第十話 セミテリオの新入居者 その四十八
(洗濯機はともかくも、慣れてしまえばATMは複雑ではないんですよ。暗証番号は、カードを盗まれた時に現金を簡単に盗まれない為に必要なんですよ。あっ、カードを盗まれてしまうと大変なんですよ。あ〜、我が身、畜生、巧くやったのかなぁ)
(あら、富実さん、乱暴なお言葉ですこと)
(いや、あっ、すみません。でね、今は生体認証というのがありまして、指紋や虹彩で判断するというのもあるんですよ)
(指紋ですかのっ。ほうっ)
(あ〜、掌紋認証ってのもありましたか。ただ、掌紋や虹彩は銀行で導入しているところは、もうあるのかなぁ。指紋認証は、はい、もうありますよ)
(掌紋もですかのっ。江戸時代ですのっ)
(あ〜、そういえば、そうですね)
(で、もう一つの、こうさい、とは何ですのっ)
(目の中の模様です、ねっ、ご隠居さん)
(黒目の周りの色目部分ですよ)
(ほうっ)
(で、その部分の模様が人それぞれ違うので、指紋や掌紋と同じ様に使えるらしいです)
(使うとは、如何に)
(え〜と、最初に登録しておくと、同じ人にしか開けられない鍵の役目を果たすんです)
(しかしですのっ、例えば指先や手や目に怪我をすると、鍵が開けられぬということですかのっ)
(はぁ)
(その人にしか開けられない鍵ということになるとですのっ、例えば、私の指が私の家の鍵とするとですのっ、マサには私の家の鍵は開けられないということですかのっ。私の指先を切って渡すわけにも参りませぬのっ)
(だんなさ〜、おじっごと)
(えっ)
(あら、ユリさん、ごめんあそばせ。恐ろしいこと、と申しましたの。鍵の替わりに指を切るなど、ねぇ)
(ユリもそんな鍵、要りませんっ)
(今のあちらの世界は、そんなに恐ろしいのでしょうか)
(いや、指先を切って鍵にするわけではなくて)
(指先や手を切ったりするのも充分恐ろしいです。でも、そんなに鍵が必要なんですか)
(そうですねぇ。我が家でも玄関の鍵、三つでしたしね。私が帰宅するまでは、二つ、私が帰宅して自分の鍵で二つ開けて、中に入ったら三つ目も閉めていました。夜になると、窓にも補助鍵付けていましたし)
(まぁ、三つも。昔はよかったですわ。夜には鍵をかけましたが、一つだけ)
(僕の所も、戦前の医院だった頃は鍵一つ、戦後は頑丈な鍵一つ。鍵をかけない家も多かったのですが、薬品やカルテなども置いてありましたからね。今は、警備会社とも契約してますよ)
(警備会社とは、警察のことですのっ。今は、会社なのですかのっ)
(いえ、彦衛門さん、警察とは違うんですよ。え〜と、ガードマン、警備する人達なんですが、例えば泥棒に入られたり、いや、入られなくともドア、扉が壊されたり窓ガラスが割られたりすると警報が鳴って、警備会社に自動的に連絡が行って、警備員が駆けつけて来るシステム、構造になっているんです)
(巡査とて、やって来るであろうのっ)
(はい、警備会社から連絡受けて)
(う〜ん。警察官は、たぶん、見回り、いや、してらっしゃいますねぇ。え〜と、つまり、商店や企業、病院などが、自分でお金を払って、余分に警備してもらうというのか)
(ほうっ、新撰組の様なものですかのっ)
(えっ、いや、あっ、でも、似ているのかなぁ、俺、新撰組ってよくわからないし)
(警察は一々個々の安全まで見て回れないのでしょうね、都会だと周囲の者は大半は知らない人ですからねぇ)
(宮之城の頃とは違いましたが、でも、向こう三軒両隣どころか、町内の方々は存じておりましたわ)
(マサさん、時代が違いますよ。人口も人口密度もね。今じゃ、マンションのお隣さんでも知らない人が結構いるでしょう。独身で賃貸マンションに生活していると、自治会に入らなくても構いませんし、昼間働いて夜しか帰らないと管理人さんにですら顔を合わせることもないですしね。僕も大阪にいた頃はそんなもんでしたよ)
(都会は、人口の流出入が激しいですからね。その上、世の中が物騒になったのか、それとも護る財産が増えたのか。増えた者もいれば減った者とているわけで、今も昔も貧富はあったのにね。貧しいからと言って富める者を襲うわけではないのに。あ〜、情報の氾濫ですかね。ニュースで悪事を知れば、自分もやってみようなんて簡単に思ってしまう、とか。それに、知らない人なら顔見知りより襲いやすいのでしょうかね。戦争であれだけ死なせてしまった昔より、個々の生命の価値は今の方が上がっている、いや、交通事故死者や自殺者の数は多いわけで、ふむ、世の中が物騒になって、護る為に鍵の数が増えていることには、いろいろな事情があるのでしょうか)
(で、新たな新撰組の登場なのですのっ)
(彦衛門さん、新撰組ではなく、警備会社ですよ。新撰組は刀を持っていたんでしょう。警察官はピストルを持っていても、警備員は警棒しか持っていない筈ですよ)
(それでも警備員は命を賭して闘うのですのっ。いやぁ、おのこ冥利)
(ユリ、怖いです、やっぱり、昔も今も)
(愈々益々複雑怪奇な世の中ですねぇ)
(みなさんがそうおっしゃると、私、案外色々とややこしい世界で生きていた様な気になって参りますが、でも、今のあちらの世界、こんなものなんですよ)
(うっす。俺、あっ、僕、産まれた時からみんなあったから、何てことないっす)
(まぁ)
(あっ、で、そろそろ、ホテルの部屋で目覚めた続きに入ってもよろしいでしょうか)
(短い眠りでしたね)
(はぁ、まぁ。今の説明に要した時間よりは長く寝ていましたよ。二度寝から目覚めたのは昼前でした。頭痛はまだ続いていて。さぁ、どうする。初めての無断外泊。もう義父母はこちらの世界におりましたから、養子の身とはいえ、肩身は狭くはないものの、長年馴染んだ養子の立場からしてみれば、反乱。妻の携帯にかけようか、それとも家電にホテルの電話からかけようか、公衆電話からかけようか、迷っている内に、かける気が失せて)
お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。