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第五話 セミテリオのご隠居 その三

(冷蔵庫は物を冷やして保存する所ですね。冷凍庫はもっと冷やしてしまうんです。カチンカチンに。冷やせば保存が効きますね。そうやってアメリカやブラジルやオーストラリアやフランスや中国やあちらこちらの国々から、日本は食品を輸入しているわけです)

(異国の物をそんなに輸入するほど日本は豊かになったのかのっ)

(それとも、人間が増え過ぎて、食料不足でしょうか。支那事変の頃、産めよ増やせよでしたでしょ。お一人が五人ずつ産んで、その五人が四人ずつ産んで、あら、どうしましょう。お一人が五人産んでもその半分は男の子。半分の女の子が四人産んでも、二人が女の子で、あら、ややこしいですわね。え〜ともう七十年ですから、産めよ増やせよで生まれたお子達の曾孫も生まれているやもしれませんし)

(ご夫婦が二人産んでいたら、病で途中で死ぬこともありますでしょ、人口は減って行きますよね)

(マサさん、ユリさん、人口は簡単にはわかりませぬな。何しろ、男一人がお相手の女性は妻だけとは限りませぬ。女性も再婚する場合もあったでしょう)

(え〜と、子が成長して次の世代をつくるのに二、三十年かかるとして、僕の両親、そのまた両親、祖父母、曾祖父母としていって、もしかしたら平安時代ぐらいには日本には二人しかいなかったことになりそうですね)

(あはは、それは面白いのっ。平安時代の二人の子孫達が我らということですのっ)

(まさか、それはございませんでしょ)

(それに、わたくしは日本人ではございませんし、ロバートさまも)

(つまり、平安時代に二人ではなく、もっとたくさんいらした方々の御子孫は途中で途絶えたということなのかしら、ユリが産まれたのはとても恵まれていたってことなのかしら)

(彦衛門さんの人生満開の頃の人口はいかほどでしたでしょう)

(私の人生満開の頃、明治三十一年署長退職の頃ですかのっ。あの頃、我が国の人口は、はてさて、知らぬのか覚えておらぬのか)

(我輩が来日いたしました頃、三千五百から四千万人程度と教わりましたな)

(今の日本、一億二千万人を超えているのです)

(なんとまぁ。産めよ増やせよでそこまで増えたのですか。三倍を超えますわね)

(え〜と、僕が帝大に入る前、で、もうハナが寺に来てましたから大正九年か十年だったと思いますが、さる男爵夫人が出産するこどもの数を減らそうと運動し始めまして、不思議に感じたことを覚えております。そんなこと自然の摂理に任せとけばいいじゃないかってね。その後、大阪だったかな、警察がその運動を取り締まったんですよ。日本人が増えた方がいいのか減った方がいいのか、国力増強の為に人口を増やすのか、食料安定の為に減らすのか、そんなことに警察や政治が入ってくるのが不思議でした)

(ほうっ、警察がのっ、こどもを産むか産まぬかに口を出したのですかのっ)

(三倍以上になる勢いですわね。そういえば、支那事変の頃から、一億一心とか言ってましたわね。でしたら、みなさんそんなにお産みにならなかったのかしら。あら、産めよ増やせよとこどもの数を減らすのと、どちらが強かったのかしら)

(ほうっ、もう一億もおったのかのっ。私の死後どのくらいのことかのっ)

(え〜と、だんなさ〜が亡くなってから、三十年ぐらいかしら)

(三十年で三倍になったのかのっ)

(お爺ちゃんお婆ちゃん、違いますよ)

(だんなさ〜もわたくしも、虎之介殿の祖父母ではございませんっ)

(う〜ん、だって、彦衛門さま、マサさまとお呼びすると堅苦しくて。あのね、あの一億ってのは、日本人だけじゃないんだ。朝鮮の人口も入れてなんだ。つまり、大日本帝国臣民の数として一億。それにしても、僕の同世代が大震災と戦争でたくさん亡くなったのに、一億二千万とは随分増えたのですね)

(原爆というのもあったのですよ。ご存知ないですか)

(なんですか、それ)

(アメリカが開発した、いや、ドイツのアインシュタイン博士の理論に基づいてアメリカが一番乗りで開発できた、あの頃は新型爆弾と言われていたものなのですが、第二次世界大戦末期、昭和二十年に広島と長崎に落とされ、八月六日の広島で二十万人、八月九日の長崎で十二万人程、ほぼ一瞬に死亡したんですよ)

(まぁ、恐ろしい。ユリそれより前に死んでいてよかったです)

(アインシュタイン博士って、もしかして日本にもいらっしゃったのではなかったでしょうか。なのに、日本にそんな爆弾が落とされたのですか)

(そうそう、そうでした。来日途中の船上でノーベル賞に選ばれたとかで、来日後、帝大や他でもあちこちで講義なさったんでした。僕も誘われましたが、医学じゃないですし)

(あのダイナマイトを発明して戦争に使われたのが残念で、賞金にしてくれと言い遺したノーベルのですかのっ)

(そうです。あっ、彦衛門さんもノーベル賞はご存知でしたか)

(戦争に使われたのは不本意だっただろうのっ)

(そのノーベル賞に選ばれたアインシュタインが来た日本に、アインシュタインが関わった爆弾が落とされたのですか)

(はい、アメリカの飛行機から)

(おぅ、我輩は辛い)

(ロバートさん、原爆もですが、何しろ戦争でしたからね、他にも三月十日の東京大空襲だけで十万人弱、三月から六月の沖縄戦で十万人強、徴兵されて外地での戦死者二百万人以上ということです。日本各地で空襲がありましたし。概数ですよ。何しろ多過ぎて、数えきれない。凄まじい数ですからね。記録も取りきれない。誰の記憶にも無い死者もいて当然。役所も燃えましたから戸籍でも確認できない。一人一人の生命がとても軽くなってしまいます。日本人だけでこの数でしょ。戦地での連合国側の兵士庶民の戦死者数、当時日本にいた、あるいは日本軍にいた外国人も含めるともっともっと増えますし。戦争とは恐ろしいものです。数を聞いても、大きい数過ぎて実感湧かないでしょ。そんな数の人間が地球上のあちこちで死んでいったんですよ。僕ね、この数を聞いた時、紙に鉛筆で点を打ってみたんですよ。百ぐらいまでなら楽々、千になるともううんざり、万なんてとてもなわけで、僕が打てないほどの点の一つ一つが命だったわけですから、戦争って恐ろしいですね。その一つ一つの命に関わった人は数倍でしょ。祖父母、両親、妻子、友人、同僚。大震災でせっかく生き残った生命が失われていったわけです。僕の子が言うんですよ。東京の大正生まれは貴重な存在なんだってね。大正時代は短くて、その上震災があって、さらには戦死したんだからって)

(沖縄とは琉球のことかのっ。薩摩が支配しておった)

(はい。琉球です。薩摩に支配され、日本に支配され、戦後はアメリカに支配され、今は日本ですが、中国が琉球は中国のものだと言うこともあるらしいです)

(ほうっ。そんなに人気があるのかのっ。黍の黒糖と海産物ぐらいの島だったがのっ)

(軍事的に価値があるそうで、米軍基地がたくさんあります)

(亜米利加の支配下ではないのにかのっ)

(我輩の祖国はペリーの頃より琉球が気に入ってましたからな)

(軍事的、失礼ですわ。そこに住んでらっしゃる方々の日々の暮らしよりも軍事なんですか)

(暮らしどころか人命ですら軽かったですからね。敵に対してどころか味方に対してもですし。無差別爆撃で非戦闘員を殺すのは戦争犯罪だと言われています。でも、戦闘員だって同じ生命ですからね。そりゃ中には自分から志願して兵や将校になった者もいるでしょうが、徴兵されてしぶしぶ、でも勇ましくせざるを得ない。しぶしぶなんておくびにも出せないわけでしょ)

(東京の空襲は記憶しておりますわ。このセミテリオからも、空が赤く、真っ赤に染まるのが見えました。一昨日はあちら、昨日はこちら今日はまたあちらやこちらや、警報が鳴り響き、半鐘が鳴り響き、悲鳴が怒号が飛び交い、住む場所が無くなりセミテリオに野宿なさる方もいらっしゃいました)

(招集されなくても、こちらの世に来る人が、僕の世代でまた増えたって思っていました。僕たち、当時の若者がどんどん減っていって、この先次世代を作れなくなったら、日本はどうなるんだと思いました。でも、今は一億二千万を超えているのですね)

(我輩、申し訳なく感じるような。我輩の死後四半世紀でそのようなことになったとは、薄々察知はしておりましたが、セミテリオに安住しておりますと、まぁ、あちらの世事には手出しできませぬし。それにしても、外交官達は何をしていたのですかな)

(戦争ですからね。外交官よりも武官、軍人の時代。我慢できなくて先に手を出したのは日本ですしね。まぁ、いずれにせよ、もう半世紀以上前のことです。いや、たった半世紀前なのでしょうか)

(ほぅ...)

(真珠湾を攻撃しましたよ。当時は大層盛り上がりました)

(Pearl Harborです。ハワイの)

(おっ、布哇ですのっ。土人の王国が亜米利加に併合されたのでしたのっ)

(土人というのは今の日本では差別用語なんですよ)

(なんでかのっ。土の色したその土地の人なのにのっ)

(日本土人とかアメリカ土人、フランス土人とは言わないでしょ)

(然様でしたわね。土人というのは、文明も文化もない、まともな生活をしていないという方々を呼ぶ言葉でした)

(それがね、傲慢なわけですよ。どのような生活をしていようとそれはそこの生き方であり、外の者が、外の自分たちの考え方や生活こそが発展した優れた物だとばかりに、相手を劣っているから、教えてやらなきゃと勝手に思うわけでしょ)

(国という体面があれば国民、国という概念がなければ土人と呼んでましたね、たしかに。僕は、土人という言葉に何か楽しい響きを感じていましたが)

(国なんて、人間が考えだした物ですからね。それにとらわれていないと劣っていると考える)

(なんで攻撃して盛り上がるのでしょう。変ですっ。どうしてよその方々が亡くなるのが嬉しいのでしょう。ユリには信じられませんっ)

(自分が死ぬよりは相手が死ぬ方がいい、ってことさ。相手が死ねば、少なくとも、その死んだ相手はこっちを殺しに来はしないしね)

(でも、殺されたら、その周囲の方が仕返ししたくなりませんか)

(日本にも仇討ちという週間がございましたな。西洋ですと決闘ですな。古今東西、そういうものですな)

(仏蘭西でも決闘は屢々ございました。でも禁止令も屢々出されておりましたのよ)

(日本もそうですのっ。男たるもの仇討ちするは当然という考え方と、一方、喧嘩両成敗という掟)

(仕返し、仇討ち、決闘、人間の感情としては当然なのでしょうか。でも、それをしていたら切りが無いですわ)

(一対一の喧嘩じゃないでしょ、戦争は国と国、国々と国々でしょ。切りがなければ人間がいなくなってしまいます)

(国とは民を守るためのものなのか、民が生命かけて守るのが国なのか、卵が先か鶏が先かよりは明確でしょう。最初は民、民が集団を作って、大きな集団が国と呼ばれ、その国家の中で民が生まれるわけで)

(人間が生まれるのは自然のこと。国家は人間が作ったもの。自然と人間とどちらが上位かということなのか)

(自然の中に人間もいるわけですから、自然が上位でしょう)

(なんだか、ご隠居さんと虎ちゃんのお話し、難し過ぎて、ユリにはわかりません)

(殿方はこういうお話しお好きですわね)

(カテリーヌさん、仏蘭西でもそうでしたの)

(はい、仏蘭西でも、夫の英吉利でも。殿方は政治や戦争や哲学が好きで)

(そんなものなくたって人間は子を産んで育てて死ぬのに)

(理屈をこねて、暇つぶし)

(死ぬのも死後も怖いと思われていても、実はセミテリオの方がよっぽど幸せですわね。いくら血が騒ぐっておっしゃっても、血はないですし、騒いでも手を出せませんから戦争にはなりませんもの)

(あの頃は、天子さまの神国、日本国を守るために民が血税を流したのです。民を守るための国を守るために民が死ぬのは構わないのか、どうなんでしょうね。本末転倒みたいな)

(誰だって普通は死にたくないでしょ。でも、国を守って天皇の赤子として死ぬことは美しいこと、男の本懐と言われて)

(疑いはさむと怖くなりますからね。自分でもそう信じようとする、まわりもそう信じているふりをしている内に、本当に信じる。信じれば怖くない。集団で催眠術にかかったような。誰だって、冷静に考えれば敵とはいえ人を殺したくはない筈。でも殺してしまう、近くの人が殺されれば仕返ししたくなる)

(ですから、切りがなくなりますでしょ)

(ですから、死者が出る戦争になる前の外交努力が大事なんですな。どちらがより悪い、こちらは正しいなどと譲らねば、喧嘩、戦争になってしまう)

(どちらも悪いんです。喧嘩両成敗と申しますでしょ。まったく、殿方はどうしてすぐ戦うのでしょう)

(面子がね)

(面子より生命でしょう)

(え〜と、またまただいぶ話しが逸れているようですが、つまり、日本の人口は今や一億二千万を超えていまして、農産物や畜産物も海外から輸入しているわけです。今では、外国を植民地化したり戦争して占領しなくとも、平和に輸出入できるわけです)

(理想的な世界ですわ)

(いや、まだまだ、やはり、理論が、宗教が、経済格差が、民主的でない、などなんだかんだと理屈をつけて、あちらこちらで戦争はやっていますが、まぁ日本は一応、昭和二十年を最後に戦争しておりません)

(平和はいいことですわ)

(しかしながら血が騒ぐのっ)

(殿方はまったくもって手におえませんっ)

(それで、え〜と、牛が狂う病気に罹った牛肉を食べると、煮ても焼いても死なない物質がありまして、それを人間が食べると人間も狂うというのがありまして、また、狂うわけではないのですが、鰻や筍や産地偽装がありまして、それでトレーサビリティが大事になってくるのですが、一方、人間はトレーサビリティを意図的に隠しているわけです。さもないと、生物学的には実の親である卵や精の元の持ち主、あるいは子宮を貸して育てた産みの母親が育ての親に知れるのはよくないということでして、人間の場合にはトレーサビリティが使えないわけで)

(誰の物とも知れぬ卵や精や子宮をどうやって入手するのですか)

(買うんです)

(買うんですかっ。卵や精や子宮をっ)

(ユリには信じられません、別世界ですわ)

(ユリちゃん、実際、別世界だからね。あちらの世とこちらの世は)

(卵や精を提供したり子宮を貸す女性を紹介する銀行や会社のようなものがあるんですよ)

(まぁっ)

(まぁ、人類皆兄弟ではありますし)

(兄弟喧嘩をするわけですわね)

(夫婦喧嘩もですか)

(ユリさん、どうして)

(えっ、あのぉ、今日もですけれど、ご隠居様、いつもお一人でしょ。お噂では奥様がすぐそこ、こちらの世にいらっしゃるのに。それでご隠居様は夫婦仲がお悪いのかと。立ち入ったこと、ごめんなさい。でも、今日のご隠居さんのお話、そこから始まったのですし)

(いえいえ、仲が悪いというのではなく。あ〜、これをご説明すると長くなるんです。そうそう、長くなっても構わないということでお話し始めたのでしたね)

(長くなるのは構いませんことよ。こちらの世は暮れないですし、永遠)

(一緒に乗って出歩くこともあるんですよ。ただね、ハナは嫌がるんですよ)

(どうして)

(何故でしょう。出歩かないと石みたいになってしまいますのに)

(好奇心は大切なんですよ。こちらの世で長生きするためには)

(ユリ、気になります。どうしてですか)

  

  *


続く


お読み頂きありがとうございました。

気の世界をお楽しみ頂けましたなら幸いです。

次回は11月10日にアップいたします。

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