第六話 セミテリオに里帰り その七
(それでお父さま、あら、彦衛門さまのことですわね。彦衛門さまがこちらの世にいらして、絵都さまは卒業なされたてからご結婚なされたと先ほどおっしゃってらしたから、その後女学校に戻られたのですわね)
(はい、あっ、戻ったと言うよりも、別の学校に入り直したのです。退学したのが三年生の途中でしたから編入試験を受けまして、三年生からまた三年間、九段の方の女学校は以前より近くて、家から歩いて行けましたので電車に乗ることもなく、前の女学校の方々から自然に足が遠のいて。転校生や高等小学校からの編入生も結構いらして、そうそう、病気療養で治られてからという方もいらっしゃいまして、年齢もまちまち。ユリさんのおっしゃる 美しい調べと甘い香りが漂う花園とは程遠い、勉学の日々でした。大学とまでは思っておりませんでしたが、専門には進学したいと思っておりましたので、勉学に勤しんでおりました。なのに、お父上は亡くなられてからも私の勉学をお邪魔なさって、許嫁の話しでございましたでしょ)
(それで長州にいらして、東京に戻られて)
(お母上には伯父の家に行儀見習いに出され)
(まるで鬼母の様におっしゃる。温はもう嫁女を頂いてましたし、あなたは出戻りでしたし、あなたが兄のところにいらっしゃれば、その内良いご縁もあるかと)
(お母上とは毎月一日にだけご一緒いたしました)
(おっ、私の墓参りだのっ、とは申せ、あの頃はこういうことが出来るとは知らなかったのでのっ、マサがこちらの世に来るまでは、ただただぼんやり、いや、ぼんやりしておったことすら気付かなかったのっ。知らぬということは見えぬ、できぬということですのっ)
(お母上は、こちらにお参りなさると、墓石を撫でて)
(ほうっ、もし気付いていたならくすぐったかったであろうのっ)
(お母上はお父上に小声でお話なさってましたが、私は、いつも恨み半ばで。退学させられたり、知らない殿方と結婚させられたり、あの頃は、なんで私の邪魔ばかりなさるのかと)
(はは、私は覚えてないのっ。あの頃の私は、気の世界を知らなかったからのっ。知らぬものは感じられぬ、気付かぬ。まぁ、お前の級友のように、あったことを無かったことにするよりはいいがのっ、在るということを知らぬと、無いのと同じだのっ)
(行儀見習いって何をなさってたんですか。ユリの知らない世界です)
(居候では申し訳ないから、少しはお手伝いするってことかしら。使用人達をどう配分するか、家事の切り盛りをなさる伯母さまのお手伝いをするというような。それと、従妹のお勉強も少しはお手伝いいたしました。従妹と一緒にお出かけしたり。お客さまがいらっしゃる前に、どういう献立にするか伯母さまと一緒に考えたり、伯父さまのお客さまにはよくお茶とお菓子をお出しいたしました。そうすれば、再婚相手が見つかるかもしれないって、伯母さまがおっしゃって)
(先ほど、満州にお住まいだったとおっしゃってましたな。その伯父さまは満州に渡られたのですかな)
(いえ、伯父のところによくいらしていた方から、満鉄のお仕事をなされてる甥御さんが奥さまを亡くされて幼子を抱えて困惑なさってるというので、一度会ってみたらと言われて。その甥御さんにはお兄さまとお姉さまがいらしてどちらももうご結婚されていて、ご両親はもう他界なさってるとのこと。伯父さまは、満鉄ならば安心だ、将来有望な会社だ。鉄道が無くなることはないだろう。係累も少ないようだし、それに、再婚同士なら上手く行くかもしれない、悦ももう三十路が近いから、嫁ぐつもりがあるのなら、ということで)
(絵都お姉さま、お見合いなさったのですね)
(あれはお見合いというのとは違ったと思いますわ。何しろその方、内地にいらっしゃらなかったのですもの。伯父さまの外遊に伯母さまの替わりに大連に随伴いたしまして、伯父さまのご友人のお宅にその方がいらして。伯父さまはお仕事の後、内地に戻りましたが,私はそのままそのご友人のお宅に居候させていただいて、碧さんには大連をご案内いただきました。碧さんのお子様、開さんが八つ、光さんが三つの時でした。開さんは丁度、一雄と同じ齢でしたから、一雄もこんなに大きくなっているのかしら、いえ、一雄はもう私の子ではない、などと思うこともございました。毎週、三人と私で大連の港や昔は露西亜のお役所だった所や、倶楽部やアカシヤの並木をお散歩いたしましたり、会社が新しく造っていた星が浦の浜にも光さんの手を引いて。光さんの左手は碧さんがお握りになって。開さんは最初は碧さんの横にいらして、でもだんだん、まるで私を護るかのように私の側にもいらっしゃるようになって、その内、恥ずかしそうに私の空いている手に手をつないで、四人で手をつないでお散歩いたしましたのよ。屋台でピロシキを頂いたり、ホテルで一緒に洋食を頂いたり、洋食も、独逸、仏蘭西、露西亜など色々ございましたのよ。街並もあの頃の東京以上に未来的で、碧さんのお住まいも、なんでも満鉄の方のご設計だとかで、西洋式住宅でした。その辺り、西洋式住宅の街並になってまして、西洋式で暖炉もございましたが、でも、オンドルでした)
(オンドルって何っすか、ピロシキは俺知ってっす。コロッケみたいなのっしょ)
(美味しゅうございました。わたくしも存じております。お茶の水の近くに美味しいお店がございましたわね。わたくし、ピロシキもですが、あの赤い、何でしたっけ、ぼる壱とかが、身体が暖まって好きでしたわ。給仕がみな露西亜風の服で)
(ルパシカですね。僕より上の世代の露西亜好きが着ていましたよ、あと芸術家気取りの連中も)
(お母上のおっしゃるのは、ボルシチですわね。赤い蕪で色を出します。あのお茶の水のお店、そういえばお母上と参りましたわね。娘達を連れて。あれは、いつでしたかしら。日本がまだ穏やかな頃でしたわ)
(ぼるの後が壱ではなくて七でしたのね)
(なんだのっ、私がこちらに来てから、マサも絵都も美味なものを喰っておったのだのっ、悔しいものだのっ)
(武蔵さん、オンドルは薪や練炭を炊いて、床下から暖めるのです。朝鮮式だと聞きました。あれはとっても暖かくてね。日本も同じ様になされば冬は過ごし易いのにとあちらの世にいる間、ずっと思ってました)
(なるほど。いい方式ですね。暖かい空気は上に行くから、下から暖めれば、全体が暖まる。それに、床が暖かいと、足がつることもない。もしかして冬も布団が冷たくないわけですね)
(え〜と、虎之介さんでしたっけ。そうなんです。お布団を早めに敷いておくと、お布団がぽかぽかといたしましてね。安眠できます。お布団はね、満人の女中には任せず、いつも私が開さんのも光さんのも敷いてました。あら、話しが前後してしまいましたわ。まだ一緒に暮らし始める前、光さん、可愛くてね。碧さんとご結婚したら光さんと毎日一緒にいられるのだと思いました。一雄の替わりに開さんを育てようって。もちろんそんなことは開さんには申しませんでしたけれど。碧さんも、温お兄様みたいにお優しい方で、一緒になることにいたしましたの。それで写真館で一緒にお写真を撮っていただいて、お母上にはお送りいたしましたわね)
(そう、絵都、あの頃は悦でしたが、悦がよければそれでいいと。悦は大連にお訪ねくださいと何度もお手紙をよこしましたが、わたくし、もう海を渡る気はなくて)
(もう、とおっしゃると、マサさまはそれ以前に外国にいらしたことがございましたのですな)
(いえ、外国などとんでもございません。それに大連はあの頃、外国ではなく、日本みたいなものでした。ただ、わたくし、船はどうも苦手ですの。薩摩から東京に参りました時に、参りましたものですから)
「家の墓はどこだ」
(まぁ、またご自宅のお墓が分からない方のようですわね)
(斯様に多数ある墓の中から探すのは大変ですな)
(日本語ってやっぱり面白いものですわ。参るには来るという意味と降参という意味があるんですね、参ると参るわけですね)
(カテリーヌさん、それじゃぁ、これは分かるかのっ、まずいとまずくない、まずくないとまずい)
(えっ、それ、ユリにも分かりません)
(おいしくないとおいしい、おいしいとおいしくない、ですか。僕にもわかりません)
(あっ、それ、俺わかるっす。俺も同じっす。お爺ちゃん、え〜と、俺のお爺ちゃんじゃなくて、そのぉ)
(私のことですのっ)
(そうっす。その、お爺ちゃんと俺、同じ様な体型だから、つまり、ごめんなさい、太ってるから。太ってると食べること、気になるっす。まずいとあまり食べたくないから、まずくならない、え〜と、太るってことにならない。けれど、まずくないと、つまりおいしいと食べちゃうから、太るからまずいことになる、っすね)
(そう、流石、食べると太る身には分かる悩みですのっ)
(何か、お爺ちゃん、ひどくないですか。僕がお爺ちゃんと呼ぶと、私は虎の介殿の祖父ではないっ、とおっしゃるのに、武蔵君が言うのは構わないのですか)
(いやぁ、それは、つまり、武蔵君とは年の差が)
(たいして違わないと思いますが)
(でも、俺、平成生まれっすから)
(うっ、僕、大正)
(私は嘉永元年の生まれだから、のっ、虎之介殿と私は近すぎるのっ、武蔵君とは年が離れておるのっ)
(嘉永元年っていつっすか)
(千ハ百四十八年ですな)
(うわっ、外人さんなのに早いっす)
(で、虎之介お兄ちゃんは)
(大正十五年、千九百二十六年です)
(で、俺が平成七年、千九百九十五年だから、お爺ちゃんと俺はえ〜と)
(百四十七年の違いですな)
(うわっ、外人さんなのに、またまた早いっす)
(で、お爺ちゃんとお兄ちゃんでは、外人さんお任せしまっす)
(七十八年ですな)
(で、お兄ちゃんと俺は)
(六十九年ですな)
(そういう計算だとそうなりますが、けれど、こちらの世に来た時の年齢ですと、彦衛門さんが)
(六十一でしたのっ)
(僕は十七でした。で、武蔵君が)
(十四っす。あれっ、虎之介お兄ちゃんと三つしか違わない)
(だからですよ。武蔵君にはお爺ちゃんと呼ばれても怒らないのに、僕が呼ぶと)
(私は虎之介殿の祖父にはあらず、ですのっ)
(虎之介殿、まぁ、細かいことはいいではないですか。わたくしも、虎之介殿には、お婆ちゃんと呼ばれるのはちょっと。まぁ、慣れましたが)
(釈然としません、いえ、またちょいちょい呼ばせて頂く事に致します)
(俺、さっきまでずっと我慢して黙ってたっす。けど、外地とか内地とか大連とか満州とかどこにあるっすか、まんじゅうなら知ってっす)
(まぁ、今のお子さんは満州を知らないのですか)
(お母上、満州が無くなってから、もう六十年経ってます。戦後生まれの武蔵さんが知らなくとも不思議ではございませんわ。あっ、私の申します戦後は、お父上、戊辰戦争や西南の役ではございませんし、お母上の亡くなられた後の、日支、第二次世界大戦の戦後のことでございます。武蔵さん、昔の日本は強かったのですよ。西欧列強と並んでおりました。大東亜共栄圏という考え方で、阿片戦争以来弱くなった中国に代わり五族共和を唱えアジアの中心になろうと、いえ、なっておりました。その時、今の中国の東北端の辺りを満州と呼んでいたのです。都は新京、北の方で、そこまでは私も参りませんでした。ほとんど南満州の大連、港町におりましたのよ)
(へぇ〜そうだったんすか。んで、内地とか外地はなんすか)
(元々の日本を内地、後から日本の国土になったみたいな所を外地と呼んでました。琉球も台湾も外地と呼んでましたわね)
(琉球って)
(武蔵、沖縄のことだ)
(外地ってことは外国だったっすか、沖縄は日本っしょ)
(江戸時代には、琉球には王様がいらしたのですよ)
(そうそう、我が薩摩藩が支配しておったのっ。なのに、清とも通じておってのっ)
(へぇ〜。王様がいたっすか)
(琉球は、大戦後は本当に外国でしたね。パスポート、旅券が無いと行けなかった)
(まぁ、義男さん、中国になってしまったのですか)
(いえ、アメリカが支配してましたよ。四十年程前まで三十年近く)
(五族共和って何かしら)
(あっ、それは僕が説明しましょう。元々は中華民国が言い出してたんですね。漢族、満族、蒙古族、回族、西蔵の五民族の内、一民族による支配は不平等だと孫文達が唱えていたんです。大日本帝国が満州国を建国した時に、五族を、日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人にしたんです。要するに、色々な民族が一緒になってよい地域、よい国家をつくろう、ってことだったんですね。ただ、僕がこちらの世に来る前のことでしたが、日本に一方的にそんなこと言われたって、他国、他国民は従う気になるわけなくてね。あっ、今、こちらの世ですから言えますが、こんなことあの頃にはおくびにも出せませんでしたね)
お読み頂きありがとうございました。
霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
毎週水曜日に更新しております。
次回は4月27日の予定です。