第十話 セミテリオの新入居者 その三十二
(まぁ、わたくしの国の言葉ですわ)
(最近はパンツというのですが、私には言いにくい言葉でね、私にとってはパンツは下着)
(ズロースのことですわね)
(ズロースとは何ですかのっ)
(drawersですな)
(下着ですよ)
(ももしきのことですかのっ)
(パンタロンは、下着ではございませんわ。おずぼん)
(ずぼんとは何かのっ)
(襦袢ですな。長襦袢は長ズボンですな)
(なるほど、襦袢ということは袴の下に着るものですのっ)
(いいえ、ズボンは下着ではなくて)
(では、袴ですかな)
(軽杉のことですかのっ)
(いえ、え〜と、裾の形が違うのではないでしょうか)
(もんぺですわね)
(え〜と、ズボンは裾の幅がほぼ同じで、もんぺは裾の幅が縮まっていて、パンタロンはラッパズボンというか、裾が広がっていて、あっ、でも、新大阪駅の時の彼女は、え〜と、ですからパンツなわけで、裾は広がっていなかったのですが、あ〜、やはり、パンツというのは私にとっては下着ですから言いにくい言葉なんですが
...あああっ、思い出しました。スラックスって言うんですよ。そうそう、スラックス)
(slacksですな。然し乍ら、男性の礼装ではないですかな)
(そうなんですか)
(で、そのすらっくとは何ですのっ)
(要するにパンタロンの裾が広がっていないもので、つまりズボンで、長襦袢で、え〜と、彦衛門さんには袴でしたっけ。そうそう、女性も袴を身につけますよね、卒業式なんかに)
(あのぉ、その方がが袴姿だったということは、さほど珍しいことなのでしょうか)
(えっ、あっ、袴そのものでしたら、卒業式シーズン、え〜と卒業式の頃なら珍しくもないですが、え〜と、その、つまり、今の、袴ではなくてスラックス姿だったので、で、スラックス姿というのは、今時珍しくもないのですが、ただ、それまで何度か料亭で見かけた時には和服でしたから、それに髪型も、料亭で見かけた時にはお団子というのですか、そうそう、今のユリさんみたいに髪を上げていたと思うのですが、新大阪駅で会った時には肩まで髪を下ろしてましたし)
(また話が逸れてますっ)
(いや、ですから、新大阪駅で偶然、料亭のお嬢さんと出会ったわけですよ。あちらは少し前まで同窓だったお友達と広島からの帰りだったそうで、お友達と一緒に新大阪で降りたそうで、で、彼女の他に、そのご友人というのが二人一緒でね)
(女の子達は旅の余韻に浸るつもりだったのでしょう。大阪でどこかで食事でもしていくつもりだったらしくて、私は私で、新幹線の切符をまだ買ってませんでしたし、改札の外だったから、というわけで、食事でもご一緒にと言われたのですが、食事していたら帰京するには遅くなり過ぎるからと、茶店に入りました。最初はね、広島の紅葉饅頭のことなんか聞かされて)
(まぁ、お饅頭......)
(マサ、お前もまだまだ食い意地ですのっ)
(あら、だんなさ〜みたいに、その後の事ばかりよりましですわ)
(あらぁ、彦衛門さんとマサさんの言い合いって珍しいですぅ)
(ユリさん、言い合いではございませんことよ)
(はいはい、で、富実さん)
(はい、で、それから、私がなんで駅でうろうろしていたかを問われて、千枚漬けの話しになって、どこそこのが美味しいとかね。で、私の仕事の話も少しして、彼女達の同窓の誰それがどこの支店に入っていてご存知ですかなんて聞かれたのは覚えていますよ。ただね、なんだか、若い女の子三人と一緒では、親の様な年齢の私は、なんというか、まぶしい、恥ずかしい、保護者のような、からかわれる立場にいるような、妙な組み合わせでね、で、あちらはそれから食事に、こちらは帰京するからと、別れて。私は結局、定番の千枚漬けを買って、新幹線のホームで最初に来たのに飛び乗って、一人ですからどうにか座席も見つけて。あの頃は、まだ禁煙車なんてなかった、かな。禁煙車なんかに乗ったら東京まできつかっただろうけれど)
(あ〜、富実さんはお煙草お吸いになるんですね)
(いやぁ、禁煙しようと思ったこともないこともないような。こちらに来る前まで吸ってましたよ。あっ、前の晩までね)
(JR、新幹線も吸えない車両ばかりってのもあるそうですね。禁止するのが好きなんですかね。その内、禁酒車両なんてのも出て来たりして。なんで禁止するのが好きなんだろう)
(我輩の国では、禁欲的に生きることこそ人生たるものという風潮がござるが、かつての日本人はお上の禁止などはものともせずだったと感じておりました。しかし、昨今の日本人は、我が国のpuritanismの如く)
(禁止するという方の立場に立てば、支配する、優れているという錯覚ができますから。明治以降の天皇の赤子、皆で国体を護る、死をも厭わないと、積極的に参加する、いや、参加どころか他人を支配しようとする、支配できる、になっていくわけですよ。実際には支配される側にいるにも関わらず、支配されているという現実を感じるのは辛いから、支配される側に立っている様な錯覚に自ら陥っいく、というね。寄らば大樹の影、付和雷同の危険性)
(かてて加えて、puritanism同様、他の考え方感じ方を劣っているものとみなすわけですな)
(そんなところでしょう。自分たちこそ優れた正しい考え方をしているのであるからして、よって自分たちこそが優れている者であり、よって、他者は従えという危ない三段論法なのですが、それに気付かない。まぁ、日本人に限ってということではないのでしょうが、これが戦に発展することもあるわけで)
(ロバートさんとご隠居さん、また話が逸れてますっ)
(まぁまぁユリさん)
(だって、富実さんのお話、ちっとも進まないんだもの。せっかく、あら、せっかくだって。いやだわぁ。でも、ほら、せっかく、女の子達が登場したのに)
(いや、私、一緒に茶店に入っただけですから、その時は)
(えっ、ほら、その時は、は、っておっしゃった、ってことは、その時の続きがあるってことでしょう)
(はい、まぁ)
(ほら、だから、お聴かせください)
(まぁまぁユリさん、でも、何ですわね。若い女性が富実さんのご年齢の方と一緒に茶店に入るなど、わたくしには少し恐ろしいことに思えますのよ)
(僕にもそうです。そりゃ、時代が違うということなのでしょうけれど)
(茶店、喫茶店が、ですか)
(喫茶店とおっしゃいますの)
(はい、喫茶店を略して茶店)
(あら、さてんはちゃみせではございませんの)
(ちゃみせ、あ〜、ちゃみせね。たしかに字も同じですしね。しかし、喫茶店と茶店は違うものなのでしょうかねぇ)
(茶店って、お寺の近くでおだんごとお茶を出してくださるような所でしょ。ユリ、お寺にお参りした時、帰りに父や母と入りました)
(ですわねぇ。ユリさんには茶店はそういう所ですわねぇ)
(ええっ、マサさま、違う茶店があるんですか)
(はい、ございますわよね、だんなさ〜)
(いや、私はそういう処にはとんと縁のない)
(我輩もですな)
(まぁ、ロバートさんも)
(あのぉ、わたくしも、おだんごを出してくださるお寺の茶店でしたら存じておりますが、違う茶店がございますかしら)
(カテリーヌさんもですか。あら、まぁ、わたくしどうしましょう)
(あはは、マサさん、僕にはわかりましたよ。そういう店は、無きにしもあらずですかな。いやぁ、昭和の中頃でも、まだありましたね。で、喫茶店と混同されて。ほら、いつでしたか、え〜と、お嬢さんが喫茶店に入ったからと親が学校に呼び出されたというのを、どなたか語ってらした。あの話の時に僕は思ってましたよ。きっと学校の先生にはそういう誤解があったのではないか、などとね)
(ご隠居殿、もしや、ご隠居のおっしゃる茶店とは、いかがわしい処ですかな)
(そうそう)
(いかがわしい、ですか。違う、違いますよ。私が若い女の子達と入ったのは、ごくごく普通のありきたりの、そんじょそこらにいくらでもある、れっきとした喫茶店でした)
(左様でございましたの。まぁ、失礼申しあげましたわ。で、その、れっきとした喫茶店とは、どの様なものなのでしょうか)
(れっきとした喫茶店、ほら、ここの近くなら、え〜と、あそこはつぶれた、あそこは別の店になったし、あそこは......ああ、最近少ないですね。そんじょそこらに、いくらでもはなくなってしまってますね。チェーン店に押されて、禁煙だ分煙だに押されて)
お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。