第六話 セミテリオに里帰り その十一
「番号の記憶間違いかなぁ。手帳も失くしてしまったし。でも確かこの辺の筈」
(みなさまのご子孫ではございませんか)
(ユリの弟の子の子孫じゃないと思います、もう、分からなくて、たぶん)
(僕の子孫でもないと思いますよ、僕も、たぶん)
(我輩のではなかろう)
(わたくしの子孫でしたらもう少し日本人らしくないと思います)
(マサ、私達の子孫にいるかのっ。直系でないといるかもしれないが、僕の家と言ってるから、違いますのっ)
(お爺ちゃん、僕の知らない、あの年くらいのおじさんっていないっすよね)
(いないね)
(夢さまの所とか、ご隠居さんのお宅とか、でもお見かけいたしたことございませんわね)
(あら、北口の方に去って行かれました。お話、続けますわね、ユリさん、戦争に負けるということは、並たいていの辛さではございませんでした。それまで負けるということを体験いたしたことございませんでしたもの。確かに薩英戦争では薩摩が負けましたが、私が生まれる前のことでしたし。戊辰戦争や西南戦争では私の父方は勝ちました。もっともこれも、国内でのことでしたし。私が生まれた四年後に日清、十四歳の時に日露、満州におりました時に日独、帰朝いたしましてから日中、全部日本は勝ち続けておりましたから、日米戦争でも、日本は勝つと信じておりました。真珠湾攻撃で目覚ましい活躍でしたし。蒙古襲来の時の様に、いざという時には神風が吹くと思っておりました。まして、日米戦争は欧州でのドイツとイタリアとお仲間でしたものね。負けるわけが無いと。 ドイツとイタリアが戦線離脱した頃からは、 本土決戦に備えよ、一億特攻などの言葉も紙面を賑わしでおりましたし、ラジオが日々伝える戦況も勇ましく日本に有利な状況ばかりでしたし。敵機来襲の空襲警報が頻繁になっても、 吹くであろう神風の名を取った特攻隊の神風が活躍してらしたし。耐えねば、ここで踏み堪えねば、戦地ではもっと苦しんでらっしゃる、銃後の護りはしっかりと、と思っておりました。配給品がとどこおり、家を焼けだされ、それでもまだ、負けるなど思いもしませんでした。一億総玉砕、まさかそんなことねぇ。千葉で間借りしていた農家の軒先で、農家から分けて頂いた、と申しましても購入した、いえ、疎開先で配給もとどこおってましたからね、闇米ですわね、その貴重な玄米をこれまた貴重な一升瓶に入れて、棒でつついておりましたら、正午からラジオで大事な放送があるから集まるようにと連絡が入り、でも、私、松澤で焼けだされた時に、ラジオを抱えておりましたから、ラジオも一緒に疎開しておりましたので、公民館には参りませんでしたのよ。疎開先では言葉も違いましたし、田舎者ばかりで、お話が合いませんでしたからね、最低限のお付き合いしかいたしておりませんでしたの)
(確かに、言葉の違うのは辛いですわね。でも、みなさまとお付き合いすると、楽しいものですよ)
(まぁ、お母上、お母上も、富士見町にお住まいの頃はおっしゃってらしたではございませんか。どこそこのどなたかは、何々の出で、卑しいなんだかんだと)
(あちらの世におりました頃はね。わたくしも、薩摩から出て参りまして、色々言われておりましたから、つい。でも、そういうことは大したことではない、みなさんそれぞれ色々ご苦労なさってらして、何を大切にしてらっしゃるかが違うだけなのではと、老いていくにつれて考え方が替わりましたわ)
(マサ殿には何が大切ですかな、我輩は、日本のことを知りたい、もっと知りたいというのが最大関心事でしたがな)
(薩摩育ちだからと馬鹿にされてたまるか、と思っておりました。こども達が、江戸のこども達となんら変わらない、そう思われる様に気を遣いました。でも、薩摩の出だということを誇りに思わせたいので、どう伝えるか、苦労いたしました)
(ほう、マサはそんなことに腐心しておったのか。考えなくとも、我らはあの緑の山、青い水、竹を揺する清い空気の宮之城の出であるのっ)
(だんなさ〜。女は、日々の生活で苦労いたすものなのです。お買い物に参りますでしょ。最初は、言葉やしぐさの違いから、すんなりとは進まず、その内、あちらはこちらが田舎者、江戸育ちではないからと言い、こちらは相手の学のなさのせいにして、学の無いのは、学ぶ機会がなかったのだろうと思え、学があろうとなかろうと、他人に対して心を閉ざすか開くかの違いだと思い、他の方を何かで分けてしまうのは、それはわたくしが尊大なのではと省み、いえでもやはり、話の通じない方はたくさんいらっしゃると思い、話の合う方々と話しが合うのは、ご出身階級や稼ぎや出自とは関係無く、他の方に対して同じように心を開くかどうかであって、他人に尊大になる人は卑屈にもなるのだと見極められるようになりました)
(うわぁ、マサさま、さすが長生きしてらっしゃった、いえ、あちらの世だけじゃなくて、こちらの世でも。ユリなんて、お話楽しめるなら、どなたでも構わないのに)
(どの家庭に生まれるか、その家庭がどの社会的経済的階級に属するか、その家庭が属する地方、国家がどのような経済的国際的立場にあるかで、色々と異なりますね。そういうのが色々とつきまとうのが人生なのかと、僕は思います)
(なんだかみんな難しいことばっかりっす。どこで生まれたって、いつかは死ぬんだからどうでもいいっす)
(武蔵君、こういうものにとらわれて生きていくのがあちらの世)
(でも、考えたって仕方ないっす。だって、どんな家、どんな国に生まれるかなんて、自分で選べないっす)
(そうですわね。わたくしも、もし英吉利に生まれていたならとか、自国でもナポレオンの頃、ルイ何世の頃に生まれていたならなどと考えはいたしましたが、それはそれで楽しかったものの、いつどこに生まれるかなんて選べませんものね)
(キャサリンおばさん、さすがフランス、ナポレオンが出て来るんだ)
(カテリーヌですわ)
(皆様、お話続けてもよろしいかしら。大事な放送のお話でしたのよ)
(絵都、ここではいつも井戸端会議。いつもこんな調子で、時には、何の話をしておったのかわからなくなるのっ。あまり気にせずに、気楽にのっ。さもないとあんもないと長生きできぬのっ、いや、もう生きてはおらぬがのっ。昇華したくなければ、だがのっ)
(父上、そのさもないとあんもないととは何でしょう)
(おっと、つい使ってしまったのっ。今日はいらっしゃらないが、ご隠居さんの口癖でのっ、語呂がいいので気にいってるのでのっ)
(それでは続けさせて頂きます。大事な放送のことでしたわね。大事な放送とは何が放送されるのかしら、もう暫く持ちこたえてと首相がおっしゃるのか、アメリカの首都でも攻撃した成果を語られるのでしょうかなどと想像しながら、慣れない炊事をいたしておりました。ありがたき放送ということでしたが、まさか陛下が直接お語りになるなどとは、思っておりませんでしたの。戦争はまだ続くから、松澤の家を建て直すのは無理でも、千葉で仮住まいをしようと土地は購入いたしておりましたのよ。でも、男手が無いに等しい状況でしたでしょ、家は建てられず、私が間借りと申しましょうか、母屋とつながった隠居部屋をお借りしていたのですが、その辺り一帯の田畑を小作に出してらっしゃった大きなお家で、母屋にもラジオがございましたから、正午の重大放送は二台のラジオから聞こえて参りました。独特の抑揚のお声に、陛下の玉音だと気付くまで間がございました。陛下の玉音だと気付いて、姿勢を正しました。横で、節さんも大きなお腹を抱えたまま姿勢を正しておりました。雑音が入っても、お言葉は理解できましたの。でも、心が付いて参りませんでした。負けを認めることは、悔しくて、玉音にもその悔しさが滲み出てらして、私でも悔しいのに、ましてや陛下はどれほどお悔しいことか、いっそのこと一億総玉砕とおっしゃられたのでしたらどれほど胸がすくことか、潔く死にますものを、でも陛下が負けを認められたのでしたらそれが正しい道なのでしょう、呆然といたしておりました。空を見上げますとね、鳶が一羽、輪をかいてました。母屋の方から農爺と農婆がいらして、あれはどういう意味だったんでしょう。一億衆とか、残虐なる爆弾、我が民族の滅亡、戦陣に死し、職域に殉死。国体の精華を発揚、つまり、一億戦え、総玉砕という意味なのでしょうか、と尋ねられました。戦の負けを鬼畜米英に伝えるということを私達臣民にお伝えになられたのですよと、お教えいたしました。その頃、私のラジオからはどなたかが玉音放送のお言葉を平叙文になさってましたが、それでも母屋の方々はまだ半信半疑の様子。遅れて届いた朝刊を見て納得なさったようでした。克子と朝子が戻って参りまして、あら、あの日、二人はどこにいたのかしら、ともかく戻って来た克子は、お母ちゃま、情けないです、辛いです、一方朝子は、これで朝までぐっすり眠れると喜んでおりました。その晩以来、ぐっすりどころか、私は心配で心配で眠れなくなりました。戦争に負けたということはどういうことになるのでしょう。何しろ負けたことがございませんでしたでしょ。で日清、日露、日独で日本が勝った時に、負けた側の清と露と独はどうなったかを思い出そうといたしました。賠償金を頂いたのかしら。あら、でもたしか露西亜からは頂かなかったのではなかったかしら。あら、でも半島を頂いたのだったかしら。まぁ、どうしましょう。国が払うということは私も払うことになるのでしょうか。碧さんの残した財産で買った松澤の土地、家も燃やされて、こちらには土地はあれど家は建てられず、貯金は日々の生活で減っておりますのに、でもまだ株が、あら、満鉄はどうなるのかしら。大東亜共栄圏はどうなるのかしら、株の配当は続くのかしら、まぁ、生活どういたしましょう。ここの間借りを続けている間はお家賃、それに食費、まぁ。克子は女学校を終えたものの、朝子はまだ卒業させなくては。節さんも臨月。開さん、無事に戦地から戻ってらっしゃいませ。女四人では心細いです。それまで自分は気丈だったと思っておりましたのに、負けたと耳にして以来、どんどん気弱になっておりました。悶々と眠れぬ辛さの筈でしたが、とろとろしておりましたら朝子に揺り起こされました。お母ちゃま、雄鶏が鳴いてますよ。朝ですよ。空襲警報ではなくて雄鶏に起こされるなんて、朝までずっと眠れるなんて、負けるって素晴らしいことですわ、と朝子が申したのを覚えております。負けるのが素晴らしいなんて、考えたことございませんでした。そんなこと考えるのは不遜不敬非国民でしたものね。若さとは明日の不安を感じないことなのでしょうか、と気付いた途端に、明日どころか数年先まで想像して不安にかられておりました自分が、もう老婆の域に入っているのだと気付かされ、余計に心細くなりました。先行きの不安にかられて気落ちしている私を見た朝子は、お母ちゃま、心配したって何も始まらないでしょ。ともかく何かしなくちゃ。克子は睨む様な目つきで寡黙でしたが、朝子は元気でした。娘達をうらやましく思いました。実際、その時に感じていた不安など生易しいもので、あの頃は不安を上回る現実に押しつぶされてしまう日々でしたが、それでも、九十三まで生きてしまいましたものね。死んだらどれほど楽になれるか、肌身離さず持っていた碧さんの写真を胸に、碧さん、迎えにいらしてと何度も思いました。空襲警報は鳴らなくなりましたが、それまで張りつめていた空気が緩んで、夏の暑さが急にこたえるようになり、ヒグラシの声に老いを感じ、それまでの戦中の数年を振り返り、ふと気付くと、支那とだけの戦いがいつの間にかお相手が増えていたまるで悪夢の様な。悪夢なら目覚めてほしい。支那と戦を始める前の穏やかな生活を続けられれば良いのに。でも悪夢ではなく現実。生きている、生き続ける方が苦しい、身があれば食べねばならず、お金の価値はどんどん下がる一方で、随分前に、松澤に奉公に来ていた女中の実家に先に疎開させていた大連から持ち帰った支那の象牙の麻雀牌や端渓硯や李朝の白磁の花瓶や碧さんから頂いた元は露西亜貴族の物だったというカメオなど、終いには娘達の雛人形やお道具まで、克子や朝子の結婚の時に持たせようと思っておりましたものを片端から物物交換致しまして、物々交換できる物があっただけ救いでしたが、でも、私自身も含めて、人間の業の深さ、買い手の欲深さには辟易いたしました。この方々に由緒ある物の価値が分かるのかしらと思いながら、でも価値があると思うから食物と交換して頂けるのでしょうけれど、情けない。そう感じる自分が情けない、辛い。私が亡くなる前まで持っていられた碧さんの思い出の品は、数葉の写真と結婚した時に頂いた金の指輪だけでした。あら、あの指輪、私が亡くなる前に生前に肩身分けとして克子に送ったのですが、どうしたのかしら。あら、ごめん遊ばせ、松澤の防空壕には十二月に戻りましたのよ。埋めておいて燃え残り、幸いにも盗まれなかったとはいえ湿気で傷んだ和服等も食品との物物交換に使えますでしょ。九月に生まれた赤子を抱いた節さんが、武蔵野町の簡易住宅が入手できたご両親の所に移るというので、ついでに皆で松澤町まで参りましたの。松澤から千葉に疎開した時以上に焼け野原だと思い込んでおりましたのに、高い建物と言えば、確かに少なくて、駅近くの丸ビルや、皇居のお堀周りのビルなど、後で知ったのですが、米軍が戦後の接収用に爆撃しなかったビルがいくつか、それと増上寺の門ぐらいでしたが、もう一面バラックだらけで、色々な物を売っているんですよ。復興のめざましいこと。私どもは、母屋で三日置きに湧かすお風呂を頂いておりましたでしょ。それなりに清潔だと思っておりましたが、焼け野原のバラックの辺りは何だか猥雑な匂いがしておりました。正体の分からない煮込み料理や、古着など売っておりましたから、そういう匂いが立ちこめていたのでしょうね)
お読み頂きありがとうございました。
霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
毎週水曜日に更新しております。
次回は5月25日の予定です。