第五話 セミテリオのご隠居 その八
(チョコレェトは私にも分かるがのっ、ガムとはなんですかのっ)
(わたくしも存知ませんわ)
(僕も知らない)
(わたくしも、仏蘭西にございましたかしら)
(我輩は分かりますぞ。chewing gum やbubble gumのことですな。何度か食しました。紐育地下鉄駅で機械が売っていましたな。あまり旨いものではござらぬが、こう、小さい球体で、色がついておって、で、色が違っても味は同じで。ゴムからできているからガムと言う、いや、英語では違うのだが、日本語ではゴムとガムに別れた元の言葉は同じで)
(ロバートさま、わかりませんわ)
(もしかして、タイヤのゴムに味をつけるとガムですか)
(虎さん、違います。いや、たぶん元の樹木は似たようなものかもしれませんが、タイヤは噛みません、ガムは噛みます。噛んで味がなくなったら吐き出す菓子なんです。最近この辺りでも噛んでる人多くないでしょうか。あちらの世界、哀しいかな禁煙流行でね)
(あら、お口のあたりをいつまでも動かしてる方のお口の中にあるのがガムなのでしょうか)
(たぶんそうでしょう。え〜と、それで、僕はそういったアメリカ産の食品を入手するようになったわけで。小麦粉、ハナはうどん粉と呼んでいましたが、あっ、メリケン粉とも言いますね。大層喜びましてね、何しろ米ですら配給が少ないは遅れるはの時代ですから、主食はサツマイモみたいな時代でしたからね。ハナはせっせと昼間買い出しに行ってたので、僕の診療実態は知らず、てっきり、かつて本堂に来ていたGIが僕の所に来るんだろうと思っていたんですね。そんな筈ないじゃないですか、基地内には軍医がいるわけですから。でも、ハナは知らない。ところがある晩、結構遅く、医院の曇り硝子戸が叩かれ、僕が出て行くとGIとパンパン。これでばれたというか、ハナは悟ったわけです。自分が相当喜んだアメリカの食品、取り分け喜んだうどん粉がどのようにして入手できたのか。怒り狂いましたね。けれど、怒り狂ったハナも自分で分かっているわけですよ。うどん粉がいかにありがたいか。とってもありがたい、だからよけいに腹が立つ。またしてもハナの憂鬱、ですかね。弟の長女も孫も結局行方知れずで、残された庫裏と寺、瑞鏡が結婚することになったので、その前に寺を少し改装して仮医院にし、庫裏の方にご本尊さまと僕たち三人が住み、その間に医院を建てなおし、二階建てにしました。一階に受付と薬局、二階に僕の内科と瑞鏡の整形外科。心肺胃腸内蔵と何でもござれの内科と骨関節筋肉の整形外科ですね。瑞鏡は実習先の病院にいた薬剤師と結婚し、翌昭和二十五年、女の子、瑞穂が産まれました。その頃には米兵の数も減り、日本は講和条約に調印し、健保制度、あっ、健康保険制度です。毎月幾ばくか払って、いざ病気になると、罹った治療費と薬代の一部を払うだけでよいという制度ですよ。これがだいぶ実をともなってきてまた患者が増え始めました。僕とハナは庫裏に住み、瑞鏡と母子が元本堂に住んでいましたが、日中はハナもそちらに入り浸りで、よく言ったものですね、子より可愛い孫、目の中に入れても痛くない、ましてや、ハナが欲しかった女の子でしょ。瑞穂が幼稚園に入ると、千代子さん、瑞鏡の嫁ですが、医院の薬局に復帰しました。瑞穂が小学校二年生のクリスマスイヴに東京タワーに登れるようになりましてね、でも連日すごい列で)
(まぁ、あの塔、登れるんですか。エッフェル塔と同じですわ)
(エッフェル塔よりほんの少し高いだけですよ。今、浅草の方に、更に高い塔を建てています)
(何の為にそんなに高い塔が必要なんですかのっ。火の見やぐらももう殆どなくなったのにのっ)
(エッフェル塔は、金属産業の傑作を作ろうとしたらしいですわ)
(東京タワーはテレビ、ラジオの電波用でした、今建設中のも同じ目的だそうです)
(高いのが好きなのかのっ)
(馬鹿と煙は高い所に上りたがる、そういう言い回しが日本語にはありますな)
(あっそうか。馬鹿が増えたからもっと高い所にあがりたがるのだったりして)
(そういえば、テレビが流行りだした頃、一億総白痴化とか言ってましたね。今、人口一億二千万なので、二千万増えた分だけ高くなる。違いますよ。東京タワーじゃ電波が届ききらないからだったと思いますよ)
(結局、みんなで東京タワーに上ったのは、瑞穂が三年生になる前の春休みだったのですが、いやぁ、すごかったですよ。行列もですが、何よりも見晴らしがね。幼い頃には、愛宕山から結構見渡せていたのですが、もっと、高いわけですから、医院がやけに小ちゃく見えて、あぁ、そう、あの頃は、まだ平屋建てが多くて、二階はあっても物干し台に出る為にあるようなものでしたし。まだまだ木造の家、瓦葺きの家でした。あの辺りにはビルもほとんどなくて、僕が幼かった頃とさほど違いはなかったですね。その後、東京オリンピックの頃から都内の建物がどんどん高くなってきて、それでもまだ首都高でどこにいるかわかるくらいでしたが、今は首都高に乗ってしまうと、表示板かカーナビを見ていないともうどこにいるか分からないくらい高いビルばかりですからね)
(あのお、分からない言葉がたくさん出て来ました。ビルはビルヂング、ですか。オリンピックは東京でオリムピックが開かれたのですね。首都高とカーナビは全く分かりません)
(ユリさん、ビルヂングです。今はビルと言っています)
(日本人は、ほんと、なんでも短くしてしまうのですな)
(東京オリムピック、私がこちらに参る前の年に開かれる筈でしたが、あの後開かれたのですね。中止になって残念でしたわ。冥途の土産に、だんなさ〜にお話ししてさしあげましょうと思っておりましたのに)
(昭和三十九年でした。最初の開催予定の二十四年後でしたね。え〜と、首都高とは、首都高速道路、略して首都高。実際、高い所を通っているんですが、ほら、あれもそうです。空中に道路があるでしょ)
(おぅ、あれだのっ、たしかに高い所にある)
(ただですね、彦衛門さん、高い所にあるから高速道路なのではなく、速度が高いから高速なんです。つまり、車が速い速度で走れるように作ったわけです。信号や四つ角をなくして。車専用、人は通れないんです。でも実際、あの上も渋滞するんですよ)
(ほうっ。そこら辺を走るより更に速いわけですのっ)
(まぁ、恐ろしい)
(今は、時速三百キロメートルぐらい出る車もあるそうです)
(時速三百キロメートルとはどれくらいでしょうか)
(え〜と、三百キロメートルは、一理が三点九キロメートルですから、約四で割って、約七十五里、一時間に約七十五里進めるということですか。東海道ですと日本橋から名古屋の手前ぐらいまででしょうか)
(それを一時間で行くのですかのっ)
(もしや、マサ、朝子に乗って乗った新幹線より速いようだのっ)
(あっ、彦さま、マサさまは新幹線をご存知なんですね。えぇ、新幹線より速いですね。ただ、そんなスピードで走るとすぐに捕まっちゃいます)
(スピードとは、速度のことでござる)
(Thank you, Mr. Robert. そう、速度です、どうも、僕の日本語には少し前の日本語に比べて外来語というか新しい言葉が多すぎるようですね、すみません、いえ、ロバートさんや虎さんがいらっしゃるから、すぐに的確な日本語にして頂いて、ありがとうございます)
(捕まるとは、警察に捕まるのですのっ)
(はい、高速道路専用の警察隊がありまして、え〜と、あれは戦前なんと呼んでおりましたかね、戦前にもあったのかな、あまり見ませんでしたね。ほら、時々セミテリオの中を走っている、自動二輪車)
(あぁ、あれね、僕の頃にはほとんど無かったですね)
(あら、後ろにぶらぶら揺れる台を乗せて走るあれですか、ユリ、分かりました)
(おっ、あれですのっ、いい匂いをさせて走る。あれは出前をしてるんですのっ)
(わたくしも分かりました。ぶるぶるうるさいのですね)
(ぶるぶるはまだ静かですわ)
(時折、ぱぴぽぱぴぽぱぴぽぷぅなんて音を出して、面白そうなのもありますわ。あら、わたくし、オノマトペを使ってしまいました。あら、おのまとぺって勝手に作っても差し支えないのかしら)
(カテリーヌさん、それが日本語の面白いところなのですな。一度作られると、作る楽しみがおわかりになりましたかな)
(はい、ロバートさん、私の楽しみが一つ増えたように思います。あら、こちらの世でもっと長生きできそうですわ)
(警察のサイレン鳴らして走る四輪者に追いかけられている、あれですわね)
(そうそう、マサさん、それです、あれの警察専用のがありまして、時速七、八十里も出せば当然捕まります)
(つまり、出せば捕まる、捕まるということは違法なのですのっ)
(違法ですね)
(違法になる速度を出せる自動車を何故作るのですかのっ)
(性能を誇示したい作り手なのでしょうか、僕にも分かりません。え〜と、カーナビはですね、僕がこちらに参る数十年前でしたかね、最初のは。普及してもう十五年ぐらいでしょうか。車の運転席の前にあるパネル、え〜と、画面です、テレビを小さくした様な、そこに、いる所と行く所を入力すると)
(あぁっ、もしかしてユリがテレビで見た、彩香ちゃん家のみたいに、勝手にテレビが話しかけてきたりするんですか)
(う〜ん、まぁ、似ているのかもしれません。その彩香ちゃん家のは、たぶん僕の曾孫の所にあるのと同じだと思いますが、wiiでしょ。あれとはちょっと違うんですが)
(ご隠居さん、え〜と、瑞賢さん、まず、先ほどからおっしゃってる車というのは、自動車のことですのっ、人力車や荷車、馬車ではないですのっ。その車が高速道路という車専用の道で渋滞するほどに数が多くて、しかもその車の多くに、会話をする小さいテレビがついている、ということですのっ。想像を絶する世界なのですのっ)
(彦衛門さん、僕もラジオの無かった頃を知っていますから、ほんと、この百年の技術の発達はすさまじいですね)
(さぁ、彦衛門どうするか。そろそろ年貢の納め時、昇華するか、はてさて好奇心に火を灯し、乗せて貰って旅するか)
(だんなさ〜、昇華する時にはわたくしもご一緒いたしますわ。まだしばらくあちらの世の変化を楽しみましょう)
(あちらの世で生きていてもなかなか技術の発達についていくのは難しいようですよ。ましてやこちらに来て四十五年のハナは旅するのが嫌いでね。え〜と、東京オリンピックの翌年、昭和四十年の秋でした。家の前の道路で、飛び出してきたこどもを避けようとした車が、街路灯にぶつかって、その衝撃で街路灯が外れて落ちましてね、運悪くハナの頭を直撃して、即死でした。あと二分も歩けば家の中に入れる場所でした。銀杏の黄色い葉っぱが舞い散る中、葬儀を行いました。僧侶は呼ばず、読経は僕がしました。大黒さんになる筈だったのに、女の子がほしかった、女の子だったらよかったのにとのかつてのハナの声が耳の中にこだまして、せめて僕の読経で三途の川を渡らしたかったんです。六十五年のハナの人生中、ほぼ三分の二を僕と過ごしたのです。僕の父は七十五でこちらに参ってますから、その頃、僕はあと十年ぐらいかと、それまで待っていてくれとハナに告げていました。なのに、なのに、え〜と、三十五年も待たせてしまったんですね。こちらに参ってまで、ハナの期待に添えませんでした。交通事故だけでも予想外のことでしょ。ましてや車道を歩いていたわけでもなく。街灯が落ちてくるというのも希にしかないこと。ですから、僕がこちらに参って、ハナを連れ出そうとしても、嫌がるんですよ。あの頃ですら私はこういう目に遭いました。今のめまぐるしいあちらの世で、いくらもうこれ以上死なないからといっても、恐ろしい目に遭うのはごめんこうむりますっ、ってね)
(確かにね。でも、どうして死ぬのが恐ろしいのだろう)
(僕、それも屢々考えていたことの一つです。こちらに参るまでは、こちらの世界を知りませんでしたからね。というよりも、理科の習い、こちらの世界があるなど戯け言、こちらの世があるなどと申してるのは精神科領域だとすら思ってましたから)
(たぶん、死ぬ時には、苦痛が伴う。体にも、親しい人と別れる心にも辛い、未体験ですしね、死後の世界から生還するなど滅多にないわけですし)
(僕もね、ずぅっと、死は辛いことだと思っていたわけです。いえ、死ぬ側だけではなく、死なれた側にもね。実際、祖父母、母、父、弟、妻と送りましたから、辛かったですよ。いくら門前小僧というよりも寺の長男、医者という、宗教心からも医学的視点からも死をとらえられる職業とはいえね。ところがね、ヒンズー教、印度の辺りの宗教らしいのですが、この宗教では、どうも死が辛くて恐ろしいものとはとらえられていない様なんですよ。驚きましたね。死ぬ側も死なれる側も、喜んでいる。これで現世の辛さから逃れられる。輪廻で再び現世に戻って辛さを味わわないですむよう、儀式まであるんですよ。子牛の尻尾を臨終の人に握らせるんです。こちらの世まで連れてってくれる、とか。その儀式をすれば現世に戻らなくてすむそうで。ですから川辺の火葬時でも泣かない。皆笑ってました。不思議でした。そういう風にとらえれば、悲しくも辛くもならないのか、と。苦しいだろう、悲しいだろう、怖いだろうと、そう感じるだろうというのも文化次第なのか、とね)
(印度にいらしたのですか)
(いえ、テレビで見たんですよ)
(テレビジョンは素晴らしいですわね。昔ならそこに行かなければ見られなかったものを。日本にいて印度のお葬式に参列できるのですものね)
(我輩は確かに死の苦しみを味わいましたな。刺されちゃね。刺されたらやっぱり痛いですからな)
(そりゃ、刺激を与えられて痛いと感じなきゃ、それこそ死んでいますね。生きていればこそ痛い)
(おっ、つまり死んだら痛くない、だから死んだら楽なのかのっ)
(僕は夢現の中でしたから、苦しみは感じませんでした)
(ユリもです。高熱でうなされて、気付いたらこちら)
(わたくしも)
(わたくしもですわ。これもセラヴィと思っておりました)
(私もそうだったのっ、ただ、お節料理に未練があったがのっ)
(だんなさ〜)
(ご隠居さん、瑞賢さんはいかがでしたかのっ。つまみ食いしておくのだったのっ)
(僕は、え〜と、これはまた別の機会にして。それで、ハナに戻りますが、僕がこちらに来てからも僕は屢々家や医院に戻って遊んでいたのですが、それにも付合わないハナを、強引に説得して、六年前、曾孫、男の子、瑞樹二十四歳の結婚式に連れて行ったんです。その時に大変でね)
*
続く
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霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けたなら幸いです。
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次回は12月15日の予定です。