第十話 セミテリオの新入居者 その三十四
(で、なるようになったんですよ。というか、なるようにならされたんですよ。粉をかけたわけでもないのにね)
(ユリ、わかりません)
(ユリちゃん、僕にはわかった、と思う)
(えっ、虎ちゃんわかったの)
(うん)
(ずるい)
(ずるいって言われても)
(え〜と、どうしましょうか)
(何を)
(ユリさんに解るようにしなければいけませんか)
(いえいえ、構いませんのよ)
(マサさん)
(えっ、カテリーヌさんもおわかりになりませんの)
(わたくしは、あの、なんとなく、でも、なるようにとかならされたとか、日本語が難しくて)
(え〜、ですから、要するに、なるようになったのですが、あれはやはりならされたとも思うので)
(ユリ、わかりません)
(え〜と、つまりね、なるようになったんですよ。ですが、私が望んだのではなくて、何と申しましょうか、私が狙われていたのか、とも、いや、やはりね)
(トミー殿、我輩にも不明の点がござる)
(まぁ、ロバートさん、日本語は達者でらっしゃるのに)
(粉をかけるとは、何の粉をかけると如何様になるのでござるか)
(何の粉...、え〜と、惚れ薬とか、媚薬とか、かなぁ。いやぁ、考えたことも無かったですよ。でも、言うんですよ。ナンパしようとする時に)
(ナンパ......それはまた僕には懐かしい言葉です。僕は硬派でしたが。つまり、女性をたぶらかす軟派の連中が、媚薬をふりかけることですよ、ロバートさん)
(了解仕りました)
(つまり、軟派しようともせず、なのにということは、男冥利に尽きる、据え膳喰わぬはということですねぇ)
(ご隠居さん、まぁ、そうとも言えるような、いやぁ、でもあの頃が転げ落ちる坂道のてっぺんだったとも言えるわけで)
(坂道の一番上は景色がようございましょう。富士のお山が見えたり、港が見えたり)
(一見、そう、絶景ですな。しかし、そこまで辿り着くのが一苦労ですな)
(坂の上までは易々と行けたのですがね、で、見えたものも良かった。まだ登り坂だと思っていましたよ。あとひと息、東京に戻ってどこかの支店長になると思い込んでおりました。その頃、貸した先で焦げ付きおこして)
(火事ですか。それは大変)
(いえユリさん、火事ではなくて、え〜と、貸した金が戻ってこないという意味で)
(あらあら、それも大変ですわねぇ)
(そう、月に一、二回はふらっと私を尋ねてきていた彼女が、その責任問題が発生し始めた頃に来なくなって、気まぐれだったのか、まぁ、後腐れが無くていいかとも思ってはいたんですよ。私、焦げ付きの方で、それどころではなかったですしね。その上、あの頃、母が急死して、私、何度か大阪東京間を往復したりあわただしくてね、彼女とはそれっきり。ただ律儀に、料亭のどなたかが大阪までついでの時にと、千枚漬けだけは持って来てくれてね。もちろんちゃんと代金は支払って、時間があれば、千枚漬けを言付かってきた方とは茶店でお茶を飲んだりもしていました。時には女将が来ることもあって。そういう時でも女将は着物、和服なんですよ。で、和服って少し太っても目立たないでしょう。それでも、何度目かには、なんだか女将が前より少し太ってきたとは思っていました。でも、中年太りってありますし、それに、太りましたかなんて、女性に尋ねられないでしょう。で、そうこうしている内に、焦げ付き、あっ、火事ではなくて貸した先が倒産して回収できなくなった件でね、私、東京の本店に戻されて、千枚漬けの方は、転勤のご挨拶の葉書に一筆お礼を書いて、それでもう大阪とも京都とも縁が切れたと思っていました)
(縁が切れなかったんですか)
(いや、その頃は私は本当にもう関西とは縁が切れたと思っていましたよ。焦げ付きの件と実家の相続争いで内憂外患、心身共に参ってましたしね。もう義父の威光も届かなくなっていましたし。本店の片隅で腐ってました。家に帰ったって、妻も娘も相手にしてくれない、っていうか、まぁ、形だけは家族でしたし、義父母とも挨拶ぐらいは交わしていましたが、なんとも気詰まりなね。で、ある日、義父の書斎に呼ばれて、そこで驚かされたんですよ)
(ご離婚でも提案なされた、とか)
(あはは、いやぁ、私もその頃、そう提案されても仕方ないかも、なんて思っていました。銀行では降格でしたし、家では形だけでしたし、もう役立たず、用無しの存在だなんて卑下してもいましたしね。ですから、書斎に呼ばれた時には、とうとう来るものが来たか、なんてね。ところがすっとこどっこい、いや、それこそ離婚を切り出されても仕方のないようなことが起きていたんですね。義父は、退職したとはいえ、かつての部下とは交流がありましたから、そういう処から得た情報だったらしいのですが、女将が男の子を生んだのは知っているか、心当たりはないか、と義父に尋ねられて。あ〜、だからあの頃、女将は太っていたんだ。あれは、太っていたのではなくて、身籠もっていたのか、と私は納得して、義父に、随分年の離れた姉弟ですねなんて。平然としておりました。ですが、単なる噂話で呼ばれる訳もないでしょうから、もしや、離婚を持ち出すどころか、私にももう一人、今からでも遅くはない、と言われるのかと思いました。女将の年齢は知りませんでしたが、たぶん、妻の方が若かったと思いますしね、で、なんとなくニヤニヤしてしまったんですよ。
ところが、義父はそんな私をじっと見ている。新婚早々の熱海での新妻の目は、義父に似ていたんだと気付かされましたよ。義父にそういう目をされたのは初めてでしたから、ビビりました)
(びびるとは、腹を下すことですかのっ)
(いえ、え〜と、関西ではよく言っていましたが、あれ、現代語なんですか。なんていうか、こう、怖くなるというか)
(怖くなれば腹を下すこともありますのっ)
(だんなさ〜)
(腹は下しませんでしたが、義父の眼差しは怖かったですよ。で、義父の口から次に飛び出した言葉が、女将が産んだ子は、君の子、つまり、私の子だろうと。あり得ませんよ。笑っちゃいました。だって、私は女将とは何もなかった。単なる料亭の女将と客、千枚漬けを届けてくれて一緒に茶店で四方山話をするくらいの関係で子ができるなんて、ありえませんからね、義父が冗談を言っているのか、私をからかっているのかと思って、ついつい、またしてもニヤニヤしてしまってね。でも、義父の眼差しは変わらない。じっと私の心の奥底を見透かすようなね。大阪支店では、女将が私を何度か訪ねて来たことが噂になっていたそうで、で、そういうことになっているのかと、それにしても、そういう噂が立つことはよくない、すでに降格されている私には一層よくない、義父はそう思ったそうです。で、事実確認のために、興信所に頼んだそうです。新卒者を受け入れる時に、当時の銀行は興信所を使っていたのは、先ほどもお話いたしましたが、銀行と取引のある所ではまずいからと、別の所に依頼したそうです。結果、女将とその配偶者である板前さんの長男が籍に入っていることが確認できたそうで、でも、興信所は義父の依頼の通り、本当に女将の子なのかどうか、銀行関係者や料亭関係者、その他、家族の知人友人にも当たったそうです。でね、女将は偽の妊娠だったそうで、腹を少しずつ膨らませて自分が妊娠しているように装っていたと分かって、本当に妊娠していたのは娘だったそうで。義父がそう語った時も私の目をじっと見ました。それでも、私、まだ、まさか私がその女将の長男の父親だと思われているなんて、考えてもいませんでしたよ。あの娘が妊娠したなんて、全く知りませんでしたし、その相手が私だなんて、青天の霹靂。そりゃね、身に覚えの無いというわけではなかったとはいえ、そんな数回で妊娠なんて。妻が身籠もるのには随分長くかかったのに。それに、妊娠したなら普通言うでしょう。何もそんな事聞かされたことも無く、疎遠になってしまって、千枚漬けだって他の人が言付かっていたわけですし、ね。大阪での噂話も、義父の語る興信所の調査報告の内容も寝耳に水。噂話の渦中の人であったにも関わらず、蚊帳の外にいたわけでね。しかも蚊帳の外では、焦げ付きや転勤降格や家族の冷たさや実家の相続争い等、もう蚊にさされまくっていたんですよ。蚊帳の中の方でとんでもないことの犯人にされていたなんてね。唖然愕然茫然自失。そういや、蚊帳って、最近ありませんね)
(まぁ、蚊帳がないのですか。あらまぁ、蚊がいなくなったのですか)
(いや、まだいますよ。いくらでも。ただ、最近はどこの家にも網戸があるから)
(網戸って何ですか)
(おっ、私、わかりますのっ。え〜と、ほら、マサ、この前播州で会った、あの玄孫、え〜と)
お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。