第七話 セミテリオから犬にも乗って その二十一
(どんなものでも日々進歩しておりますから、ご自分の専門分野以外はよその医者にお任せになった方が楽でしょうに)
(いえいえ、とんでもない。自分の孫みたいな若造を信用できるか、と。自分が同級生だった連中だって嫌だね。それより上なら耄碌してるだろうし、若けりゃ知識が少ないだろうしましてや自分の教え子なんてとんでもない、で、とにもかくにも自分以外は信用できない人でしたから。医学ですらこうでございましたでしょう。薬学、歯学のことも当然けなしてましたわ。薬学や歯学は医学に行けなかった連中が行く所だ。ですから、自分の歯が抜け出しても放置。結局歯は全てなくして。それでも口は減りませんでした。望が獣医学科を受験するって決めた頃も、私がこちらに参ってから望が獣医資格を得た頃も、孫にまでそうでしたのよ。人間を見る医者は動物を見る医者より偉いんだ、などとね。でも、人間は年齢性別が違っても同じ人間。獣医さんの方が、犬猫から鳥や牛馬、哺乳類だけではなくいろんな動物がいるし、それに、内科から外科、眼科、皮膚科、歯科まででしょ、よっぽど獣医さんの方がたいへんだと私は思っておりましたが、そんな事、口に出せやしませんでした。お話いたしましたでしょ。私の処方箋も、主人が書いておりましたのよ。専門外でしたのにね)
(まぁ)
「ワン、ワン、ワン」<その人の話しいやっ>
(愛も望みもそれを怒ってました。まるで私が主人の実験動物みたいだって。主人の教え子の中にもパーキンソンの専門家がいらっしゃって、でも、主人は絶対にそちらには行かせませんでした。私が愛の所に移ってから愛がそちらに連れていってくれましてね、そうしましたら飲み薬が変わって、私、随分楽になりましたのよ)
(パーキンソンでしたか。あれは大変でしょう)
(難病と言われてますものね。まだ原因がよく分からないそうで。私がパーキンソンを発症した時には、主人はそれは真剣でしたのよ。文献を取り寄せて、それが主人が自分で処方箋を書くようになった元だったのですが、でもね、所詮専門外でしたでしょ。それで、取り寄せた大量の専門書の中に数冊、喫煙女性はパーキンソンには罹らないという統計上有効な数値があるというのを、英語が得意な愛が見つけましてね、それからは、絶対に禁煙しない、煙草がどんどん値上げしていくなら、その内、煙草代を医療費控除にするから、って申しまして)
「ワン、ワン、ワン」<早く戻ってきてっ>
(そうそう、最近僕がネットを覗いておりましたら、男性の喫煙者でもある程度パーキンソン氏病にはならないとされてますね。厚労省はそういう点には触れずに、喫煙の害ばかり伝えている。こういうのを情報操作と言うんですよ、まったく)
(パーキンソンには、遺伝も関係あるらしいでしょ)
(その様ですね。どうも不明な点が多いようですね)
(私、母もパーキンソンでした。それに中風と言われていた母方祖父も、症状は今から思うとパーキンソンだったようで、その上、主人の姉もそうでしたのよ。ですから、愛は、遺伝性の可能性が高いなら、私がなる可能性が高い以上、喫煙をやめるわけにはいかない。今やめたら、COPDや肺がんにもパーキンソンにも両方になる可能性が高いわけでしょ。だったら、せめて片方のリスクを減らす方がましだと)
(その理屈ですと、望さんも喫煙者になりそうですが)
(いえ、望は動物に触れるお仕事しておりますでしょ。動物は臭いに敏感で。望はね、別の理屈をつけるんですよ。今は難病でも、望がパーキンソンになった頃には、きっと治療方法が見つかっているって)
(なるほど)
「ワン、ワン、ワン」<早くお家に帰ろうよっ>
(マック君、よく吠えてますわね)
(みんなが一緒じゃないと嫌みたいで)
(お爺さまもお母様も、義姉さまも、みなさまそのご病気で亡くなられたのでしょうか)
(いえ、私も違いますし。私は心筋梗塞でした。母は老衰、祖父は脳卒中、義姉は元々心臓が弱くて。パーキンソンってね、そのもので死に至ることは希だそうで。でも、手が震えで字が書けなくなりますし、お茶碗も落とすようになりますし、だんだん前のめりになって歩けなくなって、からだがどんどん不自由になりますのよ。とっても辛いです。いっそひといきに死ねたらどれほど楽かと。どんどん憂鬱になって参りまして、自殺したくても、包丁もまともに握れませんし、包丁を取りに行くことすらたいへんで。自分の体が不自由で辛くて、気持ちが落ち込んで辛くて、その上、私が何もできなくなってからは主人が自分のことも自分でしなきゃならなくなりましたでしょ。おいお茶、おい何段目のどの本、とか私に何でも持ってこさせて自分は動かない、縦の物を横にもしない主人でしたから、私が動けなくなってからはあちこち書類や書籍や新聞やチラシが積み重ねられてくずれる状態、それに私がつまづく。私を思う様に動かせなくなってからは当たり散らして、余計に物が散らかる。恩給、国家公務員でしたから、ヘルパーさんを雇っても大丈夫でしたし、介護保険も始まりましたから、人を頼もうと申したのですが、主人は他人を家に入れたくなくてね。こんな散らかってる家や医者の女房が病気だなんて恥ずかしくて人に見せられやしない、と申しましてね。介護保険も、あんなものに頼るなんて恥だと申してましたのよ。食品や日用品は愛がネットで注文して自宅まで送るようにしてましたが、届いた物を箱から出すのも大変で、食事は店屋物とレトルトばかりになって。愛が毎日通ってくるには近いとは言えない距離でしたでしょ。でもたまに来てくれて、そういう時には新鮮な果物を剥いてくれたり、生野菜を頂けましたが。愛が見かねて介護保険適用の準備をしましてね、認定でお見えになる方がいらっしゃるでしょ。あら、この辺りのこと、みなさまご存知ではございませんわね。介護保険、私の頃はまだ初期でしたもの)
(俺、聞いたことあるっす。姉ちゃんの行ってた高校に新しく福祉課ってのができるって、それが介護保険と関係あるんだって)
(僕があちらの世に居た頃は無かった制度ですが、僕、ほら、ひょいひょい息子や孫娘のところに出かけますから、その辺りのことは概ねわかっておりますよ)
(で、その認定される方がいらっしゃた時に、主人は、私の症状を見せようとしないんです。見栄なんですよね。ですから軽い認定で。どちらにしても介護保険を使うのも他人を入れるのも大嫌いでしたから、認定されても、大して変わり無かったのですが。その内、主人は暴力を振るうようになりまして。元々、主人が話し始めて、私が何か申しますと、黙って俺の言うことを聞け、黙っておりますと、聞いているのか、相槌を打ちますと、おざなりに相槌打ちゃいいってもんじゃない、でしたでしょ。ですから私、かれこれ三十年以上暴言には辛くても慣れておりましたが、つねる、たたくぐらいから始まりまして、何か申しましても、黙っておりましても、相槌打ちましても、何を生意気な、自分でまともに動けない者が、俺に向かって何を言うんだ、なぜ黙っているんだになりまして、主人なりの理由、理屈があってもなくても殴る、髪の毛をつかまれて引きずられたり、馬乗りになって首を絞めたりされるようになって。主人の怒鳴り声や私の悲鳴でお隣の方が警察に連絡することも何度か。でもね、警察の方がいらした時には収まってますし、世間体を気にする主人は何事もなかったかのように応対してますしね、私はおまわりさんの前では主人が怖くて何も申せませんでしたし。交番からは連絡先の息子の方に何度か電話したそうですが、民男は、夫婦喧嘩で叩いたぐらいで何を騒いでいるんだ、そんな事で一々来る警察はよっぽど暇なのか。民事不介入なのに、おふくろが少し我慢すれば済むことだろう、と私に文句を言う始末)
(まぁ)
(お子様三人でしたわね。もうお一人は)
(あぁ、あの子は山で...あの子がいたら少しは違っていたのでしょうか。大学の時に山に行ったっきり帰って来ませんでした。最初の数日はもしかしたらどなたかに見つけられて助かるかも、数週間はどこかに入院しているのかもと思っておりました。記憶喪失でどこかで生きているかもしれないと数年間は思っておりましたが、結局帰ってこないままもう三十年ぐらい経ちました。たぶん谷川岳あたりのどこかの土になっているんだと思います。墓石には名前も記しておりませんもの。下の子は大学に行ってましたのにね。医学部ではなかったものですから、死亡届を出してもしばらくは、予備校の案内が届いていたんですよ。医者の子が誰も医学部に行かないのは変だと思われたみたいで。でもねぇ、あの主人を見て育ったこども達は、医者にも大学の先生にもなりたくはなかったのかもしれません。それに、もしこども達がどこかの医学部に入りでもしたら、さぞかしいじめられた事と思いますわ。きっと主人は外でも威張り散らしていたでしょうから)
(そういうものなんでしょうか、あっ、医者の子は医者になるというのは)
(まぁ、私の所は代々医者が家業になりましたねぇ。でも、私からですがね。江戸時代から代々医者の家も結構ありますしね)
(え〜とですな。我輩は、煙草の煙の恩恵に浴しておりませぬな。香りはまぁ僅かながらその恩恵に浴しておりますが、しかし、煙は高い所に行くものなのだと、マック君に乗っておりますと、つくづく感じさせられております。いやはや、やはり愛さんに乗るべきか。しかしながら、犬に乗るなどという滅多に無い体験を楽しみたいとも思っておりますのでして。ましてや煙と共に高い所に登りたがる馬鹿者にはなりたくないものでして、などと申しております内に、煙草をお吸い終わりになってしまわれた。残念至極)
(望さんが出てらっしゃいました。なんだか武蔵君嬉しそう。でも虎ちゃん変)
「はい交代。もう、マック、うるさいでしょ。落ち着いて選べなかったじゃないの」
「QUOカード二枚目は残ったでしょ」
「うん、これ」
「マック、静かにしててよ。すぐ戻ってくるんだから。愛ちゃんもすぐ戻ってくるんだからね」
「ワン」
(僕は望さんに移りましょう。まだこの辺り、煙草の残り香が漂ってますしね)
「ワンワンワン」<行っちゃだめっ>
「マック、もうっ。あと少しでお家でしょ」
*
新春のお喜びを申し上げます。
毎日がどなたかの誕生日、毎日がどなたかの命日。
新年を迎える度に、彦衛門さまの命日が1月1日であることを思い出させられます。
そして、
お読み頂きありがとうございました。
霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、来週水曜日に再会いたしませう。




