだめっす)
(公男、あっ。下の子ですが、いつまでも戻ってこない時にも、まったくあいつは馬鹿だから。せっかく大学まで行かせてやったのに、でした)
(それは、悲しみを隠すためではなかったのでしょうか)
(どうでしょうか。一度、主人は民男の前で口をすべらせてしまってね、いいんだ、あの子は失敗してできた子だから、でしたのよ。民男には黙っているように申しましたが、もし民男が公男に伝えていたらと思うと)
(なんだか、夢さましんみりなさってしまいました。もう、人間のお話はやめましょうよ。ユリ、動物のお話してらっしゃる時の夢さまが好きです。いえ、夢さまだけじゃなくて、愛さんも望さんも、とっても生き生きとなさってらして、動物と一緒だとこんなに元気が出るのでしょうか)
お読み頂きありがとうございました。
霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、来週水曜日に再会いたしませう。