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第十話 セミテリオの新入居者 その三十五


(摩奈ちゃんですわ)

(そうそう、その摩奈ちゃんが産まれた時にいた、え〜と、絵都の娘の家)

(朝子ですよ。だんなさ〜、曾孫や玄孫の名はともかくも、孫の名前くらい覚えてくださいませ)

(しかしですのっ、マサ、私は悦が絵都と名を換えたことどころか、最初の嫁入りですら知らずにこちらに参ったのでしてのっ)

(絵都が怒るのも無理ありませんわ。知らずとはおっしゃっても、悦が幼い内にお膳立てなさっておきながら)

(マサ......、で、その孫の朝子の家で曾孫の、え〜と)

(綾子さん)

(そうそう、綾子が摩奈を産んだ頃にですのっ、孫の朝子の家で、夕方に雨戸を閉めるのに、私には開けても開けてもと、まるで千代紙の入れ子細工を見ているようだったのを思い出しますのっ)

(うわぁ、千代紙の入れ子、ユリ、とっても懐かしいです。開けても開けてもまだまだ箱がある、っての。で、箱ごとに千代紙の柄が違って。日本橋だったかしら、千代紙のお店があったんですよ。もうそこに連れていって頂いたら、お店の中にずぅっといたかったの。千鳥格子とか麻の葉とか小波文とか、小桜とか露芝とか、桜楓とか、矢絣、鹿の子、雪華、組亀、うわぁ、うわぁ、江戸紫や紅や桃や青や黄緑や、きれいでかわいくて、あっ、でも、黒い柄のや縞のはあまり好きでなくって)

(ユリさん、お幸せそうですわ)

(はい、カテリーヌさん、今、とっても幸せです。あらっ、何から千代紙を思い出したのでしたっけ)

(だんなさ〜が、今のあちらの世では戸板の開閉まで辿り着くのがたいへんだと申しましたのよ)

(実に面倒な様であったのっ。私の頃は、せいぜい板を下げるつっかえ棒を外すぐらいでしたからのっ。

(朝子の家では、厚い布をよけると、薄い布があって、それもどけてから窓をあけて、窓をあけると、その網戸なるものがあったのですのっ。ユリさん、まさに網の戸なのですのっ。で、その網戸を開いて、戸袋から雨戸を出して閉める。雨戸を閉めたら雨戸の支え棒をかけ、次に網戸なるものを閉める。次に窓を閉める。窓についた、こう如何に申すか、親指の爪の大きさの魚の尾鰭の如き形のつまみを回して鍵を閉める。窓を閉めたら薄い布を閉める、そして最後に厚い布を閉める。随分頑丈に閉め切るものだと思いましたのっ)

(あはは、私、今まで、彦衛門さんやマサさんに、いろいろと説明しなければならなくて大変でしたが、なるほど、逆の立場になると、ははは、面白いものです。網戸はまだしも、そうなんですね。時代が変わると、ガラス窓やカーテン、レースのカーテンも言葉すら無いわけですね。網戸が普及して、蚊帳がなくなったのは、何時頃だったのでしょうか。あれっ、結婚してからの新居、最初は網戸、無かった様な、いや、あったかなぁ、あの頃まだクーラーは付けていなくて、でも窓を開けて寝ていたってことは、やっぱり網戸はあったのか)

(蚊帳、懐かしいなぁ。中に入る時に、裾をぱぁぱぁして、蚊が一緒に入らないように、慌てて潜り込むの。で、蚊帳の中って、別世界でしょ。面白かった。ここ、セミテリオは夜になると蚊が出て来るでしょ。蚊帳が欲しくなります)

(ユリちゃん、僕達、刺されないし、たとえ刺されてもかゆくはない、だろうと思うよ)

(虎ちゃん、そりゃそうなんだけど、つまんない人。やっぱり富実さんのお話続けてください)

(え〜と、それで、この話は私と君の間だけに止めておくようにと義父に言われて、その日の話はそこまで。今ならね、あの娘の携帯に電話すればよいのだろうけれど、あの頃はまだ携帯はそれほど普及していなくてね)

(携帯って何ですか)

(ああ、ユリさん、携帯電話、持ち歩く電話ですよ)

(あっ、はい、知ってます)

(私わかりますのっ。播州で皆が持っていたものですのっ)

(だんなさ〜、わたくしもわかります)

(虎さん、ロバートさんは、よく出歩いてらっしゃるからご存知ですよね。ご隠居さんは、たしかお持ちでしたっけ)

(はい)

(その騒ぎのあった頃は、まだ今の携帯より大きくてね。立場上、私は既に持っていましたが、まだ銀行内でも皆が持っていたわけではなく、あれから十年ぐらい経ってからですかね、中学生や高校生も皆が持つようになって。あっ、ですからね、あの頃、あの娘は携帯を持ってはいなくて、ですから、あの娘に直接尋ねようにも手段がね。いきなり料亭に電話して、お嬢さんとお話したいと申す訳にもいかないですしね。困りました。いえ、まだ私は自分が父親だなんて思っていないわけですよ。と申しましょうか、いまだに実感なくてね、きつねにつままれた、化かされた、だまされた、いまだに信じられないというのが本音でね。ましてや、そんな話を突然聞かされた時点ではね、とにもかくにもあの娘に尋ねたかったんですよ。困りました。で、そりゃ、義父や義父が使った興信所の話を信用できないとまでは思わずとも、鵜呑みにするのもねぇ。大阪支店で料亭を使う時には、自分で直接電話をかけていたわけではないですから、料亭に電話したら誰が出るかは知りませんでしたが、板前さんと女将さん以外は夜しかいないはず、とすると、予約の電話を入れるとつながるのは、ご家族だけの筈、だったら思い切って料亭に電話するか、いやぁ、やっぱりあの娘宛に手紙を出すか、いや、手紙というのも形が残るから万が一の場合、まずい。それに、手紙にしたって電話にしたって、何をどう、どの順で書くべきなのか、私が父親なのでしょうか、なんて、女将と板前さんの子であるならば、そんな失礼なというか、そんな非常識な直截的なこと、尋ねられないでしょう。すぐにでも電話しようと思ったのは最初だけで、数日間、考えては否定し、否定しては考えなおし、結局、やはり手紙よりは電話の方が、そして、誰が本当の父親であるかはともかくも、もしかしたら私の子かもしれない女将の子が誕生したことを私が知った以上、お祝いの電話ぐらいはかけても問題ないだろうと。私が電話することで、私がそういう情報を得たとあの娘とご家族が認識してくれてもいいのではないかと。でね、電話しました。女将はさすが客あしらいが上手でね、ましてや、ほら、千枚漬けを届けて来る時に徐々にお腹を膨らませて私や行員の前に姿を見せていたくらいですからね、こちらがご無沙汰を詫び、度々の千枚漬けの礼を述べた時と変わらず、ご長男誕生おめでとうございますにとお祝いを述べても、ほほほ、おおきに、いえ、恥かきっ子ですわ、でも、おかげざまで跡取りの心配がなくなりました。おきばりやす、なんてね。私が父親であるなんて微塵も匂わせないんですよ。一分の隙もない応答。電話を終えた時には、義父のいたずらだったのだろうか、興信所なんて本当は使っていなかったのではないだろうか、いや、子は確かに産まれているらしいが、私の子だというのは、全くのでたらめなのではないだろうか、とすら思いましたよ。でも、やはり、義父のあの時の表情を思い起こせば、本当なのだろうか。疑心暗鬼のままお祝いのベビー服と共に、義父から聞いた子の名前で作った、私の所ではない銀行通帳に十万円入れて通帳印と共に、書留小包で送りましたよ。そうそう、金額も困りました)

(左様でございましょう。十万円など途方もない金額ですもの)

(いや、マサさん、大した金額ではないんですよ。今の時代ね)

(左様でございましたわね)

(大金ということではなくて、つまり、金額をいくらにするか、困ったんですよ。もし私の子だというならば、子が産まれてくるのにかかる出産費用の半分にも満たない金額でよいものだろうか)

(まぁ、お子をお産みになるのに、そんなにかかるものなのですか、あら、まぁ。わたくしの頃など、お産婆さんを呼んでくるだけで、そりゃぁ、お礼はいたしましたが、あら、左様でしたわね。今のあちらの世の十万はたいしたことはないのでしたわね)

(いやぁ、その、大金ではないけれど、大した金額と申しましょうか、え〜と、今ですと十万円で買えるのは、デジカメ、パソコン、腕時計、でもみなピンキリですしねぇ、マサさんの頃にはなかったでしょうし、え〜と、昔も今もあって、今の十万円で買えるものって、何があるだろう。ご隠居さん、何か思い浮かびませんか)

(いやぁ、僕も今考えていたんですよ。なかなかないものですね)

(自家用車は買えませんの)

(あはは、無理無理。高めの自転車なら買えますよ。でも自転車だってもっと高いのもあるらしいですしね)

(マサさんの疑問に戻ってしまいますが、孫の瑞穂が瑞樹を産んだ時に、もう三十年程前でしたが、三十万円ぐらいかかったって言ってましたよ。ご参考になりますか)

(ご隠居さん、病院を経営なさってらしても、お孫さんのご出産は、余所だったんですか)

(トミーさん、うちは内科と整形外科だけだったんですよ。産科はなかったのでね)

(ご隠居さん、つい最近でしたでしょ。曾孫さんがご結婚なさって、玄孫さんが三人もお生まれになったのは。でしたら、三十年前のでなくて、今のもご存じなのでは)

(ユリさん、たしかにごくごく最近でした。ただねぇ、僕、いくらかかったかまで知りませんしね。それに、三つ子でしょう、で、帝王切開で保険も使えた筈ですし、参考になりませんから)


お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。

お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。


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