第六話 セミテリオに里帰り その三
(先ほどユリさんがお歌いになった、手まり歌、もう一度歌っていただけますかしら)
(♪いちれつらんぱんはれつして、にちろせんそうはじまった♪)
(おほほ、幼いお子はよくそう歌っておりましたわね。やはり、ユリさんもそうでしたのね)
(あれね、いちげつだんぱん、ですのよ。♪一月談判破裂して、日露戦争始まった。さっさと逃げるは露西亜の兵、死んでも尽くすは日本の兵、五万の兵を引き連れて、六人残して皆殺し、七月八日の戦いに、ハルピンまでも攻め寄せて、クロポトキンの首を取り、東郷元帥万々歳♪)
(幼いお子が歌うのに皆殺しなんて、恐ろしいですわ)
(カテリーヌさん、♪あんたがたどこさひごさ♪の手まり歌はお聞きになったことございますか)
(あっ、はい)
(はい、ユリも知ってます)
(あれも、狸を煮て、焼いて食べてしまう歌なんですよ)
(そうそう、あれは御維新の時に肥後勢が川越の仙波山におったからのっ、そこで狸を喰ったんだのっ。あの頃が懐かしいのっ。その前、まだ薩摩におった頃に、英吉利相手の戦の折に加冶屋の仲五郎どんと会ったんだ。私と同い年でのっ。日露の頃はまだ元帥じゃなくて大将だった筈だがのっ。富士見町にも時折顔出してたろう。そうそう、横須賀の小松で遊んだこともありましたのっ)
(だんなさ〜、小松で遊んだとは聞き捨て成らないお言葉。ましてや娘の前で)
(いや、遊んだと申しても、遊郭ではないぞ。料亭ですのっ。あの頃はおのこの遊びとしては当然のこと。マサの麹町の兄上も、海軍にいた矢衛門も行っておったぞ。それに私はたったの二度。東郷どんは芸者衆に歓待されておったのっ)
(矢衛門さまもですかっ。ご兄弟揃って、まぁ。お高いのに)
(お母上、殿方とはそうしたものですわ。長州のあの方よりよほどまし。お父上は亡くなる数日前まで、お国の方がいらっしゃると、いつも酒盛りでしたわね。私、襖を隔てて聞こえる薩摩言葉が半分もわからなくて、でも長州言葉よりはまだわかりました、長州では苦労いたしましたもの。そうそう、よく歌ってらっしゃった。♪酒は飲め飲め飲むならば♪)
(薩摩の歌ではないのだがのっ、酒盛りには都合が良い謡でのっ。薩摩の歌は西郷どんのが多いから歌えなくてのっ)
(あんなにお召し上がりになるから、だんなさ〜早々とこちらの世界にいらして、わたくしを置いて)
(お母上まで早々とこちらにいらしてましたなら、私の人生、もっと辛うございました)
(でも...東郷さまはだんなさ〜よりかなり長生きなさいましたのよ。昭和の初め頃まででしたかしら。陸の大山さまはだんなさ〜より少しお年上で、麹町の兄と同じ頃に亡くなりました。あの頃はいい時代でした。どちらにも薩摩の方がいらして、薩摩言葉で話せましたもの)
(ほんとに。日露の頃はまだ先にあんなに色々と苦労するなど知らず、娘時代はよかったです。あっ、ユリさんご結婚は)
(わたくし、お見合いも一度もしないままこちらに参りましたの)
(おうらやましい)
(絵都お姉さまは、それ程ご苦労なさったのですか)
(父上が...)
(私がどうしたってのだ。そりゃ早くこちらに来たがのっ)
(いえ、私がまだ女学校を終えてないのに、勉強とおやっどんとどちらが大事だ。おやっどんに決まっておる。勉強なんてしないで、おやっどんの看病をしろとおっしゃって、私が嫌がるのに退学届を出されましたでしょ)
(絵都、もうあれから、え〜と、百年以上も経っているではないか。まだ恨んでおるのかのっ)
(私、勉強したかったんです。なのに、温泉巡りに付合わされました)
(仕方なかろう。病は辛かったのでのっ。それに宮之城におった頃には温泉はいやというほどあったのに、東京にはないのだから)
(だからとおっしゃって、草津に半年程三度も。私はおさんどんと按摩の為に、勉強を捨てさせられたのです)
(絵都、すみませんでした。わたくしが参ればよかったですわね。でもあの頃、わたくしも血の道がよくなくて、それにだんなさ〜が、悦が良いとおっしゃって。でも、だんなさ〜がお亡くなりになった後、女学校に戻りましたでしょ)
(別の女学校に途中から入りまして、そこを終えて、上級学校に参りたいと思っておりましたのに、長州にいらした頃の父上が交わした男の約束で、もう父上がお亡くなりになってましたのに、元長州藩士の方のご子息との結婚をさせられて、私は長州くんだりまで下らされました)
(悦、いや絵都、その顛末は、墓前で報告されたから知っておるのっ。お前が妊ったらすぐに蝦夷に遊びに行って帰って来ず、お前は男児出産後、しばらくして上京し、相手が身持ちの悪いのを理由に、麹町の武人どんを通して別れたのだのっ)
(お腹を痛めた子を置いて上京、まぁ、お姉さま、お辛いことでしたでしょ)
(いえ、それは構いませんでした。あの頃の私、女学校を出て、東京から地方に下ったお嬢さま。嫁ぎ先でも夫を除けばたいそう大切にされました。上げ膳据え膳、家事一切することなく、近所の官吏の若奥さま方や地元のお大尽の奥さま方とお茶にお華、お琴にお香、一昔前の姫君の様な生活でございました。娘時代よりも一層退屈な。お母上とおしゃべりもできず、義父母さまも女中達も言葉が異なりますし、小説を読みたいと思いましてもなかなか手に入らず、することと申しましたら、下働きへ指図するのみで、傍目には幸せに見えたかもしれませんが、夫が家をあけっぱなしなのをひた隠し、一雄が生まれる前には帰ってくるかと思いましたが、一向に。お腹はどんどん大きくなり、余計に何もさせてもらえず、日がな一日縁側からお池に映る日の移るのを眺め、池から出られぬ鯉の姿に我が身を重ね、月を見ても花を見ても百人一首の歌の数々に想いを重ね千々に乱れ、鳥の鳴く声すら東京のとは異なり、山奥深くに隠遁させられたような気分は晴れず、神道で育ちましたから後仏壇はあってもお経も知らず、どなたにおすがりすればよろしいのかも定かでなく、一雄が生まれてすぐ、義父さまが蝦夷に葉書を出しましたが、お七夜にも戻らず、二週間経っても梨の礫、それでももう二週間待ちお宮参りを終えた後、嫁ぎ先を出て参りました。表向きは、防府町のお友達の家のお茶会、お招ばれされたのにお断りのお葉書を送った方に招ばれておりますのでお友達の処に一泊いたして参ります、一泊とはおっしゃらず、お産のお疲れをゆっくり癒してらっしゃい、留守の間、一雄はしっかりと守りますとの義父母さまの、言葉には出せずとも、不義理な息子をかばうこともなく、私の覚悟を察してらした眼差しだったと今も思っております。着の身着のままとは申せ、西洋式茶会に出るお洒落な着物と一泊仕度のまま、馬車に乗りまして、三田尻駅に直行、そこから汽車に乗って、京都で存じ上げておりました駅長さんのお宅に泊めて頂いて、また京都から汽車に揺られて...お母上、あの時は辛うございました。汽車旅で汚れた身とはいえ、遠路はるばる、その間、ずうっと富士見台のお母上を懐かしんでおりましたのに、やっとお母上に二年ぶりにお目にかかれましたのに、温の家に迷惑がかかるからと翌週には麹町の伯父さまのお屋敷に行儀見習いに連れて行かれるなんて)
(嫁いだ娘が里帰りはともかくも、いつまでも実家、それも家禄を息子の温の代に移した後で、富士見町では絵都も大変だと思いましたのよ。麹町の兄の家の方が、肩身の狭さは違ったと思いますよ)
(あのぉ、幼いお子さま置いていらして、お心乱れませんでしたの)
(初産でしたでしょ。自分のお腹が大きくなっていく、重くなっていくのにとまどい、健やかに育ってくれと、直にお父さまもお戻りになるでしょうと、お腹の子に話しかけておりましたが、生まれてしまうと、また元の乙女の頃の身軽さに戻れた嬉しさの方が大きくて。自分で育てたわけではないですし。あの子には乳母もおりましたし、産んだ後も他人任せ、繦を変えたことすら無かったですし、お祝いにお友達が訪ねていらした時ぐらいしか我が胸に抱くこともなかったので。後に他の子を産んで乳を含ませ育てたことから思いますと、ひと月あまりとはいえ、あの子は私を借りて生まれてきただけの様でした。半年あまりしてから伯父を通して正式に別れ話をいたしました折に、嫁入り道具の御処分をお願いしても、出奔した元夫はその時にも行方不明でしたのであちらからは何の文句も出ず、義父母さまが一雄を跡取りとして育てるということになりましたので、何の不安もなく)
(まぁ、お茶会にとおっしゃって出られたのがお子さまと今生の別れになったのですか。お子さまを婚家に取られて寂しくございませんでしたこと)
(寂しいというよりは、こんなものなのかと、そういう方多うございましたでしょ。まして男児でしたし、跡取りとして大事に育ててくださるでしょうから、不安はございませんでした。もうその頃は、私、実家ではなくとも、慣れ親しんだ東京の生活に戻っておりましたし)
(では、その後初産のお子とはお目にかからないまま)
(はい、いえ、え〜と、会う機会はございましたが会いませんでした)
(まぁ、どうして)
(いつ頃でしたでしょう。支那事変の頃でしたかしら、当時、大連から帰って来て、松澤におりました時に、一雄は大陸に渡る前にご挨拶をと訪ねて参りました。女中が取り次いで、立派な軍服のこういう方が玄関先にいらしてると。でも、私、お部屋から一歩も出ず、そういうお方は存知ません、お人違いでございましょう、と会いませんでした)
(まぁ。絵都さまあちらこちらにお住まいになられたようですのに、よく分かりましたわね)
(尋ね歩いたのでしょうね。でもその時には私動転しておりましたから、気付きませんでした)
(再婚した碧の長男、先妻の子、開さんが同じ年齢で、その頃家督を継いでましたから、私は再婚した以上、再婚した家の者でしたから、前の嫁ぎ先の方を上げるのは間違っていると思っておりました)
(まぁお堅い)
(次女の克子はね、お母ちゃま、それでこそ明治の母、軍国の母です、などと申してましたが、末娘の朝子は、そんなに頑固じゃなくてもいいのに。せっかくお母ちゃまに会いにいらしたのに、それに私、父違いのお兄さまにお目にかかりたかったです、と散々申してました)
(悦、いえ絵都、当時、わたくしにもそういうお話しをしてましたわね)
(はい、あの頃は、私、そう思っていました。そう考えておりましたから、会うべきではないと)
(うむ、私の墓前でも話しておったの。私も、お前の初産、私の孫に一目会いたかったものだのっ)
(まぁ、だんなさ〜。悦が会うべきでなかったと申してましたのに、私など悦が産んで以来、そのお子は、先の嫁ぎ先のお子とあきらめてましたのに)
(でも、お母上、あの当時の表向きの建前の考え方とは裏腹に、本音では苦しみました。とうに忘れた、実際、その頃は忘れようとして忘れられていた四半世紀も前に産み捨てたに等しいお子がどのように育ったのか、長州の義父母さまはおかわりございませんかなど、お尋ねしたいことは山ほどございました。いえ、突然訪ねてらした時にはあまりに急なことで取りあえずお断りするだけで、でも、玄関払いを喰わせた後で、あんなこともこんなことも、と思いは千々に乱れました。でも、我が身を納得させました。旅発つ前に、産みの母親いえ、産んだだけの母親に会えず終いの方が、未練が残らないでしょう、などと。部隊名を書いた紙を置いてかれたのですが、咄嗟に破いて燃やしてしまったことも後悔いたしました。部隊名が分かっていれば、せめて手紙でも出せたのにと)
(お手紙なら先の嫁ぎ先に書けばよろしかったのに)
(いえ、はい、書くには書いたのです、何度も書いては何度も捨てて、やっと思い切って出した手紙は、あちらこちらの郵便局の印を押されて戻って参りました。お住まいを移されたのか、義父母さまはもう亡くなられていたのか。当時お茶にお華とご一緒なさった方々にお尋ねしようかとも一瞬思いはいたしましたが、昔の恥を不義理を今更とも思いましたし。一雄も跡取り長男でしたのに、大陸に軍人として参るなど、不思議でございました。女中が、士官学校か陸大を出られたようなご立派な軍服のお姿でしたと申してましたが、なにゆえに軍人の道を選んだのかと不思議でございました。それっきり伝手は途絶え、もしかしたら大陸で戦死したのか、大戦後無事帰国されたのか、何も分からずじまいです。こちらの世に参ります前には、こちらで会えるかもしれないなどと思っておりましたが、こちらの世はあちらより人口、いえ霊口が多いようで、思う様には会えないものですわね)
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毎週水曜日に更新しております。
次回は3月30日の予定です。