第十話 セミテリオの新入居者 その三十七
(それはそれは。さほどに辛いことがございましたか)
(いやぁ、もう、何もかも鬱陶しくて、何もかも面倒で、自分が蒔いた種とはいえね、刈り取るのはどうせ自分ではないというか)
(富実さん、まさか、他にもお子様がいらっしゃるなんてことですか)
(いやぁ、冗談じゃないですよ。そりゃね、為す事為したとはいえね、寝耳に水の息子ですよ。法律上は赤の他人、でも血はつながっているらしい。あの時は、DNAなんて調べてませんでしたしね、たしかに指折り数えれば私の子かもしれなくとも、確信は持てない、まぁ、男なんてそんなもんでしょうけれど。で赤の他人でないなら、青の他人、間をとって紫の我が子なんてね)
(紫野君、あら、素敵なお名前です)
(えっ、いやちゃんと名前ありますよ。通帳作ったくらいですから、あれっ、先ほど息子の名前、申しませんでしたっけ)
(おっしゃってません)
(翔って言うんです)
(翔がまだ一歳にならない頃に阪神大震災が起きて)
(関東大震災ですか)
(いえ、マサさん、阪神です)
(まぁ、そんなことがあったんですか。まぁ。たしか、阪神は地震の無い所と聞いておりましたが)
(そうそう。私が大阪支店に勤務しておりました頃も、よくそう聞かされましたっけ。関東ではちょくちょく地震が起きているのに、って。遷都を京都にした、何天皇でしたっけ、先見の明があったんだって。なのに、天皇を江戸に連れていって無理矢理遷都なんてするのは、間違っていたんですよ、なんておっしゃる方もいらして)
(京を都にしたのは、第五十代、桓武天皇。鳴くよ鶯平安京西暦七百九十四年のことです)
(虎ちゃんさすがぁ)
(ユリちゃんだって覚えさせられたのではないかい)
(え〜と、じんむすいぜいあんねいいとくこうしょう、こうあんこうれいこうげんかいかすじん、え〜と、ここまでで十、まだあと四十も、無理、無理です)
(ユリちゃんの頃は覚えなくてよかったのかい)
(一応覚えなきゃいけなかったんです。父も母もすらすら言えてました。でも、でも、もうあの頃から随分経ったから。ほら、虎ちゃんより、こちらの世界が長いし)
(僕達の頃は、絶対に覚えなきゃいけなかった)
(そういや、私の姉達はすらすら言ってましたっけ。こんなの、今の時代、言えたって何の役にもたちゃしないなんて言いながら)
(物事を記憶しようとすると、記憶力全体が上がるそうですよ。ですから、九九のある日本の子供達は記憶力がいいそうですし)
(そうなんですか、ご隠居さん)
(ってことは、ユリは物事を覚えられないおばかさんなのね)
(いやぁユリさん、馬鹿かどうかは、記憶力だけで決まるものではないですから)
(あはは、ご隠居さん、たしかに、私は、それなりに記憶力はあったと思いますが、あの娘と出会った頃からは、馬鹿な人生、後半はほんと馬鹿な人生を過ごしてしまいましたからね)
(いやぁトミーさん、別にそういうつもりではなくて)
(いや、いいですよ。ほんと、我ながら、情けない)
(富実さん、やっぱり、お話まだ続くんですね。ユリ、知りたい)
(いえ、ですから、もう洗いざらい話しますよ)
(そうそう、それがよいのですのっ。私も先日、やはり話し辛い事がありましてのっ、で、渋々。どなたかには出し惜しみしてるとまで言われましてのっ、しかし乍ら、語ると肩の荷がおりるのですのっ。話せば楽になるなんて言葉は取調のすかし文句だと思っておりましたがのっ、話すと楽になるのですのっ)
(私もね、そんな気もしてきたんですよ。それで阪神大震災の話をし始めたんです。地震の時はね、私、義父から例の話を聞いた後で、なんとなく妻の顔を直視できない様な、で、とっくに寝室は別で、一人で寝ていたんですよ。朝、パッと起きられない質でね、いつも枕元のラジオをタイマーで六時にセットして、布団の中で七時のNHKのニュースまで半分寝た様な状態でラジオを聞いていたんですが)
(待たれい。ラジヲはわかりますのっ。ニュースは報道のことと以前どなたかにご教示いただいたがのっ、なんとかで六時になんとか、の部分がわかりませんのっ)
(え〜と、私何て申しましたっけ。あっ、ラジオをタイマーで六時にセットした、ですか)
(そうそうそれですのっ。たいまぁとせっととは、何かのっ)
(六時にラジオが付くようにしてあるということです)
(ラヂヲは、え〜と、触らずとも勝手に付くものですかのっ。マサ、ラヂヲもテレビも朝子の家では、みな、どこかを押したり、つまみの様な車輪の様な輪をくるくる回しておりましたのっ。勝手には付きませんでしたのっ)
(あ〜、そういえばそうでしたね。それ、何年ぐらい前のことですか)
(あの時に産まれた摩奈ちゃんが、もう結婚したんですものねぇ。だんなさ〜、四半世紀以上前のことかしら)
(そうですか。あの頃からたったの四半世紀、いや、テレビができてから、かれこれもう半世紀以上なんですねぇ。で、四半世紀前はまだ、チャンネルが輪っかでしたか。あれから、ボタンチャンネルになって、今はリモコンですからねぇ。テレビの進化は早いもんなんですね)
(え〜と、まだ六時の勝手に付くたいまが不明な上に、さらになんねるとやら、何こんとやら、また分からぬ言葉が増えましたのっ)
(え〜と、私は何を説明すればいいんでしたっけ。タイマーとチャンネルとリモコンですか)
(timerとは時を扱うものですな。channelは運河ですな。しかしながら、我輩にもリモコンはわかりませぬが、英語でござるか)
(ロバートさん、ここは僕の出番の様ですよ)
(ほうっ、ご隠居さんにはリモコンがおわかりになる、さては独逸語ですかな)
(いやぁ、リモコンは、元は英語なんですよ。リモートコントロールなんですよ。略してリモコン)
(日本語お得意の短縮形でござるな。しかし、remote control、はてさて)
(遠隔操作と言うか)
(ほうっ)
(要するに、遠く、離れた所から、テレビや何かを操作するものなのですよ。ご覧になったことないですか)
(あ〜、なんか、ユリ、見た事あるかもしれません。側に行かないのに、触らないのに、電気を付けたりテレビを付けたりできるんでしょ)
(そうそう、ユリさん、それですよ)
(何やら、我輩も彦衛門殿の様な心持ちでござる)
(でね、ロバートさん、チャンネルは運河ではなくて、放送の電波を流している局と受信体であるラジオやテレビとを合わせる、つなぐというか、要するに運河と同じなんですが、あちらとこちらを合わせる訳ですよ。で、タイマーは、え〜と、ある時刻になると教えてくれるもの、あるいは、家電製品に通電を始めたり、電源を切る役割を果たしてくれる機械とでも申しましょうか)
(たいまやらりもこんやら、ちゃんねるやら、それを使えないとテレビやラヂヲを見られぬ、聞けぬということですかのっ。便利になったと思いきや、今のあちらの生活は、大変そうですのっ)
(あはは、確かに。便利といえば便利、手抜きというか、手抜き、楽を求めて、かえってややこしくなっているのかもしれませんね)
(電気が点されて、夜の闇が明るくなった頃、文明の利器に感動いたしましたがのっ、そのたいま〜やらりもこんやらちゃんねるやら、生活するには覚えなければならないものは増えたのではないですかのっ。私が若い頃には、羽織と袴と草履があれば足りたものを、背広だの靴だの増えましたしのっ)
(それに、トミーさん、リモコンには電池を入れなきゃ使えなくなりますよね、おっと、余分なことかな)
(電池とは何かのっ)
(ご隠居さん、余分なことだったみたいですよ。さぁ、私、電池の説明なんてできませんよ。小学校の三、四年の頃かなぁ、気付いたら電池を使っていたとは思いますが、あれの説明って言われても)
(あはは、本当、余分なことだったやも。確かに、瑞穂が生まれた頃はまだなかったかもしれません)
(電池、ありましたよ。ラジオに使っていたと思います)
(ああ、ラジオの電池は違う、いや、電池は電池なんですがね、虎さん、今のリモコンに入れるのは乾電池で、乾電池は、瑞穂が小学校の頃にはあったと思うが、たしか、家でも豆電球とつないで遊んでいた時に、乾電池をなめると死ぬって伝えたのは僕で、で横からハナが)
(富実さん、ハナさんってね、ご隠居さんの奥様なんです。そちらにご一緒されていて、でも、ほとんどおしゃべりにはいらっしゃらなくて)
(ユリさん、ありがとうございます。ハナさま、富実と申します。ごく最近こちらに入居いたしまして、今後ともよろしくお願いいたします)
(ああ、わざわざハナにご挨拶ありがとうございます。ただ、あちらにいた時にはこれほどでも無かったのですが、こちらに来てからは無口で。ご挨拶もせず、申し訳ございません。で、ハナが、瑞穂と私の話に横から口出してね、今の乾電池は大丈夫ですと言われた記憶があるんですよ)
(嘗めると死ぬとは物騒なものなのですのっ。左様に物騒な物を子供の玩具にするのですかのっ。おっと、私も刺せば死ぬ刀を差してはおりましたがのっ)
(いやぁ、その嘗めると死ぬってのは水銀だったからで、でも、瑞穂の頃は、もう学校で使っていたくらいですから、嘗めても死にはしないものになっていたってことでしょう。ハナもあの時そう申してましたし)
お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。