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第六話 セミテリオに里帰り その十四

(アメリカ人の匂いの件はよく訊かれました。長く日本にいるアメリカ人からは匂わないそうで。多分に、食生活なのではなかろうかと。亜米利加人は、牛肉をよく食べますからな。それでかと。日本に参ると、そうそう牛肉は食べられませんでしたから匂わなくなるのではなかろうかと。我輩、日本人というより、日本の匂いなら申せるのですが)

(ロバートおじさん、日本の匂いって何の匂いっすか)

(糠漬けですな)

(まぁ、糠漬け。懐かしゅうございます。糠をかきまわすあの小さな幸せ)

(まぁ、わたくしは苦手でございました。臭いでしょ。なんであんな臭いものをお口に入れられるのかと。残り物のお野菜を女中が自分用に漬けておりましたの。でも、台所の床下に隠しておりましたから、文句も言えず)

(カテリーヌさま、それは隠してあったのではなく、糠漬けとは床下に置くものなんですよ)

(まぁ、そうでしたの。わたくし、てっきり、わたくしに見つかると叱られるからと女中が思って隠していたのだと)

(おほほ。床下に置いておくと、地の気が育ててくださるの)

(地の気ですか)

(わたくしたちは空の気ですわね)

(あれは、温度と湿度が発酵に丁度適しているからで)

(虎ちゃん、温度とか湿度とか発酵って理科でしょ)

(うん)

(虎ちゃんって理科に弱いんでしょ、信じていいのかなぁ、ユリ、地の気の方がいいもん)

(あっ、ユリちゃん、意地悪になった)

(そりゃぁ、いつも虎ちゃんに意地悪されているから、時には仕返しよ)

(糠漬けって台所の床下で作るものっすか。スーパーで買って来て冷蔵庫に入れとくもんだと俺思ってたっす)

(スーパーって、あっ、ユリ思い出しました。チェリー。びわちゃんからお花屋さんちの彩香ちゃんに乗り移った時の。何でも売っている所でしょ)

(へぇ〜、スーパーってもしかして、昔はなかったっすか。じゃぁどこで食べ物売ってたっすか)

(お米屋さんや八百屋さんやお魚屋さんやお肉屋さんや乾物屋さんや)

(乾物屋さんってなんっすか。八百屋や魚屋は今もあるっすけど)

(え〜っ、武蔵さん、乾物屋さんを知らないのぉ。乾物屋さんって、昆布とか干椎茸とか干海老とか干物とかお海苔とか売ってるのよ)

(あっ、それっ、全部スーパーで売ってるっす)

(いい時代になりましたねぇ。六十年前には考えられませんでした。何もかも不足しておりましたのに。今は何もかもあふれているんですねぇ。あの時の、いい匂いがする清潔な米兵って克子の言葉が怖くてね。昼日中からちゃらちゃらした服と厚化粧の若い女が米兵の腕にぶら下がってましたのよ、あちらこちらで。克子が悪い影響を受けたらどうしましょうって、心配でなりませんでした。朝子は朝子で、お母ちゃま、東京ってやっぱり千葉とは違うわ。みんなもうもんぺなんてはいてないもの。私も昔みたいにお洋服着たい。そう申されても、服どころか食物が先、朝子の卒業までまだ二年、何より寒い冬を越す方が先でしたものね。年が明けた頃、克子が神奈川に療養する前まで教わっておりましたお琴の先生が、音楽学校を受験してみないかとお葉書をよこしました。数年間お琴から離れていたのに今更と私は思いましたのよ。なのに、克子は、焼けなかった先生のお家にしばらく居候させていただいて、そういう時にもお米を持たさねばなりませんでしたでしょ、母屋から買って持たせましたよ。で、受かってしまったんです。普段でしたらお目出度いことでございましょ。でも、先立つ物が。幸いにも終戦前に千葉の土地を買ってましたし、松澤の方も家はなくとも土地は残ってました。でも、何しろ、ただでさえ不安なところに、二月に預金封鎖をされましたから、旧円紙幣は使えず、三月からは預金引出額が制限されましたから、ただ同然で千葉の家と土地や松澤の土地を売って食物に換えることも考えましたが土地があれば、お野菜はできますものね。そんな食費中心の生活費ですらままならないのに、合格されても授業料も出せず、結局克子には涙を飲ませました。がっかりするかと思っておりましたら、案外あっけらかんとして、お母ちゃま、私、死にものぐるいでお琴をおさらいしたので、もう充分です。それに、もしかしたら私、案外英語が好きかもしれないから、英語でお仕事探します、米軍には英語を使えるお仕事がいっぱいあるって。私は、年末に見た、米兵の腕にぶらさがっている若い女達を思い出してぞっといたしまして、まさか克子、ああいう真似はなさらないで。お母ちゃま、ご心配なく。お琴の先生の所で以前お友達だった方のお父様が紹介してくださるって。ということで、数日後、娘は働き始めました。一年ぐらいはそのお友達のお家に居候させて頂いて、もちろん、お米は持たせましたよ。克子が千葉に帰ってくる度にお野菜も色々持たせました。克子が最初にお勤めいたしましたのは丸の内にあった占領軍の事務所で、翌年からは出来立てのグランドハイツ、あらっ、グランドではなくて、グラントでしたかしら。よく克子に直されましたっけ。そこのPXで働き始めました)

(PXとは軍隊の購買部のことですな)

(日本にそういう場所ができたのですか。占領されるということは、そういうものなのでしょうか)

(お母上、日本も日本、都内にですわ。お母上は成増の飛行場をご存知でしたかしら)

(いえ、わたくしは。でも成増でしたら分かりますわ。農村地域でしたでしょ。一面大根畑でしたかしら)

(あっ、僕、分かります。成増飛行場ですね。僕がこちらに来る少し前だったと思いますよ。首都防衛飛行隊の飛行場ですね)

(あの頃は、帝国陸海軍の施設はもちろん、あちらこちらの大きめの建物や洋風建築が片っ端から接収されました。成増飛行場はグラントだったかグランドハイツになったのです)

(我輩思うに、グラントではなかろうか。グラントでしたら亜米利加の、以前お話しいたしたリー将軍の好敵手がグラント将軍でしたな。我輩が小学生の頃に大統領になられたので、そのお名前かと思いますがな。南北戦争の北軍の将軍として名高い方でしたな)

(おっ、ロバート殿、覚えておりますのっ。南町奉行か北町奉行かと私は尋ねた覚えがございますのっ)

(そうそう、それですな)

(負けても人気のあった南の将軍でしたのっ。そのお方のお相手の名ということですのっ)

(然様、グラント将軍)

(でも、皆さんグランドっておっしゃってましたわ)

(bedがベットになり、Grantがグランドになったわけですな)

(ふ〜ん、それって、全部東京の話しっしょ。東京に大根作っていた所があったり、羽田空港以外に飛行場があったり、それだけでも不思議なんっすけど、そのなんとかハイツってのはなんっすか)

(空港とは飛行場のことですのっ。で、飛行場の名前が羽田ですかのっ、こりゃ面白い。飛行機の羽は田んぼで取れる、わはは。おや、もしかして、そうなのかのっ。飛行機の羽は何で作るのかのっ)

(えええっ、そうなんですか。ユリ、飛行機の羽って金属だと思ってましたぁ)

(ユリちゃん、当たり前だよ。僕が昔乗せてもらったグライダーの羽は布だったけれど)

(ほらぁ、それに、鳥の羽って羽でしょ、とんぼの羽って羽でしょ。紙飛行機の羽って紙でしょ、だから、飛行機の羽が、例えば麦わらだったら軽いから飛べると思ったんだけど)

(だんなさ〜。羽田はわたくしは存じておりますよ)

(そりゃ、マサは私より三十年も長生きしたからのっ)

(だんなさ〜、計算間違えてらっしゃいます。わたくし、だんなさ〜より二十四年分長生きいたしました。だんなさ〜がこちらにいらしてからも、わたくしはあちらで三十一年長らえましたけれども。羽田って、だんなさ〜、鈴が森刑場のもっと南、六郷より海よりですわ)

(そんな辺鄙なところに飛行場があるのかのっ)

(辺鄙だからこそ、飛行場が作れたのだと思いますよ)

(辺鄙だったっすか。へぇ〜。周り、工場や倉庫がいっぱいで)

(武蔵君、あの辺りは漁師と猟師の村だった筈)

(あの辺りで魚や、もしかして狸や猪や熊が取れたっすか)

(狸や猪は、僕も知らないけれど、魚は取ってましたね。海苔も作ってましたね)

(私が江戸に参った頃は、狸や狐、鹿はおったのっ)

(そうそう、浅草海苔。浅草じゃなくて羽田で採っても浅草海苔って言ってましたわ)

(お母上、みなさま、私がこちらに参ります前にも、まだ羽田で海苔は作っておりましたよ。それに、新幹線の中から漁船が見えました。開さんが時折海外へ出かけられて、そういう時には私も飛行場にお見送りに参りましたのよ。今は、あそこ、新橋、いえ浜松町からモノレールで行けますわ)

(モノレールって、遊園地のですか)

(うっひゃぁ、お爺ちゃん、ここの話しって面白いっす)

(武蔵君、何が面白いのですか。遊園地の話ですか)

(ほら、武蔵、失礼だろう。皆様すみません)

(いえいえ、楽しんで頂けるなら幸いですわ。わたくしのロビンももう少し世の中を知ってからこちらに参りましたなら楽しめましたのに、ロビンは遊園地も存じませんもの。あら、湿っぽくなってしまいますわね、申し訳ございません)

(浜松町から羽田空港までモノレールが走っているんですよ)

(んまぁ)

(では、飛行機に乗る前に、遊園地気分ですわね)

(いや、もう、山手線と同じ様な感覚で、十分以内に一本ぐらいあるのではないでしょうか)

(んまぁ、電車が繋がってしまいそうです。よく、前がつっかえませんこと)

(競馬場の脇、東京湾の上を走るんですよ)

(ほぉっ、東海道線と同じですのっ。あれは品川辺りは海の上を走っておったのっ。競馬場は、無かったがのっ)

(うっそぉ。新幹線が海の上を走ってるっすか)

(武蔵君、新幹線ではなくて、東海道線ですのっ。あの超特急というのには私も京都まで乗ったことがありますが、下に海があったかどうか、何しろあの速度、怖くて景色を観賞するゆとりなどなかったのっ、マサ)

(まぁ、お父上お母上、新幹線にも乗られたのですか。まぁ、勇敢ですこと。いえ、私は生存中は乗りましたわ。朝子のいた京都まで)

(そう、絵都や、同じですのっ。私とマサは、お前がこちらの世に来たことを知らせにここに来た朝子に乗ったのですのっ。絵都の孫の綾子が摩奈を生むので実家に帰る時でしたのっ)

(まぁ、そうでしたの。私があちらのお墓に入ってすぐの頃かしら。私、ここに参る時の様な移動ができるとはまだ存知ませんでしたから。存じておりましたなら、ご一緒いたしましたのに。生まれたばかりの曾孫に会えたのやも)

(お爺ちゃんとお婆ちゃんののあの面白い話、ユリちゃん好きだものね)

(あら、虎ちゃんだってお好きでしょ)

(わたくしも好きです。マンナの摩奈さん)

(我輩も楽しませて頂いております)

(あら、みなさまご存知なのですか。知らぬは綾子の祖母の私だけ)

(まぁ、その内、絵都にも話して進ぜよう)



お読み頂きありがとうございました。

霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。

毎週水曜日に更新しております。

次回は6月15日の予定です。

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