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第二話 セミテリオでため息

セミテリオにやってきた高校生はため息ばかり。

「クヮ~コルネイユクヮ~コルネイユ」

(烏が...)

(烏さんが仏蘭西語でないてくださってますわ)

(仔が待つから家に帰るのだろ)

(おっ、乗り者が...)

(子が待つから家に帰るのだろ)

「あ〜」

(溜息ですわね)

(あらぁ、あのお歳じゃ、お子さまはいないと思います)

(そうでしょうか。私はなかなか子供に恵まれませんでしたが、ユリさまの頃もまだご結婚は早かったのではないかしら)

(お友達は皆早かったの。番茶も出花、花も恥じらうユリはね、箱入り娘扱いでしたの。縁談をお父様お母様に断り続けられて、二十歳前にやっと初めてお見合いを整えて頂いて、なのに西班牙風邪で...ユリはお見合いも体験してないんです)

「あ〜」

(また溜息ですな)

(あの青年というか少年というか、僕ぐらいだろうか)

(あらぁ虎さま、そんなお歳でしたの)

(僕は現在、え~と、さんじゅを過ぎました)

(三十ですか。私とお近いのかしら)

(カテリーヌさん、僕はおばさんより若いのです)

(でも、わたくし三十五で止まりました。三十と大差ないですわ)

(あっ、いや、さんじゅとは、三十ではなく傘寿、八十と言うことで)

(まぁ、八十...そんなお歳には見えません。)

(あっ、つまり、僕のあちらでの年齢が止まったのは十七でして。え~と、カテリーヌさんは今おいくつで)

(まぁ、女性に年齢を尋ねるものではございませんわ。でも、え~と、百と二十と...)

(ほらほら、生まれた年でも、年が止まった年齢でも僕の方が若いのです)

(ここの年齢はややこしいものだのっ。マサは私より八若くとも止まった年齢だと私より二十も上の婆様になる)

(婆様ですか...だんなさ〜、それは辛うございます)

(浮世ではなし、辛いことはないだろ)

(だんなさ〜とは、ひこさまのお名前ですか)

(いえいえ、旦那様、つまり、夫君ということで、マサがつい薩摩言葉になってしもうたの)

(だんなさ〜、いえ、あなたさま、わたくしの方が若いのですのに、辛うございます)

(浮世ではなし、辛いことはないだろ)

「あ〜」

(浮世のあの青年には辛いことはあるのかな)

(先ほどから歩みが遅くて、それに溜息ばかりついてらっしゃる)

(僕みたいに肺病かな)

(虎ちゃん、結核でしたの)

(虎之介は寅年生まれ。その頃流行っていた芥川龍之介の小説を好きな父がちなんで付けた名前なんだよ、ねぇ父さん、ねぇ母さん...返事がないな。僕より四十年も後にこちらに来た両親はお休み中のようで。龍虎、どちらも強いと思いきや、僕が生まれた翌年、龍は自殺、そして僕も結核でおだぶつ。あの亀歩きの青年、細くて薄くて青白くて、ほんと僕みたい)

「あ〜」

(あらあら、お腰をおろされましたわ)

(あの床机台、冷たかろうに)

「あ〜」

(あ〜、ばかりなの)

(そりゃそうだ。ユリちゃん、君、いとうとえとおを考えてごらんよ)

(い〜、だわ)

(だろう)

(う〜、じゃなんだか詰まっているみたいだし)

(はばかり、厠、便所)

(だんなさー、いえ、あなたさま、お止しになってくださいませ。なんだか漂ってきそうで。乗せられてしまいそうで、あまり乗りたくない臭いですもの)

(私達には縁のない行為。だがちと懐かしいのっ)

(そして、え〜、じゃ落語の始まりだ)

(あら、お〜、でしたら、驚きですわ)

(カテリーヌおばさん、驚いちゃいけない。やっぱりあの青年の見かけだと、あ〜、が似合う)

(おばさん...あんまりですわ)

(年の差からだとおばあちゃん、でも見かけでおばさんにしたんだよ)

(はぁ~。わたくしもため息つきたくなりました)

「あ〜」

(ほんと溜息ばかり)

「なんで僕が...」

(あ〜、じゃないこと言ったわ)

「あ〜、なんで僕が。立場が逆じゃないか。弟と妹にどう言おう」

(なんだか深刻みたいですわね)

(病気かな)

(立場が逆とは、どういう意味でしょうかな)

(あら、ロバートさま、お久しぶり)

(先ほどから参加しておりましたが、気付かれなかったようですな。皆様おかわりございませんか。今日はご隠居の姿が見えませぬな)

(ご旅行に乗っていかれて、まだお戻りではないのですよ)

「あ〜」

(あ〜、ばかりじゃわかりゃしない。さっさと先を続けてくれよ)

(虎ちゃん、青年には聞こえないから、無駄よ)

(聞こえたら大変ですわね)

(あの男ですか。墓場には珍しい客人ですな)

「あ〜、宙と由佳にどう言えばいいんだよ。中一と小四だってのに。僕だってまだ高二。立場が逆だよ。僕のせいでってならともかく」

(立場が逆って何かしら)

(そうそう。買う者と売る者、殺される者と殺す者、そして私は殺された)

(ロバートさま、まだ下手人をお探しなんだのっ)

(こちらの世界に来てからずっと探し続けてておりまする。下手人が分かるまでは死ぬに死ねぬ。いや、死んではおりますが、空気にはなれませぬ)

(下手人もこちらの世界にいるから、難しいんじゃない)

(あ〜、左様。あ〜)

「あ〜」

(また溜息ですな。中一とか小四とか高二とか...今の学制だと、え〜と、小学校は六年、ってことは中一というのは、数えで十五になるのかな、どうもよくわからぬわ)

(だんなさ〜、今は数えでは数えないそうですよ。満何歳とだけのようですわ)

(マサ、お前の頃には寺小屋だったろう。おなごは藩校にも通えぬ身)

(ですから、わたくし、娘にも孫娘たちにも教育が大事と思いましたから、きちんと女学校まで卒業させました。だんなさ〜もご存じのこと)

(あの男、何歳ということになるのかな。日本人は若く見える。いまだに吾輩は日本人の年齢が見当つかぬ。ましてや時代が変わるとなんとも)

(高二というのは、僕の頃の中学五年生ということかな。だとすると、普通十六か十七)

(ほうっ、やはり若く見える。吾輩には十二、三にしか見えぬ。背丈は、確かに高いが)

「あ〜、どうすりゃいいんだ」

(また溜息ですわ。乗って行きましょうよ)

(あちらまでちょっと遠いですね)

(何か香りがあれば)

(おっ、鞄から何か出した)

(きせるかな)

(パイプのことですね)

(いや、何かもっと太い瓶のような、醤油...)

(醤油を飲んで死にそうになって、入営から逃げるっての、僕が中学の頃には流行っていたんですよ。自殺志願かな)

(うふふ)

(おのこは戦に行くものと相場が決まっておる)

(そういう時代もありましたねぇ)

(うふふ)

(今は平和)

(わたくしどもは、もっと平和)

(ユリちゃん、どうして笑ってるんだい)

(だってあれ、醤油じゃないの。飲み物なのよ)

(あんな真黒い物が飲み物なんですか。でも葡萄酒あれほど黒くはないです...)

(あれね、亜米利加の飲み物なんですって)

(僕の頃なら敵国アメリカ、ルーズベルトのベルトが落ちてなんてのでしたね)

(私の頃は開国を迫るペルリの国、赤鬼か青鬼か)

(あの、みなさま、吾輩の祖国です。気の存在の我ら、ちと気を配っていただきたく申し上げます)

(お~お~そうだったの)

(吾輩の頃にはあのような飲み物はなかったが)

(あのね、あれ、コーラって言うんです)

(オー、コーラか。相当流行っていたのですな。だか、コカインが入っているからと言われて、一度も飲んだことがないまま日本に来てしまいました。外交官の卵といたしましては、異国に紹介するために本国のものを試そうか、それとも地位や社会背景にそぐわない下々のものは試さぬべきか悩みました)

(たかが飲み物なのに、その大仰な逡巡、お仕事たいへんだったと見受けられるの)

(この前、といってももう四半世紀よりもっと前かしら、私が乗せていただいた女性がよくいただいていました)

(美味しいものなのかね)

(さぁ、私には記憶の中の味だけですから、どのような味だかわかりませんが、あの時の女性は毎日のように飲んでいましたよ)

(ということは、コカインとは無関係、いや、やはり習慣性ということは)

(危ない薬だったなら、禁じられているだろ)

(いやいや、我が国がこの国を占領していたわけだから、阿片戦争の事を考えると、いやまさか、だが...)

(おっ、香りが漂ってくる)

(なんだか歯医者のような)

(妙な香りですわね)

(乗せていただきましょうよ)

(ここにいても日がな一日、四六時中、一年三百六十五日、年々歳々退屈な日々、吾輩は乗る)

(ロビンちゃん、お留守番していてね)

(バ〜ア)

(お婆ちゃんみたいだよね)

(虎さまっ)

(乗り心地、悪くないですわね)

(気もそぞろのようですな。吾輩たちが乗っても気配も感じなかったようです)

(えーと、どなたがお乗りになったのかしら。虎ちゃんでしょ、カテリーヌさまでしょ、ロバートさま、彦衛門さまとマサさま、あらっ、ロバートさまを除いて御常連)

(ふむふむ、道中仲良くいたしましょう)

「あ〜、つながらない」

(何がつながらないのかしら)

(ラヂオじゃございませんか)

(ラヂオ、あっなるほど。ハイカラお婆ちゃん)

(虎さまっ)

(虎之介殿もご存じのようですね。あら、もしかして、今ここにいらっしゃる皆様はあちらの世界ではお目にかからなかった、いえ、お聴きになりませんでしたか)

(お婆ちゃん、もとい、おばさん、ラヂオじゃないよ。だって紐がつながっていない)

(んだもしたん)

(んだもしたん、どういう物なのでしょうか)

(ごめんあそばせ、カテリーヌさん、ついお国言葉が出てしまいました。驚くと出る言葉ですわ)

(あのね、私がコーラを知った時には、もうラヂオは電灯線がついていなかったです)

(あら、ユリさんもご存じなんですね)

(私が知っておるのはテレビと申すものだが、あれは動く絵があった。これは動く絵はないテレビかのっ)

(でも、ラヂオに話しかけはしませんよね)

(そういえば時々、セミテリオを通る方々がこれを手に一人でお話してらっしゃいますわ)

(そうそう、王様の耳は驢馬の耳の逸話の如く、鬱憤を晴らす地面の穴の代わりの機械なのかと吾輩は思っておりましたな)

「あー、つながらない。そうかぁ。母さんが料金払わなかったんだ。止められちゃったんだ。畜生」

(まぁ乱暴なお言葉ですこと)

(電話料金とは...ラヂオというものやテレビとは電話料金を払うとつながるものなのかのっ。電話料金ということは、単純に考えれば、電話かのっ)

「そりゃそうだ。母さんに払えるわけない。電話どころじゃない。これからどうやって生活すればいいってんだよ。食費、ガス、水道、電気、どれも止められたら困るし。それに僕の授業料。由佳と宙の給食費や学級費用もある。僕一人じゃどうにもできない。なんで母さんまで」

(お母さま、こちらの世界の住人になられたのかしら)

(お父上もそのようだのっ)

(あら、たいへんですわね)

(弟と妹がいて、金がないってことか)

(だがこの青年は高等学校に通っておりますな)

(金持ちの親戚でもいるとか)

(それでしたら妹や弟も面倒見ていただけるでしょうに)

(そのうちわかることですわよ)

(そうですわね)

「家宅捜査...立ち会えだって。だから明日は学校行くなと...宙と由佳が登校した後に来る...配慮してくれたというか...でも、でも、僕が立ち会うなんて。母さん、何で泥棒なんて。そんなに金に困っていたのなら...げっ、この前くれた、このナイキのシューズを買った金...うわっ」

(シューズとは靴のことですな、わが母国の言葉です)

(泥棒...お母さまが...)

(こっちの世界の新住人ではないんだぁ)

(吾輩思うに、もしやお父上も泥棒)

(我が子の靴を買う金なくて、泥棒ということだのっ。よくあることだ)

(よくないですわ)

(よくあってもいけないですわ)

「コーラ、こんなものもう飲めない。校内で買ったから百円だったけれど、でも百円あればコロッケが買える。セールの三十円なら三個。夕飯のおかずになる。キャベツはいくらぐらいするんだろう」

(セールというのもわが母国の言葉です。大売り出しという意味ですな)

(コロッケが一つ三十円もする時代なんですね)

(コロッケは、わたくしの国の言葉ですわクロケッ)

(コロッケなら、僕の時代でも普通に売っていましたよ。馬鈴薯をつぶして揚げたもの)

(ございましたわね。こういう歌が。♪けふもコロツケ、明日もコロツケ、年がら年中コロツケ♪)

(おばあちゃん、歌が上手。おばあちゃんってコロツケ毎日食べてたのかな)

(コロツケは...買いませんでした。良い油を使っていませんからね、女中に作らせておりました)

(マサはコロツケを作っておったのか。私は食したことがないが) 

(だんなさ〜御存命の頃には既にコロツケはございました。でも、だんなさ〜のお病気に油ものはよくないといわれておりましたから) 

(ユリはその歌知らないわ。三十円って、ユリの頃でしたら、お家が買えたのかしら)

(ユリちゃん、いくらなんでも、家は買えなかったと思うよ)

(ところで此の御仁は乗り物には乗らないのだろうか。今日は何に乗れるかと楽しみにしておるのだが)

(電車は苦手ですわ)

(吾輩は電車は楽しみですな。乗物を移れますからな。人から人へと、接触部分から乗り移り、ずいぶん遠くまで参れます。電動の乗物の中で人動乗物に乗り移り、電動乗物よりさらに遠くへの旅路)


  *


(電車にも地下鉄にも乗れず、面白くなかったよ)

(ご近所の様子が見られてよかったですわ)

(ほんと、久しぶりですものね。建物がみな高くなっていて、道路がみなきれいになっていて、お店の中が明るくなっていて)

(暗いのはこの青年だけ)

(セラヴィ)

(街中に漂う香りにはどうも慣れない。空気が悪い、気に悪い)

(車の多いこと)

(人も多いですこと、セミテリオと違ってにぎわってますわね)

(道を渡る時など恐ろしくて、生きた心地がいたしませんでした)

(ふふ、僕たち生きてはいないから)

(でも、ほら、気を失うと乗物から落ちてしまうから)

「ただいまぁ」

「お兄ちゃんお帰りなさい。お腹すいたぁ」

「あれっ、兄貴、帰る途中で弁当買ってくるって言ってなかったっけ」

「弁当も飽きたから。今日はコロッケ。あとは飯だけというわけにもいかないから、キャベツ買ってきた。宙、切れるかぁ」

「あったり前。シェフになりたいから高校行かないつもりなんだから。でもコロッケと飯とキャベツだけか。わかめのスープぐらい作るよ」

(シェフとかスープとか、私には分からない言葉だのっ)

(シェフってわたくしの国の言葉で頭ってことですが、何の頭になりたいのかしら。高等学校に行かないでなれる頭って)

(スープとは吾輩の国の言葉。汁のことですな)

(汁は、ぶたじるが一番だのっ)

(とんじると言うんだろ)

(虎之介殿、薩摩ではぶたじると申すのでございます)

(そうなんですか。日本語は難しいのですね)

(カテリーヌさん、お国によって言葉が違いますように、日本の中でもお国によって言葉が違いますもの。こちらに参りましてから、いろいろとわたくしも苦労いたしました)

(ポトフが懐かしいですわ)

(ポトフとはどのようなものでございましょう。お国のお料理なんでしょうね)

(いろいろと煮込む仏蘭西の料理です)

(吾輩はコーンスープが懐かしい。おっと、コーンとは唐黍のことですな)

(うわっ、砂糖の汁。とっても甘そう)

(いやいや、砂糖は砂糖黍からでして、唐黍とは緑の中が黄色くて、黄色い実がたくさんついておって)

(玉蜀黍のことですね。黄色い汁ですか。砂糖はお足しにならない)

(吾輩も日本語の難しさを感じてますな)

「そのかわり、コロッケは十個。九つ買ったら一つおまけしてくれた」

「今日も母さん帰ってこないのかなぁ」

「母さんは仕事が忙しいんだろ。僕はお米とぐよ。由佳は、後片付けをよろしく」

「ふ~ん、つまんないの」

「兄貴、母さんから連絡もらったのか」

「いや、推測推測」

(うわぁ。押すだけで火がつく竈。前のお散歩の時は、まだマッチで火を点けていたのに)

(おのこが台所に入る。料理をする、ふむ)

(ほう、ロバート殿のお国では男児は厨房に入るべからずですかな)

(いや、下々の者に任せて、我が輩の階級では、女も母も妹も料理はしませんでした。まだ奴隷のいた時代でして)

(わたくしもそうでした。でも彦さまはいたしましたのよ。鶏をさばいて鶏飯など、大層上手に。彦さまの鶏飯が懐かしゅうございます)

(うわぁ、この弟君、私より手際がいいわ)

(ユリちゃん、ごはん作れないのかい)

(私も、母は作りませんでしたし。辿りつけませんでしたお見合いのお相手の方々もそういうご家庭でしたわ)

(わたくしもそうでした。でも、日本に参りましてから、こちらの使用人たちはあちらの料理、できませんでしょ。ですから私が記憶を辿って、たいへんでした)

(かつおで出汁をとっている。おのこながらあっぱれあっぱれ)

(あら、このパリパリの小さいのがわかめなんですね。昔はわかめはぬるぬるしたものでしたが)

(昔もあったよ。乾物で。もっとでかかったけれど。仏蘭西や英吉利では使わないかな)

(なるとのわかめが美味だったのっ)

(なると、ですかな。渦巻き模様の)

(ロバートさんがご存じなんですか。東京では私がこちらに参ります前には見かけましたが、その前にはなかったと思いますがのっ)

(散歩の時に見たことがあるんですよ。蕎麦の中に入っていました。あれもわかめなんですかね)

(おじさん、それ違うよ。蕎麦に入っていたのは蒲鉾の仲間、わかめは海藻。鳴門は地名。渦巻き、うずしおで有名な所で、なると巻きはその渦巻きに似ているからですよ)

(日本語は難しいですな。いつまでたっても充分とは申せませぬ)

(ロバートさまがおっしゃるなんて、わたくしはどうしたらよいのでしょう)

(僕ね、帝大に入る勉強していた時、いつもそう思っていたよ。勉強してもしてもきりがないって。史学など、後で生まれた方が損するに決まっている。覚える事が増えて行く、なんてね)

(あちらの世界で終りではなかったですのっ。こちらに来てからも、新しいものがどんどん。世界もどんどん広くなって)

(あきらめてしまう方が多いのでしょうねぇ。好奇心旺盛なわたくしどもはまだ永らえておりますが)

(執着しないと飛ばされる、空気になって風に乗って)

(うわぁ、キャベツの切り方、とっても上手。この弟君、料理人になれますわね)

「由佳、今の内に宿題終わらせとけよ。八時からドラマ見るんだろう」

「うん、お母さん、いつ帰ってくるのかなぁ」

「電話ぐらいしてくれたっていいよね、兄貴、連絡貰ってないの」

「僕の携帯、切られているんだ」

「へぇ、兄貴、料金払わなかったの」

「母さんが払ってくれると思っていたから」

「お母さん、元気かなぁ」

「元気だと思うよ」

「今頃夕ごはん食べているかなぁ」

「たぶん」

(うわぁ、なんだか切ないですわ)

(目で見て鼻でかいで、でも喉を通らないからね)

(そうじゃなくて...こちらのご兄弟の置かれた状況が)

(そうですわね。おかわいそうに)

(喉を通らない、だから出るものもない。それもまた楽だのっ)

(だんなさ〜、またお話をそちらに持って行かれるのですね)


  *


「おはよう、妹さんと弟さんはもう学校に行かれたようで、えぇと、外で立ち話もなんだから、中に入ってもいいかな」

「あっ、はい、どうぞ。あっ、それから、おはようございます」

「それじゃあがりますよ」

「あっ、はい、どうぞ。あのぉ、どうして四人も」

「私は、昨日学校の外で会ったからわかってるよね。桜山署刑事課大谷警部補です。これが、同じく桜山署刑事課の国井巡査部長、それと、生活安全課の岡崎巡査部長、こちらは桜山区役所福祉課の早川さんです」

「君には立ち会ってもらわなきゃならないけれど、こちらも同僚、国井に立ち会ってもらう必要があってね。岡崎は少年の担当なんで、一応君のために、それと早川さんには君の今後の生活のこともあるから、相談先として」

「あっ、はい」

「早速家宅捜査と行きたいのだけれど、まずは最初に説明しましょう。君のお母さんは、お父さんとご離婚なさって、その後も、お父さんと一緒に窃盗、つまり泥棒をしていたという疑いがかけられています。一昨日検察庁取り調べも行われ、お母さんは正直に話されていて、窃盗を認めています。それで、お母さんの話によると、ここの家に、窃盗した日時や物品の記録、まだ換金していない貴金属も一部隠してあるとのことで、その場所も聞いているので、そのための家宅捜査です。君にとってもショックなことだろうから、少年事件担当で少年に慣れている岡崎にも立ち会ってもらうことにしました。それと、お母さんは、居住地がはっきりしているから、早目に帰宅させようと思っていますが、それにしても、君たち、特に小中学生の弟さんや妹さんのこともあるので、今後の生活をどうするか相談もしなければならないので、区役所福祉課の早川さんにもいらしていただいたというわけです。早川さんとの相談は、家宅捜査の後で、私たち警察官が帰ったあとでゆっくりお願いしたいのですが、それで、いいかな、早川さん、それでいいですか」

「あっ、はい」

「はい、そうしましょう」

(うわぁ、すごい話なのね)

(んだもしたん)

(おかわいそうに)

(面白そうだね。推理も半分当たったし)

(虎之助どのは悪趣味ですわ)

(吾輩の時もこのように同僚たちにあたってくれたのだろうか)

(少年のことだから女性なんですね)

(少年事件って女の子も扱うからではないでしょうか)

(女の子も事件起こす時代なんですか、恐ろしい)

(少年って男の子のことだけじゃないんですか。日本語って難しいですわ)

(日本語はややこしいですな。昔、兄弟に会わせると言われて、姉や妹に挨拶されたことがありましたな。いつになったら兄や弟が出てくるのかと待ちました)

(警察の中に生活安全課などというものがあるのかのっ、私の頃にはなかったが、今の世の中、生活の安全を守る警察なのかのっ)

(今の世の中、困った人を助けるようにできているんですね)

(昔なら、親が泥棒だとこどもは...)

(あらぁ、ちゃんとご近所で助け合いしてましたよ)

(肩身の狭い思いをして、学校にも行けなくて)

(日本では泥棒には入れ墨を入れたそうな)

(ほぅ、ロバート殿、よくご存じだのっ。でもあれは明治には廃止になってのっ。それどころか刺青はえ~と、明治の五年でしたかのっ、泥棒に入れるどころか、刺青を禁止したんですのっ。野蛮な風習だとして、北のアイヌと南の琉球では、署内が逮捕者であふれて困ったそうな)

(何が野蛮になるかは時代次第、上に立つ者次第ってことですわ。私の国も夫の国も欧羅巴以外は野蛮な国だと教えられましたし)

(亜米利加もでしたね。新大陸の国々は野蛮な国、二流国扱いでしたな。日本でこそ、明治以前から上へも置かぬもてなしをされましたが)

(ペルリの黒船が怖かったからのっ。薩摩は英吉利に腹立てたのっ)

「あの、ひとつだけ、先に、あのぉ、母にはいつ会えますか」

「う~ん、お母さんには、早く君と会った方がいいと言っているんだけれど、こどもたちにあわせる顔がないって。今後の生活のことなど、いろいろ相談しなくちゃいけないんだろうけれど、とても恥ずかしがってね」

「はい。僕も、弟や妹にどう言ったらいいかわからなくて」

「それで、まぁ、早川さんと岡崎とも、まず相談してください。え~と、お母さんが言っていたのは、お母さんが使っている部屋の押し入れの布団の下の乾燥マットの下にノートと水枕があって、中に盗品が入っているとのことでした。君にはそれを出す時に立ち会ってもらいたいのです」

「あっ、はい、わかりました。母の部屋はこちらです。あの、水枕ってなんですか」

(水枕、私も知らぬ。マットもノートもわからぬのっ)

(だんなさーは・・・この世の最期の頃に使われました。まだ珍しい物でしたしお高かったんですが、少しでも気持ちよろしいかと、けれど水が漏れましてね、手拭いで何重にも巻いて、それでも、箱枕と違って柔らかいので頭が落ち着かないようで、直に使用をやめたように覚えておりますわ。他の皆様は、水枕はご存じでしょう。)

(私、使いましたわ。私もこの世の最期に)

「国井、手袋はめて」

「水枕、君、知らないのかい。熱出した時に使うの」

「アイスノンですか」

(アイスノンって何でしょう)

(吾輩には理解できませぬ。アイスは我が国の言葉で氷、ノンはカテリーヌさんのお国の言葉、合わせて氷が無いとなるが)

「いや、アイスノンじゃなくて、水を入れて冷やす枕なんだが」

「氷じゃなくてですか。水で冷えるんですか」

「まぁ、出てくればわかると思うよ。君の世代になると水枕も知らないのか」

「大谷さん、僕も知りません。僕は何を探しているのでしょうかね」

「ブルータスお前もか」

(これならわかりますわ)

(吾輩もじゃ)

(僕もわかるよ)

(あら、さすが虎ちゃん)

(わたくしどもにはさっぱり)

(ぶるぅたすとは、虎之介どの、何ぞや)

(人の名前です。二千年以上も前のね。僕たちでも会えるかどうか。もう雲散霧消の世界ですよね。その人がカエサルという皇帝を殺した時に、皇帝が言った言葉ということを沙翁が書いたんです)

(虎ちゃん、ややこしいです)

(沙翁とはシェークスピアのことである。何ゆえに日本人は皆漢字にしたがるのか。ちなみに、沙翁は四百年ほど前の、カテリーヌさんの夫君の祖国英吉利での劇作家であるぞ)

(下克上だのっ。古今東西)

「押入れ、開けさせてもらいますよ」

「あっ、はい」

(ねぇ、この坊や、あっ、はい、ばかりですわね)

(動転しているのっ)

(そりゃそうですわよ)

(面白い、興味深い。僕、こういうの初体験。わくわくしちゃう)

(警察沙汰なんて、恐ろしいですわ。初体験いたしたくもないですわ)

(虎ちゃん、私たちのお仲間にも、生前は警察官だった方がいらっしゃいますわ。そのお方に色々お話をお伺いなさいませ)

(どの方がそうなの)

(カテリーヌさん、どうして)

(あっ、ごめんなさい)

(えっ、なに、誰なの)

(わっはっはっ。カテリーヌさん、どうしてご存じなのですかのっ。話したことありましたかのっ)

(えっ、おじいちゃんがそうなの)

(ふむ。まぁその話はおいおい。今はこちらを見ていたいのでのっ)

「国井、布団、丁寧に扱えよ」

「はいっ」

「大谷さん、これじゃないですか」

「そのようだが、上からそっと一枚ずつおろして」

「これですね」

「国井、写真が先だ。ほら、カメラ」

(写真機ですな。小さいですな。これが文化の発達というものなのですな。吾輩の頃のカメラはこの数倍はありましたな)

(便利な世の中になったもんだのっ。私の頃にはどこから押収したかを文章で表わさねばなりませんでした)

(だんなさ〜よくおっしゃってましたわね。警察官たるもの文章力が欠かせぬと)

(そう、それと達筆であること。達筆でありながら読める字であること、これが難しい)

「君、ここから出てきたということ、それと中身確認して、今リスト作るから、それと、この書類に署名捺印もね」

(リストとは一覧表のことですな)

「あっ、はい。えぇと、はんこうは、家のでいいんですか」

「あぁ、シャチハタじゃなければ」

「シャチハタなら玄関に置いてありますが、シャチハタ以外のは...」

「じゃぁ、う~ん、拇印でもいいかな」

「あっ、はい」

「じゃぁこれで」

「赤くないんですね」

「うん、これだと指があまり汚れないでしょ」

(シャチハタってなんでしょうか)

(印鑑と関係あるようだが、シャチとは鯱のことかのっ、名古屋城のかのっ。その旗かのっ。それにこの黒いの、これは面白い。私の頃にはなかったのっ。指が汚れないというのは良い。指についた朱肉はなかなか落ちないからのっ)

「国井、写真終わったら、部屋の間取りと押入れの計測、図面作成して」

「はいっ」

「おいっ、何しているんだ」

「いえ、あの、計測に邪魔なので、このゴキブリホイホイをどけた方がいいかと」

(ごきぶりほいほいって、これ、何でしょう)

(紙でできているようですね。なんだかおもちゃのおうちみたい)

(ゴキブリって)

(ウ〜ララ)

「わっ」

(ゥワオ)


(嗚呼、至極残念。現代の警察をもっと見ていたかったのにのっ)

(すみません)

(カテリーヌさんがお謝りになることございませんわ)

(でも私があそこで叫ばなければ)

(いえ、カテリーヌさんが叫ばれたからではないと思いますわ)

(吾輩思うに、あの国井という巡査部長が叫んだからではないかね)

(そうですわ。男の方も、しかも警察官がごきぶりを怖がるなんて、今の時代は殿方もひ弱なんですわね。私など手でたたきつぶしておりましたわ)

(ユリさんもそうでしたの。わたくしも、薩摩おご女たるもの、ゴキブリなどに悲鳴をあげるなどはしたない。関東のごきぶりは小さいですしね、黒いですけれど)

(すみません。私、てっきりおもちゃのおうちだと思っておりましたので。中をのぞいてみましたら黒いものが動いておりましたので)

(あらぁ、虎ちゃんがいないのかしら)

(ほう、もしかすると、どなたかに乗り換えできたのかのっ)

(そういえば、初体験に興味津津でしたものね)

(若いから機敏なんですな)

(まぁその内、戻ってきたら土産話を聞かせてもらおう)

(そうですわね。あの青年がまたこの辺りを通るかもしれませんし。後日談もその内)

(ほんとに、私が叫んでしまったばかりに、申し訳ございませんでしたわ)


第二話 終わり



お読み頂きありがとうございました。

彦衛門さまやマサさまとお仲間の世界お楽しみいただけましたなら幸いです。

まだまだ続きます。

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