第五話 セミテリオのご隠居 その七
(内科医院でしたからね、まだ細々開店休業中。僕の所が医院だってのは、本堂に進駐軍がいたから知られてました。その進駐軍が、女を連れて僕の所に来るわけですよ。僕は泌尿器科でも婦人科でも性病科でもない、とは思えども、患者が少なきゃ食っていけない、患者を選ぶなんて贅沢はしてられない、患者は困っているわけだし、ここで病が分かれば伝染は防げるなどとなんだかんだと理屈をこねて自分を納得させましてね、来るもの拒まず、性病検査してました。口コミで広がる)
(口コミとはなんでしょう)
(マサさま、すみません。僕、つい今の言葉を使ってしまって)
(いえいえ、言葉はうつろうもの。今のあちらを知らねば、旅しても困ります)
(え〜と、口は口、これですね。コミは、communication、ロバートさん、どういう日本語にしましょうか)
(伝達連絡通信手段)
(おっ、虎之介殿、我輩より早い。さて、どれが適当ですかな。口とcommunication合わせて口コミ、え〜とマサさま、うわさ話ではいかがでしょう)
(なるほど、人の口から口へと噂が広まる、ということですね)
(そうです、つまりうわさ話で、GIからGIへ、パンパンからパンパンへ)
(あのぉ、ユリも質問です。じーあいとぱんぱんが分かりません)
(おっと、困った、そうですね。お分かりになりませんね。こればかりは、ロバートさんにも、虎さんにも、もしかして、いややはりおわかりになりませんね)
(僕、わかりません)
(我輩にも)
(GIはGovernment Issueなんですが)
(政府の問題発行出版)
(分かりませぬな)
(米兵のことです)
(お米のですか、えっ、あっ、亜米利加国の兵隊ですわね)
(なるほど。我が国の兵士をそう呼ぶわけですな)
(米の兵隊...おう、亜米利加国の兵隊のことですのっ。で、ぱんぱんは)
(食べるパンがたくさん、ですか。闇で亜米利加のパンをたくさん入手できたということかしら)
(ユリさん、うら若き女性の前ですみません、という話しなのですが)
(お構い無く、ほら、ユリ、若い姿のままですけれど、本当はご隠居さんと同じ年なんですもの)
(そうでしたね。いや、でも、やはり申し訳ない、ハナが嫌がりましたしね)
(話しが読めないのだがのっ)
(いや、つまり、ぱんぱんというのは、え〜と江戸時代で言うなら女郎のことです)
(つまり、戦争が負けたあと、女郎を英語にしてパンパンと呼んだということですかのっ)
(まぁ、麹町の兄が廃止しましたものを)
(マサ、あれは明治のことだろうのっ。禁止しても禁止しても、民はたくましいのっ)
(おっ、マサさまのお兄様は然様な方なのでしょうか)
(えっ、はい、まぁ...)
(あっ、僕の頃の悪所って言われてた所ね、僕は肺病で行ったことなく、童貞のままこちらに参りました、あっ、ユリさん、ごめん)
(いいですっ、ユリももう、え〜と、百十歳ですからっ、今更どうでもいいですっ)
(彦衛門さん、事はそう簡単ではなかったのですよ。元々の女郎だって、そりゃいろいろな事情があってそういう生活をしていたわけなんですが、敗戦でね、進駐軍が日本の地を踏むわけです。男、それも生きのいい男が大量に入ってくるわけです。かつて日清日露どころか支那事変以降自分たちも兵だった頃の記憶がある男達は、男がどういうものか知っているから、妻や娘や孫娘の身が不安になるわけです。それで、敗戦後二週間以内に設立されたのが慰安所。新聞や街中に広告を出したわけです。日本女性の防波堤たれ、と。少し前までは女子挺身隊という言葉で軍需工場で働かされていた乙女たちが、戦中同様の高揚させる文句につられ赴く。説明受けて大半は止めたものの、夫は戦死し乳飲み子幼子を抱えた寡婦や、それまで帝国軍人相手にしていた女達が、一般婦女子の操を守るためと勇ましく、いやたぶん自分を納得させ奮い立たせ職に就きました。もっとも、足りなくて、戦前の女子挺身隊をそのまま無理矢理説得して戦後の女子挺身隊にさせたらしいとの噂もありましたがね。慰安所を警察は護ったのですよ)
(警察がっ、嘆かわしい)
(兄が知ったら失神ものですっ、なんということ)
(そうなんです。なんということ、でしょ。でも、まぁ、それで、一般婦女子が護られたというのも反面真実。都内だけでそういう慰安所が三十以上ありました。でも足りない。また女性の側もね、そこに入らなくても商売できる)
(商売...ご自分の体を使ってですか、お可哀想)
(哀れ、とも思う反面、哀れと思うのも失礼なのかも、とも。僕の中でもいまだに整理がつかない点なのですね。何故売春、つまり女が女の体を売ることはいけないのか、なんですが。例えば外科医ならば外科手術の技で金を儲ける、運転手なら運転技術で、官僚や学者なら頭を使って、音楽家なら指や口を使って、絵描きなら手に筆持って、大工漁師百姓理容師美容師それぞれ技術や力で稼いでいるわけですよね。頭や手や足や指や口を使って稼ぐのはよくて、なぜ性器を使って稼ぐのはいけないとされるのか、僕にはどうしても理解できないのです。古今東西、この商売があり、どこかの哲学者か文学者が世界最古の商売と言うほどのものであり、世の中の半分はいる男性の過半数は否定しないだろう、あるいは男性の一部やもしれぬが利用するのに、蔑まれ貶められる職業なんですね。国によっては個人が個人の責任において売春することは合法としている所もありますがごく希)
(悪所という呼ばれ方でしたけれど、僕たちの中では、なんか浪漫を感じる部分もありました)
(浪漫って、言葉は知ってるけれど、ユリ、よくわかりません)
(そういえば、大正浪漫という言葉が、もう四半世紀以上前に流行ったことがありました。当時より半世紀前の僕の若かりし頃と重なる時を懐かしむ風潮。たぶん、四半世紀前にご老人になられた方々が、あっ、僕もそうなんですが、昔はこんなによかったんだと語る中で懐かしまれたのでしょうか。確かにね、戦争に突入して行くその後の暗く重苦しい時代とは違っていました。そうそう、この前外出した折に埼玉の川越に帰られる方に乗りましてね、大正浪漫通りって所の近くに住んでらっしゃる方で、町並みが昔の建物ばかりでして、ちょっと懐かしさを感じましたよ。石造りの店や二階の格子戸の硝子窓、店名の字体など。売っているものは勿論現代の物なんですが、戦前の街並はこんなだったなぁと。空襲さえなければ、ああいう街並が方々にあったのかもしれない。あのままの平和が続かなかったのは、時代の流れ。でももしあそこで戦争がなかったなら、いや、戦争がなかったとしても、今の様に結局はやたらめったら高い建物ばかりになってしまうのも時代の流れなんて考えさせられました)
(浪漫、う〜ん、どうしよう、ロマンチックならわかるかな)
(それもあんまり。少女趣味かしら)
(う〜ん、夢想するような、甘い、ってのか)
(ロバートさま、教えてくださいな)
(......)
(ロバート殿いかがなされたかのっ)
(......)
(ローマンでしたら代わりにわたくしがお答えできるかしら。仏蘭西で、わたくしが生まれるより百年程前に流行ってましたわ。空想的で現実から逃げるような)
(しかしのっ、浪漫だろうが空想的だろうが、男は女達をそう思っておっても、実態は、女は嫌々、親に売られて、女衒に騙されて、というのが大多数だろうにのっ。勝手に思い込んで通う男達を女達は適当にあしらっておったのかのっ、それとも、厳しい日々を過ごすのには空想に逃げ込む女達もおったのかのっ。男と女と騙しあいの夢想ごっこかのっ)
(夢想で辛い現実から逃れる、だからローマンなのでしょうか)
(永井荷風や吉行淳之介がそういう女達のことを書いているんですよ。椿姫もそうですね。そこに浪漫を感じるか、辛さを感じるか、どう感じるか、男と女で視点が、受け止め方が異なるものなのか、こんなことを満也さんと話したことがありましてね。あっ、満也さんは僕の友達で、ブラジルの作品を訳していて、医学的な事が出て来るので確認の為に僕と話していたんですが、主人公の娼婦テレザが幼い頃に男に売られて云々という話でした。僕の死後、医院に持って来てくれて今は一階の居間に置いてあって、でも、ほら、僕、頁めくれませんからね、結構分厚い本で、皆途中までしか読んでくれなくて、未だに僕は最後まで読んでないんですよ、満也さんからあら筋は聞いていても、云々の部分を知りたいわけですよ。テレザがどうなったかをね。男と女の関係、そこに金銭をからめる。古今東西、需要と供給の経済の世界と割り切るか、文学にするか、法で守るか法で排除するか、永遠の謎なんですよ)
(La Dame aux Caméliasですわね。怖々読みました。そういえば、小説のことを、ロマンと申す事ございますわ。ローマンは小説的ということかしら。それで、そういう女性がいるということは、わたくし、仏蘭西におりました頃にも、英吉利でも日本でも存じてはおりました。世界が違う方々。たしかに、触れてはならない、いけないお仕事という印象ですわね)
(カテリーヌさん、然様でございましょ。ご隠居さんがおっしゃった永井荷風さん、婦人は読んではいけないとされてましたわ。ご立派な家柄の方なのに不良青年と言われて。もうお一人の方は存じませんが)
(あっ、吉行淳之介ですね、瑞鏡と同じ年頃の生まれですし、戦後に売れてましたから、マサさんはご存知ないでしょう。それでね、マサさん、カテリーヌさん、どうも世間は、特に良家の子女とされている方々はお二方同様に感じている。そう感じるのは、そう感じるように教育されたからなのか、それとも女性でなくとも人間として本来受け入れがたく感じるからなのか、なんですよ。性が拒否されるなら、あちらの世に産まれたことも拒否されるべき、しかしそうはならない。産まれると多くの場合歓迎される。なのに産まれる前の行為は隠されたもの、なのでしょうか。それとも隠すべき行為であるから、それをおおっぴらにすべきでない行為を職業にするから、公言はできないのでしょうか。自分も利用した女は自分以外の男も利用するわけだから、自分がその女に誠実である必要はないし、ましてやどこの誰が父親か分からない子を義理を持って育てるのは適わん、という訳なのでしょうか。誰とでもの女は蔑まれ、誰とでもの男は讃えられるなんてのは、判断基準を男と女で分けるという意味で、卑怯だと思うのですよ。僕はね、これを考えると、いつまでもどこまでも理解できない出口の無い迷路にはまりこむのです。あっ、先ほどお話ししていた、子を成さぬと一方的に女性が離縁される、という時代がありましたが、実は、今の科学、それこそ顕微鏡の世界でですが、分かった事がありまして、精が卵を選ぶのではなく、卵が精を選ぶのですよ。同様に、多くの動物で雌が雄を選んでいるのです。雌に選ばれなければならないから雄は美しさを競う。ほら、孔雀でも、獅子でも雄の方が見た目にこだわった恰好でしょ。人間でも実態は男性は女性に選ばれている、もしかしたら売春というのは唯一男性が女性を選べる行為だからなのか、いや、昨今あちらでは男娼というのもいるわけで、あ〜、わからなくなる。子の父が誰だか分からないのが困るからなのだろうか、何故嫌悪される職業なのか、何故取り締まられる職業なのか、GIがパンパンを連れてきた頃からでも、もう六十五年ですか、僕はずっと分からないまま、あちらの世でもこちらの世でも考えあぐねているんです。方や、江戸の花魁、京都の舞妓は文化だとされているわけで)
(ロバート殿、お静かですのっ)
(ロバートおじさん、どうしてさっきから黙ってるの)
(彦衛門殿、虎さん、いや、実は、我輩、外交官だった頃には、日本の遊女は性病が、ということで禁止されておりましたが、その後、幾度か。花魁道中を見に行きまして、何度か通い馴染みになりまして。遊郭は日本の文化の一面だと思っておりまして、いや、下っ端の女郎達が地方から買われて来てなどとは存知ておりましたが)
(まぁ)
(マサさま、すみませぬ)
(正直に免じて許してさしあげますわ)
(かたじけない)
(つまり、慰安所そのものは直に閉鎖されるのですが、その頃には食いつなげない女性がどんどん街中で兵に声をかけるようになりまして、そういう女性をパンパンと呼んだのです。で、避妊具を使うよう、進駐軍も指導していたそうなのですが、いかんせん足りない、あるいは不良品。性病が流行る、性病は怖い、性病には罹りたくないが性欲は満たしたいGI、性病には罹りたくないが金は欲しいパンパン、というわけで、僕の所に性病検査に来るようになったわけです。金は当然払っていきましたが、同時に、やはり恥ずかしいのかそれとも口止め料なのか、いろいろと米軍物資を持ってきてくれるわけです。僕はLucky Strikeが嬉しかったですね)
(緑の地に赤丸のですな。懐かしい)
(ロバートさんも吸うのかのっ)
(昔は、はい。でも吸えなくなって早や九十年。日本では墓前に線香代わりに煙草をくゆらす方がいらっしゃるから、その時だけですな、気を吸う、気を養う気分ですな)
(え〜と、Lucky Strikeは白地に赤丸だったと思いますよ。あと、ココアとかビスケットとか、小麦粉やバター、コーヒー、ケチャップ、マヨネーズ、あっ、有名なチョコレートとか、色々貰いました)
(有名なチョコレートとは、どこのが有名だったのでしょう)
(あっ、いえ、占領時代の有名な言葉がありましてね、ギミチョコレー、チョコレートを頂戴、というのが。僕は目にしたことないのですが、米軍がトラックの後ろからこども達に向けてチョコレートやガムをばらまいていたそうなんです。占領初期の頃、あるいは米軍が日本の地方に視察に行った時に、日本人を慰撫するため、てなづける為だったとも言われていますが、何しろ食糧難の戦中戦後ですから、甘いものが欲しくてたまらない。こども相手にばらまいていたのを横から大人が掠めとるなんてのもあったそうです)
*
続く
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霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けたなら幸いです。
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次回は12月8日の予定です。