第十話 セミテリオの新入居者 その四十五
(マサさんも、お笑いになるのですか。私、何かおかしな事申しましたっけ)
(ユリも可笑しいの)
(みなさん、どうして)
(飄々とした透明な、身軽な気軽な、とおっしゃったからですよ)
(はい、虎之介さん、申しました。それ、可笑しいですか)
(だって、富実さん、それ、僕達のことですよ)
(えっ)
(トミー殿、今、身軽ではござらぬか。透明のようなものではござらぬか)
(あ〜あ、そうですね、確かに。透明ですか)
(ええ、あちらの世界の方には、見える方もいらっしゃるけれど、大方お見えにはならないですもの)
(あちらの世界だとて、見えない者には見えないのですがね、でも、みんなが見ているって思い込んでいる。まぁ、見えないとぶつかられますが、でも、トミーさんとて、あちらの世界にいらしても、こちらの世界にいらしても、視野に入っているからといって、全てを見た、見ているわけではないでしょう)
(そうですねぇ、考えてみれば、あちらの世界にいた時にも、見えていても見えていなかった、こちらが見ているからと言って、あちらが見ていることは少なかった、のかもしれませんね)
(ふふふ。ですから、透明なふわふわした感じ)
(もしかして有栖川宮公園で、そういう感覚になられて、そのままこちらの世界にいらしたのですか)
(えっ、いや、違います。あの公園に行ったのは、もう三ヶ月程前でしたから。で、日が暮れる頃になって、近くの飲食店で仕事する人達や帰宅する人達の流れができてね、何か、無目的で歩いている自分が社会からは浮いた存在なのだと気付いて、あはは、あの瞬間は、人目を気にしたんですよ。で、自分も流れに乗って、ちゃんと行き先のある人間だって素振りをしなきゃいけないような気になって、地下鉄の駅まで出て、なんとなく有楽町に行って、ガード下なるものに、初めて入りました。いや、あれは路上との区別が無いような、入るというのとは違うのかもしれませんが)
(♪有楽町で逢いましょう♪)
(えっ、ご隠居さん、懐かしい)
(まぁ、ご隠居さんがお歌いになるなんて、まぁお珍しい)
(いや、この節だけですよ。これ、有名でしたからね、芸能には疎い僕でも知っている程)
(いつ頃のお歌なのですか)
(私が高校の頃でしたね。フランク永井が歌ってました)
(どこのお国の方ですか)
(日本人ですよ)
(でも、日本人のお名前ではなかったと思いましたが、聞き間違いでしょうか)
(フランク永井ですよ。ほら、マサさん、ディックみねとかミスコロムビアって覚えてらっしゃいませんか。同じ類ですよ)
(なんとなく、いらしたような)
(たしか、戦時中は改名させられましたからね)
(そういえばそんな事があったような気もいたします)
(ご隠居さんはガード下の飲み屋なんてご存知ないでしょう。私、そういう所があるとは知っていましたが、初めて足を踏み入れました)
(失敬。何とかしたとは、何をしたのですかのっ)
(何とかした、あ〜、ガード下ですか。彦衛門さん、するのしたではなく、上下の下で、ガードの下です)
(ガードとは何ですかのっ)
(高架橋の下のことですよ)
(高架橋......)
(おっ、girder のことですな、ガード、ふむ)
(つまり、有楽町に高架橋があるのですのっ)
(はい、上は、昔は山手線と京浜東北線だけでしたっけ。で、今は新幹線も通っていて)
(私の頃には、まだ無かったように思うのですがのっ)
(で、そのガード下なんですが、ご隠居さん、いらしたことは)
(通ったことは何度かね。あ、下よりも上の方が多かったですが。ガード下......僕にとっては、あはは、終戦直後の靴磨きとGIにしなだれかかっている女達ですかね。あ〜、あと、伝書鳩の糞だらけとか)
(そうだったらしいですね、私は幼すぎてあまり。それに小中学生の頃はデパートも映画も渋谷で済んでいましたし、遊園地も屋上にありましたしね。ですから、なかなかあちらの方には家族も行かず)
(学生時代の頃の銀座って、なんか取り澄ましているというか、で、有楽町はすぐ近くだというのに猥雑な雰囲気があったでしょう。どちらも縁の無い世界って感じで。で、入行してしまうと、また足を運べる場所ではなくなってね。もっとも、今はあの辺りもデパートができてもう十年、いや二十年以上ですか。やっと、あの有楽町で逢いましょうの歌の雰囲気になったのかなぁ。そんな中であのガード下のお店がとても新鮮で。最初はおずおずと、ほら、みなさん仕事帰りの人ばかりで、退職した年齢だとね、でも、そういう連中もいて。見も知らぬ他人だったのに、いつの間にか退職後の閑つぶしの仕方なんて語り合ってね。焼酎だ、モツ煮込みだ、焼き鳥だと、おごりおごられ、終いには誰の払いだったかもわからなくなって、似た者同士で盛り上がって、終電の時刻になって、みなさん帰っていくわけですよ。年金暮らしにタクシーは贅沢だってね。で、私、帰りたくなくなってね。財布の中に金もありましたし、クレカも入っていたから、タクシー乗ればすぐ帰れる。でも、帰りたくなかった。帰って、留守電の録音ボタンが光っているのを見るのも嫌だったし、もう寝てはいただろうけれど妻を起こさないように気を遣うのも、嫌になって。互いに名前も元の職業も知らない者同士なのに、飾り気なく語った余韻に浸りたくて、現実に戻りたくなくて、で、そこから歩いてホテルに飛び込んで、運よく空き室があって。で、翌朝、久しぶりの飲酒で二日酔いの頭ガンガン、無断外泊を妻にどう説明しようか、別にそれこそ浮気したわけでもなし、言い訳する必要もないのか、いや、心配しているだろうか、考えてみたら無断外泊は初めてだったわけで、どうしようか、ガンガンの頭で思考ができない、できないならそのまま考えなきゃいいんだ、チェックアウトの時刻になって、延泊を伝えて、さぁどうする。もうモーニングの時間は過ぎている。please don’t disturbの札もかけたし、また一眠り)
お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。