第六話 セミテリオに里帰り その十二
(増上寺の門っ。懐かしいのっ。あの門に上ると、江戸湾、いや東京湾がすぐ近くに見えてのっ。東海道を走る汽車も見えましたのっ。桜島は見えませんでしたがのっ)
(ほう〜。増上寺の門に上れたのですか。東京湾が見えたのですか)
(へぇ〜。お爺ちゃんでも驚くことあるっすか)
(武蔵、私はお爺ちゃんではあるが、ここにいらっしゃる彦衛門さまよりはずっと若いからね)
(あっ、そうっす)
(義男殿、増上寺の門、上れないのかのっ)
(あそこに上れるなど、考えても見ませんでした。それに東京湾が近くなどとは。あの辺り、ビルが多いから、今は東京湾は見えないと思います、いえ、何しろ上ったことがないので定かではありませんが。門で上ったことのあるのは、天安門ぐらいですよ)
(天安門とは、東京のどこにある門ですかのっ。凱旋門とは別の門ですかのっ)
(凱旋門はフランスですね)
(いや、日本にもあったのっ、日露戦争凱旋門)
(ほうっ、日本に凱旋門があったのですか、いやはや)
(あれっ、お爺ちゃん、また驚いてるっす)
(凱旋門のことは、以前どなたかとお話いたしましたのっ)
(そうそう、僕は見た事なくて、ユリちゃんは見たことあって、っての)
(天安門は中国ですよ)
(中国なら、絵都の初婚のお相手がいらした、つまり私の旧友の住む、いや住んでおった地で、少々詳しいのですがのっ、中国のどちらで)
(彦衛門さまは、中国にもお住まいだったのですか。天安門は北京ですが、彦衛門さまの頃にはなかったのでしょうか。結構古い物だと思っておりましたが、でも毛沢東が上って演説していた場所ですから、それほど古くはないのでしょうか)
(長州と雲州と伯州とあと、マサ、どこに異動したかのっ。中国には赴任いたしましたが、北京というのはあったかのっ)
(わたくしは存知ません。その毛沢東という方も)
(ニュースで見た、中国の偉い方々が上って演説する門に、外国からの、私は戦争をしたわけではないのですが、それでもうっかりしたら恨まれているかもしれない日本人観光客が、天安門に上れるなんて、驚きでしたよ)
(あっ、大戦後なんですね。観光客としてですか。戦前支那にはたくさん日本人いらしたので義男さまもその中にいらしたのかと)
(僕は戦後も戦後。たった十年程前ですよ。年金生活で暇をしていたので)
(年金とは、よいご身分で。官吏だったのでしょうか)
(えっ、いえ、官吏だったのは親父で)
(まぁ、お父様の恩給が頂けたのですか)
(いえ、まさか。僕が自分で払っていた年金ですよ)
(それでご旅行ができる程、ゆとりがあられた。やはり裕福なご家庭なのですね)
(いやぁ、そんなことないです。僕の世代の年金はいいんですよ。今はひどいらしいですね。会社務めでないと、毎月六万ちょっとらしいですよ)
(まぁ六万も)
(ユリちゃん、物価は分からないよ。僕たちの頃なら月給四十円って高給取りだったけれど)
(絵都、月六万というのはよいのかのっ)
(私がこちらに参った頃ですと、もう六万では厳しかったと思いますよ。間借りでもお家賃が二万円ぐらいでしたから、後、食費と光熱費でかつかつだったのかしら)
(まぁ、それでは今のあちらの世は大変なのですねぇ。いえ、今もかしら。いつも生きるのは大変ですものね)
(それで自殺してセミテリオに来る方が多いのですわね。日本では自殺は構いませんでしょ。キリスト教では自殺は禁じられてますのよ)
(日本では自害というのはある種美徳でしたからな。我輩には不思議でなりませぬが)
(毎月納めて、年金貰う頃になったら、騙されたって思うらしいですよ。幸い、私の世代はぎりぎりそう思わされなかった。いえ、会社務めはねまだましなんですよ。武蔵の父がぼやくことぼやくこと。年金払わされて、きっと貰う頃になったら光熱費もまかなえないってね。で、恩給生活の、つまり公務員の年金はいい。で、国民年金を管理している公務員はそこそこの生活ができて、管理した国民年金で生活する方はかつかつ以下。よくみんな耐えていると思いますよ)
(国民は騙されるものです。私も預金封鎖に騙されました)
(それでも義男さまは、ご旅行)
(いえ、安いもんですよ。パックツアーなんで)
(ぱくつあーとは何ですのっ。ぱくぱく、ぱくつくことですかのっ)
(旅行っす。喰うことじゃないっす)
(新しい日本語ですかな)
(えっ、ロバートおじさん、英語っす。pack tour)
(ほうっ、tourは確かに旅行だが、包みの旅行ですかな、ぱっく、パック、あっ、packageですかな。package tourっ。Thomas Cookが初めたあれですな。運賃も宿も含まれているという。おっと、彦衛門殿、あながち間違いではないかもしれませぬな。食事も付いているというのもありましたな)
(ほら、ぱくぱく旅行ですのっ)
(そうそう、それです。確かに色々食べました。家内と参加したんですよ。後十人ほど。北京についてからは中国人で日本語ぺらぺらのガイドがついて)
(がいどんとは何でしょう。通弁のことでしょうか)
(お母上、案内人のことですよ)
(通弁ってなんっすか)
(通訳のことを昔はそう呼んだんだよ)
(私が幼い頃には通辞とも呼んでおったのっ)
(ふ〜ん、言葉って変わるっすね)
(しかしのっ、中国に旅行するのが贅沢とは、まだまだ世の中貧しいのかのっ。新幹線で大阪まで行き、そこからまた鉄道に乗るだけではないのかのっ)
(いえ、飛行機ですよ)
(ほうっ)
(その案内人、がいどんでしたかのっ、が日本語ぺらぺらなのは日本であるからして当然とはいえ、何故がいどんは中国人なのですかのっ。中国人とは支那人のことであろうのっ。支那から中国にやってきた留学生の、え〜と、武蔵君が言ってた職業学生ですかのっ)
(あっ、バイトっすね)
(いえ、中国に住む中国人ガイドで、でも日本語はぺらぺらでした)
(いやぁ、中国に住んでいるなら、日本語はぺらぺらであろうのっ。私が赴任した頃も、そりゃぁ方言はあったが、皆日本語を話しておったのっ)
(お父上、お父上のおっしゃる中国は、長州や芸州のことでございましょ)
(他に中国はあるのかのっ)
(お父上も先ほどおっしゃってましたでしょ。中国人は支那人と。つまり、中国は支那のことですわ。今は、支那とは呼ばず、中国と呼ぶのですよ。北京はその中国の首都で、天安門は北京にあるんですよ、ところで義男さま、天安門は古いと思いますよ。溥儀皇帝が住まわれた紫禁城の門ではなかったかしら)
(ややこしいですのっ。で、日本の中国は中国のままなのですかのっ)
(いえ、中国地方と言います)
(それでは、支那の地方みたいですわね)
(いや、長州や芸州の辺りは昔から中国と呼んでおったのっ。支那を中国と名付けた方が後ですのっ)
(天安門や、後ろの故宮や、そうそう、万里の長城にも行きました。あれはすごいですね。でも、高齢者には疲れました。 北京ダックも頂きましたよ)
(横浜で頂いたことござるが、本場のはさぞかし美味なのでしょうな)
(大連で見かけたことはございますが、なんだか汚らしくてね)
(勿体なくてね、どうして皮だけ食べるのかと)
(へぇ〜。肉はどうするん)
(肉を食べるのは通じゃないそうでしてね)
(ほんと勿体ないですわ。でも、どなたかが肉を召し上がるのかしら)
(肉を食べようとしたんですよ。そしたら、ツアーの同行者に邪道だと言われて)
(人の数だけ意見がありますからな。我輩、外交官でありながら、亜米利加と日本しか知らぬままこちらの世に参りましたが、それでも育った所は南部、外交官の常識として仏蘭西語も学びましたから、仏蘭西の文化も少々。面白いものでして。食事のマナーも、国それぞれ異なるのですな。いや、亜米利加国内でも、武器を持っていないことを表すためにフォークを持たない手をテーブルの上に出すべきである、いや、左手でナイフを持たない時には左手はテーブルの下にあるべきだというのもございますし、野菜が出て来るのも、亜米利加では最初ですが、仏蘭西ではカトリーヌさん、最後ではなかったですかな)
(然様でございますわ。ロバートさま)
(よって、我輩は、それぞれの国の文化をあまり気にせぬようになりましたがな。気にしていると疲れます。うどんや蕎を静かに頂くと、日本では文句を言われましたが、音を出して食べようったって、やたら空気ばかり飲み込むわけでしてな)
(ロバートさんにそうおっしゃられると、私、今更ながらにあの時に北京ダックの肉を食べなかったのが悔やまれます。そういえば、皿を傾ける時にも西洋ではあちらに、中国では手前に傾けるようでしたね、あれっ、逆でしたか)
(食い物の恨みは長いのっ。ここにおると、食い物の話しが出るとたまらぬのっ)
(だんなさ〜)
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霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
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次回は6月1日の予定です。