第十話 セミテリオの新入居者 その五十五
(でも、やっぱり怖いです)
(知らないものは怖いと思うそうですからね。まぁ、しっていると余計に怖くなることもありますが、相手を知ると怖くなくなることの方が多いのではないでしょうか)
(そんなものですかねぇ)
(そうでしょう。トミーさんだって、ホームレス、最初は怖かったけれど、今は怖くはないでしょう)
(ですねぇ。ですが、妻のことは、数十年経ってかえって怖くなりましたしね)
(ははは)
(僕もね、最初はユリちゃんなんて怖くなかったんですよ。最近のユリちゃんはちょっと恐ろしい)
(ユリちゃんなんてなんてっ、虎ちゃん何よっ)
(ほら、怖くなってるでしょう)
(怖いっていえば、そうそう、烏賊薫、結構食べちゃったんですよね。で、ふと気になって袋の賞味期限を見てみたら、切れていました。でももう腹の中に入れちゃってましたし、その後、別に腹の調子も悪くなりませんでしたけどね。暫く怖かったですね。慣れちゃえば、賞味期限切れなんてなんともない。これなんかも、知ってしまえば怖くなくなるでしょうか)
(ちょっと違うかもしれませんよ)
(で、その晩、結局語って夜明かししてしまってね、ホテルには朝帰り。家と違ってホテルだと朝帰りしても怒る人いませんしね。ただね、なんか勿体ない気がしました。私はホテルで寝なかったのに、荷物の預かり代が宿泊料金でしょう。で、また、起こさないで下さいの札をかけて、その日は夕方まで寝ていて、で、晩になって、食事を何か買いに行こうと出かけて、結局またガード下に行ったんですよ)
(また佐藤さんに会ったのですか)
(いえ、その日は、会えなくて、ただ、前からの知人には会って、まさかこの人達もみな佐藤さんみたいにホームレスしているってわけはないだろうし、なんて一寸気になりはしましたよ。それなりにかまかけてみたんですが。で、そんな日々の繰り返し。佐藤さんに会うと、また一緒にくっついて行って、ホームレスの方々と夜明かしして、また宿泊代が勿体なかったと思うことが何度か続いて、そしたら、アイデア、え〜と、名案出されました。荷物だけなら、何も毎日数千円払ってホテルに置いて置かなくたって、コインロッカーに預ければいいんですよ、ってね。でも、毎晩急に宿泊場所を探して、もし満室だったら野宿ですか、私たち、夏場はほとんど野宿ですし、なんとかなりますよ、なんて言われて)
(夏は.....しかしですのっ、冬ともなれば、東京には雪が降る、雪が降らなくとも地面には霜柱が立ちますのっ)
(ですねぇ。私はその時、自分が冬までずっとそういう生活をし続けるかあるいはやめるかなんて、そこまで考えてませんでした。ただただ現実逃避して、家に帰ったらまた妹達から追い回される、妻や娘に何をしていたか説明せざるを得ないっていうのが嫌で。そういえば、どなたかが話してましたっけ。リーマン騒動の年末は新入りのホームレスが急増して、炊き出しやら演説会やら色々あって賑やかだったけれども、警官も多数いて、騒がしかったって)
(暴動ですかのっ。日比谷公園は役所に囲まれておりますからのっ)
(アカですか)
(虎さん、アカではなくて、彦衛門さん、暴動でもなくて、え〜と、アメリカの不況が)
(おっ、我が祖国のことですな)
(あっ、はい、え〜と、株価が暴落して)
(蕪は美味しいですわ。ねえユリさん)
(いえ、マサさん、蕪ではなくて株式の、うわっ、ご隠居さん、助けてください)
(いや、その件は、ちょっと。僕ももうこちらの世におりましたし。何となく知ってはいるものの、とてもとても)
(え〜とですね、あっ、そうだ、ロバートさん、千九百二十九年の大恐慌はご存知ですよね。あの時もアメリカが発信源で)
(トミー殿、申し訳ないが、我輩がこちらの世に参ったのは、その十年前でしてな。我輩には子孫はおらぬが、我が祖国のこと故、責任を感ぜねばなりますまい。申し訳ない)
(僕は生まれてはいましたが、まだ幼くて)
(僕は、かろうじて覚えてはおりますが、う〜ん、暗い時代の始まりでしたか。大震災の後でしたし、身売りが増えたとか、大陸に渡る人が増えたとか)
(富実様、わたくしは大恐慌は存じておりますわ。でも、もうあまりに昔のことで。昭和の御代のことでしたわねぇ)
(え〜、私は生まれてはいなかったので、ただ、教科書や授業で教わっただけなんですが、あ〜、つまりですね、アメリカで起きたことで、日本でも仕事が無くなる人が増えてですねぇ、住む処も追い出された人が急増して、で、日比谷公園で集会開いたり、炊き出しが出たりしたわけでして、ってことなんですが。あれっ、私、何の話ししていたんでしたっけ)
(宿代が勿体ないっておっしゃってました)
(oh、モッタイナイ、無駄ということですわね。先ほどからおっしゃってらしたその言葉、わたくし、以前からよくわからないのです。モッタイブルというのはモッタイを付けるということだそうで、付くのですから、モッタイというものがある、ということでございましょう。で、モッタイとは何なのでしょう)
(あっ、それ、俺、僕もわからないっす)
(カテリーヌさん、武蔵君、仏教の言葉なんですよ。父がその意味を教えてくれたのですが、理解しきれませんでした。体が無いというのが勿体で、あるべき姿が無いのが無い、つまりあるべき姿があるのが勿体ないということで、しかし、体というのは他の体とのつながりで体になるのだとかね。これ、理解出来ないでしょう。たしか、父はこんな説明をしてくれたと思うのですが、堂々巡りでややこしくでね、こういう頭や心の中で考えている姿よりも、実態のある体の方がよくてね、それで僕は住職は弟に譲って医学の道を志したわけですよ。トミーさんが、荷物が泊まるだけの宿代を払うのが勿体ない、無駄だと思われたということで)
(えぇっ......ご隠居さんでもおわかりにならないっすか)
(わたくしがわからなくても構いませんのね)
(私はですのっ、今は実態が無い存在でしてのっ。だがおりますのっ)
(わたくしもですわ)
(するとですのっ、私は、勿体ということですかのっ。あはは、あちらの世の方々は、勿体ないということになりますのっ。おっ、それで納得できましたのっ。あちらの方々は身体がありますからのっ。あちらの方々は勿体ない方々ですのっ)
(だんなさ〜、素晴らしいですわ。無駄にしてはいけませんわ。命は大切にしましょう、ということでしょう)
(なるほど。父には申し訳ないが、解り易い)
(しかしですのっ、その、勿体である私やマサは、今更、命を大切にと思ってもですのっ、いかんともしがたいのですのっ)
(え〜と、でね、宿代が勿体ないということでですねぇ、名案が出された訳なんですが、もうそろそろ日が暮れますし、そろそろ私の人生も終盤になって参りましたし、続きを語って、さっさと話を終えたいのですが、それこそ時間が勿体ないですからね)
お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。
明後日は彦衛門氏命日です。
門松や冥土の旅の一里塚、とはいえ、
良いお年をお迎えくださいませ。