第十話 セミテリオの新入居者 その二十四
(虎之介殿、私は貴殿の祖父ではないっ)
(はいはい、すみません。でも、明治ってそんな時代だったんですか。そりゃね、僕の昭和は、桃色小説は読んでいはいけませんでしたけれどね、でも、文学は読むべし、でしたからね)
(つまり、虎之介殿も小説を読んでいたのですのっ。軟弱ですのっ)
(いえ、ですからそんなことなかったんですよ。昭和にはね)
(で、今はポンチ絵が小説並みなのですのっ、富実殿)
(そうですねぇ。どちらが売れているのかは私も存じませんが、書店に行けば、漫画がずらりと並んでいますよ。ほら、電車の中でも、まぁ、最近は携帯触っている人の方が多いですけれど、それ以前は、文庫本より漫画雑誌の方が読んでいる人が多かったように記憶しております)
(漫画とはすなはちポンチ絵ですのっ。ポンチ絵には文字が少なかったですのっ。つまり、ご隠居さん、今のあちらの世の方々もあいかわらず文字が読めない者が多いのですのっ)
(そんなことないと思います。ユリ、そこの小学校に参った時、みんな教科書を読んでいました。音楽の教科書にはロバートさんやカテリーヌさんのお国の文字も書いてありました)
(学校に通えぬこどもとておりますのっ)
(彦衛門さん、今は義務教育で、こどもは皆小学校と中学校の九年間、通学するようになっていますよ)
(しかし、ご隠居さん、私がこちらの世に参る前とて、義務は義務であったものの、家の仕事やら、口減らしで奉公に出したり、そもそも弁当を持たせられないから、着物がないからなどと、こどもを学校に通わせぬ親はいくらでもおりましたのっ。私は関わったことありませぬが、地域によっては、警察官が親元に警告を発してこどもを通学させようとして、それでも一向に生徒が増えないということでしたのっ)
(たしかに、僕の頃でも、小学校を終えない子がまだいましたね)
(ユリの頃は普通でした。特に女の子は、最初の数年だけで)
(学校は、別に参らなくてもよいのではございませんか。わたくし、一度も学校に通ったことございませんのよ)
(カテリーヌさんは異人さんゆえ)
(まぁ)
(彦衛門さん、今は、そりゃ不登校とかいじめで、通学しない子もいますが、家が貧しいからといって通学しないということはありませんよ。それに、こどもは十六になる年からでしか働いてはいけないことになっていますからね)
(ほうっ。すると、勉学が嫌いでも、十五まで学ばねばならないのですかのっ。それは時間の浪費、さぞかし辛いことでしょうのっ)
(ははは、なるほど。そういう視点もあるのですねぇ)
(ですのっ。ですから、十五まで学校で学んでも、文字を読めぬからポンチ絵ばかり見るのですのっ)
(彦衛門さん、違いますってば。文字は読めるんですよ。今時、中学を卒業して文字を読めない子は、普通いないでしょう。兄も、ちゃんと文字を読めましたし、理解していましたよ。もっとも兄の場合、知能に問題があったわけではありませんが。でね、文字が読めないからではなく、漫画の方が面白いから、たぶんそれで漫画雑誌を読むんだと思いますよ。私は、職業柄、漫画を読んでいる姿など他人様に見られると困りましたし。そうそう、私の世代ですと、別に私の職業でなくとも、いい年をした大人が衆人環視の中で漫画を読むなどみっともないこと、恥でしたけれどね。今は関係ない。で、ドラえもんのどこでもドアですが、私もあまり詳しくはないんですよ。ただ、娘がテレビで見ていて、結構夢中になっていましたし、たまに、ごくたまに映画館に付き合って見ていたもので。その扉を通って、どこでも好きな所に行けるというわけです。本当にそういう扉があるわけじゃなくてね。そういう扉があったらいいなぁって思うでしょ。私だって時々思うことありましたよ。で、こちらの世に参りましたら、みなさんまるでどこでもドアがあるかのように、あちらこちらにご旅行なさってらっしゃるご様子なので。あれっ、何の話をしていたんでしたっけ。あぁ、私の大阪転勤の件でしたっけ)
(いや違いますのっ。支那蕎麦のことを私はまだご教示いただいておりませんのっ)
(あっ、そうそう、カップ麺ね。この辺りでも、お見かけしませんか。あぁ、お湯が出ないから無理か。コンビニもちょっと遠いから、ここまで来るまでにお湯が冷めてしまうし。発泡スチロールの、あっ、これも説明しなきゃいけないか。え〜と、中にお湯を入れても熱くならなくて、でも中の熱さは保てるという容器がありまして)
(魔法瓶でございましょ)
(マサさん、ご存知なんですね。じゃぁ、話は早い)
(いや、私は存じませんのっ)
(だんなさ〜、虎印の、ご存知ないかしら)
(虎印ですかのっ。京都の羊羹ですかのっ)
(虎屋の羊羹ではなくて、虎印の)
(あぁ、あれ、そういえば京都だったそうですね。もうしっかり東京土産の印象がありますが)
(あら、ご隠居さんまでだんなさ〜みたいなことおっしゃって。ご隠居さん、虎印の魔法瓶、ご記憶にないかしら)
(あぁ、タイガーの魔法瓶ですか。そうそう、タイガーは前は虎印って言ってましたっけ)
(そう、それですわ。だんなさ〜、虎印の魔法瓶って、それは高価なものでしたのよ。何しろ、お湯を入れておくといつまでも、いえ、いつまでもってことはなかったのですが、随分長い間、お湯が冷めなくて、飲みたい時にお湯をすぐに使えるそれは便利なものです)
(で、支那蕎麦をそれで作るというのですかのっ。ゆでないで)
(あぁ、そういう手もあったか。しかしポットに入れる湯をただで分けてくれる所はないだろうし。やはり携帯コンロの方が便利。いや、今更ね)
(トミー殿、何をぶつぶつですかな)
(いや、独白です、失礼しました。で、彦衛門さん、ともかく、その、外は熱くならないで、中のお湯は冷めないという容器にですね、乾燥したラーメン、支那蕎麦が入っていまして、そこにお湯を足して数分待つと、支那蕎麦ができあがる、こういう仕組みのものをカップ麺と呼ぶんですよ。で、食べ終わったら容器は捨てられる)
(まぁ、魔法瓶の様な高価な物を捨ててしまうのですか。もったいない)
(マサさん、違います。魔法瓶ではなくて、あんながっしりした大きいものではなくて、これくらいの、容器だけなら軽くて)
(そんな支那蕎麦があるのですかのっ。そんな容器があるのですかのっ。なんと便利な世の中になったものですかのっ)
(はい、私が幼い頃に比べたら、ほんと世の中、とても便利になってますからね。そりゃ、彦衛門さんやマサさんの頃とお比べになりましたら、信じられないことばかりでしょう)
(然様でございますわ。わたくしとて、電気やガスの無い生活をいたしておりましたでしょう。江戸、いえ、東京に参りまして、次から次へと。文明とはすばらしいものと思わされましたわ。でも、一度便利なものに慣れてしまいますと、ちょっとしたことでも不便に感じて辛くなるものですわ。大震災の時など、水も電気もガスも使えなくなりましたでしょう。井戸で水をくんだり、炭火でごはんを炊いたり、何かとても大変でした)
(あはは、少し前の生活みたい)
(いえいえ、少し前どころか、もう百年以上も前の事でございますわ)
(私は、いつの話をしていたんでしたっけ。大阪の話でしたか。ラーメン、いや、ラーメンはそうそう食べていたわけではなかったですし。ああ、新婚早々の食事の話でしたね。あはは、あの頃は絵に画いたような新婚生活。ただ、毎日、まるで洋食の食事マナーの練習みたいでね、落ち着かなかったなぁ。でも新婚早々は、一応甘〜く。ところが子ができない。なかなかできない。仕事にかまけて、だんだん夕食は家で食べなくなって。嫁は、実家で両親と一緒に食べるってのに戻ってしまって。で、日中暇だったらしくてね。嫁の結婚は早かったから、最初の頃はご学友も独身で一緒に遊んでいたらしいのですが、どんどん結婚していって、皆さん早く子どもができる。子どもができると嫁と遊び歩く暇はなくなるでしょう。でも、こちらは子どもができない。嫁もあせれば、私もあせる。まさか追い出されはしないだろうけれど。婿入りした以上、跡継ぎを作るってのは暗黙の了解な訳で。義父母にせっつかれはしなかったけれど、私、実家にも余計に顔出し辛くなってね。母や雅実の意地悪な笑みが思い浮かんでね。ですから、嫁が妊娠した時はほんと、嬉しかったというよりもほっとしました。なのにすぐに入院させられて。結局出産後まで入院したまま。で仕事が遅くなると、面会時間に間に合わなくて、暗い家に帰って、あの時ばかりは、実家にいた独身時代よりも気ままな生活してました。それでも、ごはんを炊くなんて面倒なことしないで、食パンとバターかジャムや蜂蜜にインスタントコーヒーという食生活で、ある意味嫁の朝食に順応させられていたのか。で、ある日、帰宅したら赤ん坊がいた。退院の日を知らされていたのに忘れていて、そこからは寝不足の日々。赤ん坊の顔だって、すんなり見せてくれないでしょう。外の汚い服装で子ども部屋に入らないででしたし、少し大きくなってからは、覗いたら目が覚めちゃうから、声かけたら起きちゃうでしょで。嫁も義父母も娘中心になってしまい、私はかまってもらえなくなって、なんて言うとやっぱり私はこどもだったのですねぇ。でもねぇ、私、種付け馬だったのか、なんて自嘲してましたよ。で、余計に仕事ばかりになるし。もう少し娘が大きくなってからも、一緒に食事するのは朝食だけでしょう。で滅多に家にいない父親なんて、娘から見たら赤の他人ではなくともね。嫁の母校に幼稚園から入れて、で、嫁は付き合いが増えて、私はまた放置されて。でも、同僚のところも似たり寄ったりでしたから、まぁ、男なんてそんなもんなのかと諦めてましたよ。しばらくして義父が退職したら、あちらは優雅な生活でね。夫婦であちこち旅行したり、JALパックツァーなんてのが流行っていて、最初の内は海外まであちこち、でも時差や食事で疲れるからと国内ばかりになり、義母が体調崩してからは都内の美術館巡りなどしてましたよ。海外にも国内にも、夏休みや冬休みは娘も嫁もあちらの両親と一緒にいなくなっちゃうわけですよ。で、その頃になると、こちらも放って置かれる生活にも慣れてね。洗濯機だって自分で動かせるようになりましたし、面倒ならばクリーニング店に持っていけばいいわけだし、食事だってあの頃発売されたばかりの電子レンジでできるし。まぁ、そんな生活をしたおかげで、大阪転勤後も苦労しませんでしたよ。ふふ)
お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。