セミテリオの仲間たち 番外編止 嘉徳氏独白
小川から引いたこの用水は変わらへん。澄んだ水。今もめだかがいてるし、水辺の草の陰には小海老も。せやけど、小川の向こうに見える道は変わってしもうた。
山陽道の脇道、私が生まれる前には、賊軍がたまに逃げ道を探して通るくらいで、他にはここいらまで来はる行商のもんと村のもんしか通らんかった道やったそうやな。たまにお籠が担がれ通り、せや、納屋の奥の壊れた籠、まだあるやろか。元は馬小屋やった納屋。馬は日露の時に軍馬に出され、戻って来ず、それ以降馬は飼わんようになった。日支の後に供出したタロウも戻って来ず、犬も飼わんくなった。チヨ子が可愛いがっていたタロウ。表道から迷い込んだええじゃないかが通った時が一番にぎやかやったそうやな。遥か昔には、源氏に追われた平家のもんが通ったんやろなぁ。日支の時は送り出す時にも迎える時にも、それなりの人出やった。私の幼馴染みは、日清から帰還したし、日露の時の提灯は隣の神社の秋祭りの時よりも華やかやった。シンガポール陥落の時の提灯行列も華やかやった。勝ち戦で終わるもんやと思っとった。せや。提灯の蝋燭も今では電球になったんやった。そん電球も、近頃んは黄色うのうて白や青っぽい。日露の提灯も、あん時より町の人口減ったんに、今の祭りの明るさには負ける。日支事変以降大東亜戦争の頃やった。拡張され二十間のまっすぐな道になって、石ころがなくなり、軍用車両が通るようになり、万歳で送り出す人の数、遺骨を首からかけて悄然と歩く老人、女子供。敗戦からしばらくすると白人を乗せたジープが通り、せやけど、小川の橋はジープが渡れなかったさかい、村の中までは滅多に入って来んかった。大雨の後を別にすりゃ、大人なら膝頭程までほどの水を十数歩渡れば超せる幅やのに。靴を濡らすんは大儀やったんかいな。あの白人達、占領軍のどこの国のもんやったか。若いんが、通訳連れて、村の文書を調べに来はったそうや。憲兵程怖くはなかったもんの、背の高いんに囲まれて、敗戦国と思い知らされたと、息子はゆうとったな。場所は役場の隣で変わらへんままやのに村の小学校が尋常小学校になり、国民小学校になり、また町立小学校になり、市立小学校になった。役場も学校も建物は時代にあわせて何度か建て直され。せや、焼き場までの私の葬列の頃は、あの道、まだ舗装されてへんかったが、そん後、簡易舗装され、アスファルトで舗装され、街灯も明るくなりよって。埃はたたなくなったしぬかるむこともなくなったんやけど、水はけ悪そうやな。霜柱もできんやろ。せや、つららも目にせんようになった。味気ない。下駄で歩いたらどないな音がするんやろ。私が死んでから、もう随分変わった。私が生まれる前も、こんなに変化が激しかったんやろか。
父まで代々の庄屋が父は途中で村長になり、自分は町長になり、同じく町長になった嘉明も戦後引退、孫は助役どまり。今はひ孫が市役所の課長。村長、いや、市長になどなる気は無さそうや。
あん時、こんな山間の町にまで農地改革の波が押し寄せてきて、田畑をこどもたち四人、孫達十五人にどこまで残せるか、一年前とは違ってたわわになった目の前の秋の稔をぼんやり眺め、これが先祖伝来の土地の最後の収穫になるやもしれず、川面に目をやれば、老いさらばえた我が姿。
はてさて、自分とは、若かりし頃の言葉。わいとゆうとった餓鬼の頃、庄屋の後継ぎはわいなどとゆうてはなりませんと言われ、僕とゆうとったら、僕など坊ちゃんのゆうこととされ、俺は俺で若造が生意気にと言われ、小生と申せば、気取っていると言われ、結局、私。女みたいやないか、と孫、ひ孫に言われたものよ。長年使った私とゆう言葉が身に付いたのか染み付いたのか、せやけど、わいとゆうとったのがほんまのわいなんやろなぁ。
あん時、川面にうつる我が面を見れば、つるつるのつるっぱげ。けどしなびて。増えたんは皺、無くしたんは毛髪。せやけど、用水も草木も空気も変わらず、変わっていくんは歴史の流れ。用水の水の如く、流れていくこの老いの先に何があるんやろ。
あん時、用水の水の流れを人生に例えたならば、あん辺りで生まれ、あん辺りで村の小学校、あん辺りで高等中学校、あん辺りで、帝大、あん辺りでチヨ子と結ばれ。せや、小学生の頃、この辺の道がぬかるむと、坊ちゃんやった私は合羽をかぶせられ、戸板ん上に乗せられて、男衆に戸板ごとかつがれよった。男衆の頭より高い位置から、合羽の隙から見える景色は違って見えよった。雨が止んでもぬかるんでいる時など、合羽をかぶらんくてすんださかい、うまいこと汽車が通ったりすると、嬉しかったんは途中まで。少し年長になると、近所の子達の手前気恥ずかしかったわ。小学校を終えて、汽車に乗って通学したんはほんの数人、誇らしいような気恥ずかしいような。そん後、帝大出で博士様と呼ばれ、さすが庄屋さんとこの坊ちゃんと言われ、あはは、今思うと、矜持ばかりの勇み足。品行方正な人生を送ったもんや。あかんたれの人生を送っとったら、どんなもんやったろ。ちとしまったな。三日三晩の結婚式、私もチヨ子もほとほと疲れ、結婚式は本人達んためではなく、親戚縁戚友人知人隣人のためと思い知らされ。あん辺りで嘉明が生まれ、あん辺りで弥栄、珠代、巌が生まれ、我が家は幸いにも誰も外地には行かずに済んだ。伯父は、従兄弟と二世代続いて近衛兵になり誇っていたが、従姉妹のところの甥、何という名やったか、外地で病死、別の甥は赤紙で取られ戦死。取られなどと、昨年までならば口が裂けても言われへんかった。皆、お国の為にご奉公、勇ましく出陣。今思うと送り出す父母、妻、子達の胸の内はどないやったろ。チヨ子やったら、当時とて隣近所の噂で耳にしたんやろう。
あん辺りでチヨ子ん他界、そこら辺りで敗戦。正面の水面が今ならば、この先、我が人生、どこまで続くんやろ。チヨ子、嘉明が生まれた頃んチヨ子、弥栄で腹をふくらませて嘉明を追いかけていた頃んチヨ子、嘉明と弥栄を両手につなぎ、珠代が腹にいた頃んチヨ子、巌が腹にいた時には弥栄と珠代と手をつなぎ、嘉明が尋常小学校に通うんを見送っていた。巌を抱き、上の三人を学校に送り出し、最後に私を送りだしていたチヨ子。弥栄が里帰りで初孫を産んで張り切って世話していたチヨ子、珠代も結婚し、初の内孫、嘉昭が嫁の実家から戻ってくるのを待ちわびていた時んチヨ子。巌も結婚し、孫に囲まれてニコニコ世話していたチヨ子。正月には百人一首で坊主めくりしていたチヨ子。孫娘達が大きくなって坊主めくりじゃのうて、百人一首を競っていたチヨ子。あないに快活やったんに、あないににあっけなく往ってまうとは。あれから二年以上経って、
あん時、まだ嘉明を身ごもる前の、若いチヨ子が、川面に映って。私に莞爾としてお爺さんと呼んださかいに、お迎えが来たんやと思い、もっとチヨ子に近づこうと、前屈みになり、そこから先は覚えとうへん。
見慣れた仏間が、見慣れのう光景。鏡の中の仏間の様。嘉明、弥栄、珠代、巌、それぞれの連れ合いや孫達が私を見てる。皆、妙に神妙な顔して、私を見てる。ほな、私は倒れたんか、医者の姿は無い。身体が軽い。節々の痛みも感じへん。声を出そうとしても声が出ぇへん。
あん時、お爺さんと迎えに来はって呼んだんは、孫の淑子やったんや。けど、私はチヨ子やと思うてしもうた。今なら分かる。今の私ん顔は川面にうつらへん。
あん時から半世紀以上経ってしもうた。孫の淑子は、法事に来てへんかった。とくようと言う所にいるそうや。時は流れる、用水の水のようになっ。そろそろ私が淑子を迎える番やな。
ー 終 ー
方言監修は、星の林の住人いちこさん、にお願いしました。
第九話に登場した嘉徳氏の独白です。
第十話まで長い間お読みいただき、ありがとうございました。
これから先のお話、セミテリオにて取材中です。
しばらくお待ちくださいませ。