第五話 セミテリオのご隠居 その二
(どうも話しが脱線しますね。元に戻しましょう)
(ご隠居様、こちらの世では急ぐことなどございませんわ。脱線ばかりで構いませんのよ)
(確かに。まぁ、僕など、あちらでも、脱線ばかりのおしゃべりを楽しんでおりましたね。え〜と、どこまで話しましたっけ)
(つまり、ごく最近までは、子を生さぬ場合には、男の場合は妻以外と交わえば解決できたやもしれませんが、女の場合には、そう易々と夫以外とは交われませんでしたからね。社会規範として女には許されてませんでしたからね。しかしながら、現代医学はここを解決したわけです。卵子と精子を出して)
(おっ、精は出せるが、卵は出せぬだろう)
(月のもので、卵は出ますが、あれは...)
(女性は、いや、哺乳類の雌はこの世、否、あの世に生を受けた時にすでに大量の卵を持っているのです。その卵を取り出すのです)
(如何様にですかな、腹を切り裂くのですかな。腹を切り裂いて子を出すというならばカエサルが生まれた方法があるが、子ではなく、卵を取り出すのですかな)
(蛙ですかのっ、蛙はたしかに卵をうみますのっ。何も切腹して取り出さずとも)
(蛙じゃなくて、カエサル、二千年以上前の羅馬の皇帝ですな)
(彦衛門さん、ロバートさん、切らないで採卵するのです)
(鶏じゃあるまいし、採卵ですか)
(はい、採れるのです。採った妻の卵と夫の精を体の外で受精させる)
(おさかなさんみたい。越後の出の父が申しておりました。しゃけ、蝦夷ではできたのに、下越村上では失敗したって)
(いや、まぁ、その、その辺りは顕微鏡下で)
(顕微鏡とはなんですかのっ)
(中学校や高等学校でよくのぞきました。おじいちゃん、小さいものが大きく見えるんです。独逸がたくさん作っていましたね)
(遠眼鏡かのっ、遠眼鏡なら存じておるのっ)
(いえ、遠眼鏡、望遠鏡ではなく、顕微鏡というものはごくごく小さいものを大きく見せるもので、我が高等学校には独逸製のが何台もあるというのも自慢でした。日本製のも出始めていたのですが、独逸のは上のレンズの部分がすうっと、きれいに滑り落ちるのが気持ちよかったです)
(レンズとはなんでしょう)
(え〜と、僕はレンズと教わったから、そう言われてみれば、日本語ではなんて言うのだろう。つまり、眼鏡の硝子の部分のような)
(ふむ)
(それで、顕微鏡下で卵と精を交わせて、それを受精卵というのですが、それを母体に戻すのです)
(一度体の外に出して、また戻すのですかっ)
(マサさま、はい、そうです)
(出したり入れたりそれでまた出てくるつまり産まれてくるわけですか)
(はい)
(なんとややこしい)
(医学的には、現在ではさほど難しいことではないのですが)
(ですが、の後に何か付きそう)
(はい、倫理的にというのも、まぁクリアしたのですが)
(clear、ですかな、明らかになった、という意味ですかな)
(あっ、いえ、問題を乗り越えたという意味です)
(つまり、倫理的には問題はなくなった、ということですな、されど何かがまだある)
(はい、日本の場合、法律がややこしくて)
(え〜と、ここまではみなさま私の話しを理解できましたでしょうか。つまり、卵と精があれば、どの卵と精でも交わせられるわけですが)
(それって、何か恐ろしい。採卵できれば採精できればいくらでも人間も動物も作れるということですね)
(まぁ、理論的にはですがね。ただし、母体が確保されねば、まぁ、その母体の代わりになる機械もなきにしもあらずな訳ですが、そこまで行くと、生命を人間が作り出してよいものか、とここで倫理が出てくるわけですから、実際には世界中でもほとんど行われていないとは思います。ですから、倫理的な問題は理論的可能性を制限することで乗り越えたわけですが、法律は、これまた国によって差がありますが、今の日本ではややこしいのです)
(ぞっとしないですのっ)
(あのぉ、ぞっとしないのでしたら、構わないわけですわね)
(カテリーヌさん、ぞっとしない、というのは、ぞっとする、というわけで)
(えっ、しない、は、する、の反対なのでは)
(はい、普通はそうなんですが、ぞっとしないは、ぞっとすると同じなんです)
(わたくしの日本語、まだまだですわ)
(え〜と、母の卵と父の精を合わせた受精卵を、母体が育てられる環境ではない場合、腹を借りる、つまり別の女性に戻せば、九ヶ月後には産まれてくるわけですが)
(九ヶ月っ)
(ユリ、十月十日と教わりました)
(今の子は、一ヶ月も早く産まれるのかのっ)
(彦衛門さん、あれは陰暦、ひと月が月の満ち欠けで計算されてますから)
(月のものもほぼ同じでございましょ)
(マサさま、ご存知で)
(はい、オギノ式の話しは、先日いたしましたのよ)
(あっ、父が自慢の越後のお医者さま、ですね)
(荻野博士は、生まれは確か愛知で、その後は僕と同じ、一高、東京帝大卒業後、新潟で研究なさってました。はい、そうです、新潟にいらした。で、ひと月を太陰暦で計算しますと十月十日、太陽暦では九ヶ月になるわけです)
(なるほど)
(え〜と、話しを元に戻しましょう。母の卵と父の精からなる受精卵を別の女性の腹を借りて育てた場合、産まれた子は、今の日本の法律では父と母の子とは認められないのです。血統はたしかに両親のものでも、産んだのは母でないからですね。一方、妻のではない卵と夫のではない精の受精卵を、妻に戻して妻が産めば、今の日本の法律ではその夫婦のこどもになるわけです。血統は全く異なっていても、というわけです)
(お腹を痛めて産めば、血は異なっても我が子、というわけですね、産めばお乳も出ますわね)
(産むまで、母が食べて胎内の子を育てるわけですからのっ。しかし、血はひいていない)
(え〜と、なんだか、ややこしい、です)
(でも、産みの親より育ての親とも申しますし)
(いっそのこと、どちらも認めてしまえば構わないのではないのかのっ)
(しかし、極端な話、どちらも認めてしまうと、血統がわからなくなります。人間が人間工場でつくられるような)
(やはりぞっとしませんのっ)
(つまり、彦衛門さまはぞっとなさってらっしゃる、ってことですね)
(そうですのっ、ぞっとします。人間が工場で作られるようなのは。品質管理すればいいのやもしれませんが、自分の親がどこにいる誰なのか全く分からない、自分の子がどこでどう育てられているのか全く分からない、やはりこれは頂けない)
(そうですわね。わたくしたちが日々口に入れてましたものは、どこの畑で採れた、どこの農家の鶏、どこで育った豚、どこの海で釣った魚か、分かっていましたものね)
(マサさま、それはマサさまの頃のお話ですね。昨今のあちらの世はだいぶ違ってきております。マサさまのお話を伺って、そうでしたね、あの頃は良かったですね。なんだか老人の繰り言のよう、確かに僕は老人ですが、でも、あの頃の食生活は貧しくとも、まだ正常だったような。今の世はですね、トレーサビリティ、どこで作られたか辿れる、ということなのですが、やっと認識され始めて、これも狂牛病で米国産牛肉に対する不安があって、産地偽装があって、いやはや全く)
(トレーサビリティ、英語のような、我輩、然様な英語は存ぜぬが、もしや和製英語ですかな)
(Mr.Robert, it is an English word, recently created one, connecting two words together, trace and ability, means able to trace, where it came from and where it was cut and processed and so on, originally used in industrial products to control its quality)
(Goinkyosan, you speak quite a beautiful King’s English, it reminds me of our diplomatic American English)
(I surely had learned King’s English when young, but there is no more King’s English. It has been Queen’s English, since...mid 1950s)
(ユリ、チンプンカンプン。何語ですか)
(私にもわかりませぬのっ。琉球の言葉より難しい)
(わたくしはわかりますわ。英語でございましょ。ご隠居さんがお使いになったトレーサビリティという言葉の由来。夫の英語を思い出しておりました。懐かしゅうございます)
(僕にも分かりました。今の英語は王様英語じゃなくて女王様英語だと。そうなんですか。英吉利は今は王様ではなく女王様なんですね)
(わたくしやだんなさ〜ご生前の頃も女王さまでしたわね。英吉利の王室も長生きの家系なんでしょう。あら、いえ、たしかその後、わたくしがこちらに参ります頃までに王様が三人ほど変られて。日本に比べてお忙しいと思ったのでしたわ。長生きどころか短命なのでしょうか)
(僕は中等学校でも高等学校でも王様英語を習いましたが)
(あのぉ...)
(ユリさん、わたくしにもわかりますよ。いえ、わたくしにもユリさんが分からないということがわかりますよ。とれーさなんとかと王様英語と女王様英語と、一体全体何が何だか)
(失敬。いや、ついロバート殿に会えて、久しぶりに英語をしゃべってみたくなりましたので)
(我輩は一瞬若返りました。占領下の頃にはセミテリオで交わう不届きな占領軍兵士の米語英語印度式英語を耳にいたしましたが、ご隠居さんのような美しい王様英語、いえ女王様英語を耳にするのは感激至極ですな)
(ロバートさんこそ、その日本語は、僕のより格調高い明治の日本語ですよ。僕にはそういう日本語はしゃべれません)
(いや、有り難き幸せと申しますか、どうも最初に身につけた日本語から離れられず)
(それでですのっ、何をお話になってらしたのでしょうかのっ、知りたいですのっ、ねっ、ユリさんも)
(はい、皆さん、なんだか彦さまとユリがここにいないみたいな)
(あら、わたくしもだんなさ〜と同じで、ご隠居様とロバート殿、虎之介殿、カテリーヌさんに無視されたと感じておりました)
(つまりですね、ロバートさんが、トレーサビリティという単語は知らないとおっしゃったので、追跡可能なという意味の新しい英語の造語で、元は工業製品の品質管理に使われていた単語で、ということを、僕が英語で申したわけです。僕の英語が王様英語だとお褒め頂いたので、いや、今は王様ではなく女王様だと)
(つまり追跡可能な食物ということでしょうか、当たり前のことでしたが、もしかして今はそうではないのでしょうか、どこぞの畑の誰のたれべぇが作った、どこぞの浜の誰のかれべぇが釣った、というのが全くわからないのでしょうか、まぁ、そんな)
(日本のみならず世界の人口が増えましたからね。食料生産量も科学技術の進歩に伴い増加しておりますし、輸送手段も格段の進歩を遂げましたから、口に入れたものがどこの誰がどうやって作ったかなど、普通にはわからなくなっておりました)
(ほら、僕がグライダーに乗ったって話しした時の、ユリちゃん覚えてる。ほら、黒船に卵を乗せたら、日本に着く頃には丁度食べ頃の若鶏になっている、とか、黒船の上が豚や牛でうるさいんだろう、とか、飛べない鶏が飛行機に乗って空を飛ぶなんて話ししてたの。あのことかな)
(はい、覚えてます。つまり、卵を乗せたお船や、若鶏まで育てた船員さんが誰かってことが分かるってことかしら)
(ユリさん、虎さん、今は、飛行機も船も冷凍で運ぶんです。肉にしてからですよ。生きたままの牛や豚を運ぶのではないのです)
(冷凍...ってなんでしょう)
(皆の衆、冷蔵庫はもうご存知ですか。皆様があちらの世にいらした時にはまだ無かった物ですが、その後、あちらこちらと乗られて旅されて、冷蔵庫はもう目になさってますか)
(はい、つい先日、彩香ちゃん家で)
(亀歩き青年のところで)
(隼人君のお宅で)
(四半世紀前にはありましたわ。京都の朝子の家に)
(マサ、五十年程前にも、まだ三田にいた朝子の所にもありましたのっ、氷を入れておく木製のが)
(うん、検事部屋にもありました)
(検事部屋...)
(虎之介殿、然様な所にも旅されましたかのっ、警察官に乗ったあの時ですかのっ)
(うん、まぁ、あったんですよ。こんな小さいのでしたけれど。刑事課のはその倍ありました。あっ、僕の旅話はまた別の機会に)
*
続く
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