第十話 セミテリオの新入居者 その二十三
(はい。あら、食べ物のことを懐かしむなんて、いつもの彦衛門さまみたいなわたくしたちですわ。お抹茶をおつくりになってらっしゃる間の、お茶室で待っている、あの間が何か心が落ち着くようで。日本の方には滅多にお招きいただけず残念でした)
(そうそう、あれはなかなか良いものですな。我輩も、最初は脚をおりまげるのですら苦労し、次にはしびれに泣く思い。しかしながら、あの静寂、あの貧しさと言ってはいけない、わびしささびしさですかな、あれが、何とも日本の文化を感じさせられましたな。おおおっ、もしや、抹茶、あれのコーヒー版がinstant coffeeですかな)
(なるほどロバートさん。たしかにインスタントコーヒも抹茶も、粉に湯をかけてまぜるだけですねぇ)
(なるほどご隠居さん、私も今気付きました。ああ、だからインスタントコーヒーの発明者は日本人だったのでしょうかね。インスタントコーヒーがモダンだった頃、最初はアメリカのだからもてはやされていたようですが、途中で、日本の技術の逆輸入だとか言われていましたっけ。なるほど、抹茶ね)
(そういえば、トミーさん、あの頃のインスタントコーヒーの缶って緑色でしたねぇ。最近あまりみかけませんが、今でもあるのでしょうか)
(そうそう。緑色で、何でしたっけアルファベットが三文字書いてあって。このくらいの缶でしょう)
(そうそう、それそれ。何でしたっけ、M何とかでしたっけ)
(それそれ、最後の文字はBかPじゃなかったですか)
(そうそう、MJBですよ、緑色の缶の。懐かしいですねぇ。あのMJBって何なんでしょうね)
(さぁ、会社の名前の頭文字とか)
(MJBとおっしゃいましたかな。それでしたら我輩も存じておりますな。確かに我が亜米利加でコーヒーの輸入販売をしている会社の名前ですな。しかしながら、instantではなく、コーヒーの豆を扱っていたように記憶いたしておりますな。亜米利加人はせっかちにでもなったのでしょうかな)
(いやぁ、ロバートさん、せっかちというならば、即席麺を作り出した日本人の方がせっかちですよ)
(トミーさん、その即席麺とはなんですかのっ)
(えっ、皆さんご存じない。ああそうか、あれ、私が高校の頃でしたっけ。そうそうご隠居さん、インスタントコーヒーとどっちが先だったかなぁ、チキンラーメン。私にとってはチキンラーメンの方が先でしたが、インスタントコーヒーは米軍がたぶん使っていたんですよね。それで銀座の、あれ、何でしたっけ、アメリカの食品や化粧品を売っているお店があったでしょう、あそこまでMJBの緑の缶を買いに行っていましたっけ。チキンラーメンの方は、一度だけ、実家の近くまで大きな音楽鳴らして車が来てね。三輪車の形を変えたようなのにラーメン積んで、お湯も出て。で、味見させてくれて、買わせる。結構高かったでしょう。あの頃、三つで百円だったかなぁ。便利といえば便利でしたよね。彦衛門さん、要するに、ラーメン、あっ、ラーメンももしかしてご存じない)
(支那蕎麦ですよ、トミーさん)
(あ〜、なるほど支那蕎麦ですか。そういえば。死語みたいですね)
(今は支那と言っちゃいけないそうですしね)
(それ、ご隠居さん前もおっしゃってましたわ。で、わたくしわかりませんの。どうしてかしら。シナって仏蘭西語で申しますのよ)
(我輩も、以前も疑問に思っておりましたな。英語では、少なくとも亜米利加語ではチャイナであり、つまりシナなのですがな)
(日本人が支那と言う場合のみ、現代の中国人は日本人に馬鹿にされていると思うらしいのですよ。僕にもよくわからないのですが、支那と言ったばかりに非難される日本人政治家というのが時折話題になりますからね)
(つまりですのっ、支那蕎麦が簡便に作れるということですかのっ。う〜ん、口に入れてみたいものですのっ)
(あのチキンラーメン、丼と蓋がなきゃ作れなかったでしょう。でも、お湯をかけるだけでいいってのが、便利でしたよね。高校生の頃の私には、あれでもお八つの足しぐらいにしかなりませんでしたし、あまり女の子の前で食べるのはね、格好悪かった。その点、インスタントコーヒーを飲むってのは、結構格好ついたんですよ)
(その、格好のことはどうでもいいのですのっ。う〜ん、口に入れてみたいものですのっ。簡便な支那蕎麦)
(彦衛門さん、もっと簡単なのでしたら、最近いくらでもありますよ。この私だって、以前、ここで食べたことありましたよ。コンビニで買ってお湯入れてもらって)
(富実殿、それも簡便な支那蕎麦ですかのっ)
(そう、チキンラーメンよりもっと簡便。何しろ、器ごと売っていて、食べ終わったら器は捨てられる。チキンラーメンの時に丼捨てたら、叱られたでしょうねぇ、あはは)
(その、更に簡便な支那蕎麦とは、どういうものですかのっ)
(彦衛門さん、カップ麺って、ご覧になったことないですか。コンビニはお解りになりますか)
(ユリ知ってる。虎ちゃんも知ってるわよね)
(はい、僕も知っています。愛さんと望さんとマック君に乗って川口に出かけた時ですね)
(えっ。出かけられるのですか)
(はい。あっ、ちょっとコツがいりますがね。ここで一番出かけているのは、僕かな、近場ばかりですが。もっとも、一番遠出をなさったのは、彦衛門さんとマサさん、なにしろ、兵庫までですよ)
(播州ですのっ)
(そんなに方々行けるものなのですか。先ほどそういうお話が出てましたが、そういうことだったのですか)
(気の存在ですからね、他人様に憑く、乗せて頂くという方法は初心者向き)
(我輩など犬にも乗せてもらいましたな)
(犬にねぇ、へぇ〜。蟻にも乗れるのでしょうか)
(蟻にも乗せてもらえるかもしれないって、ユリも考えたことあるの。でもね、蟻さんって、遅いでしょ、それに蟻さんだと、たぶんこの近くに住んでいるから、セミテリオから出られないと思うの)
(トミーさん、みなさまわたくしに、仏蘭西まで飛行機に乗ってとお勧めになりますのよ)
(あ〜あ、そういえば、先ほどそういうお話もどなたかなさってましたね。なるほどね)
(少し工夫すれば、一気に行きたい所に飛べるようになりますよ。僕は最近その手を使っています)
(ほうっ、こちらの世界は自由なものですねぇ。ドラえもんのどこでもドア並ですねぇ)
(何ですかのっ、そのなんとか衛門のどこでもだって)
(漫画ですよ)
(漫画とは何ですかのっ)
(おっ、そういえば、随分昔からあったように僕も思っていましたが、今のような漫画は、のらくろくらいからなんですねぇ。その前はありませんでしたねぇ)
(ご隠居さん、そんなことございませんわ。ほら、新聞に正ちゃんのが載っておりました)
(僕は、少年倶楽部の冒険ダン吉を知っていますよ)
(そうそう、ありましたねぇ)
(正ちゃんのとは、マサ、何ですのっ)
(だんなさ〜、漫画です)
(マサ、それでは振り出しに戻ってしまうのっ。漫画とは何ですかのっ)
(え〜と、だんなさ〜、ポンチ絵みたいな)
(ポンチ絵。富実殿、今の世では、ああいう、警察や政府を風刺するものを漫画と呼ぶのですかのっ。で、その何とか衛門のどこでもだは、政府や警察を風刺しているのですかのっ。政府も警察も取り締まったり検閲しないのですかのっ)
(僕の頃は、検閲はありましたよ。たしか、のらくろも検閲されたんじゃなかったでしたっけ、ねっ、おばあちゃん)
(虎之介殿、わたくしは貴殿の祖母ではございませんわ)
(はいはい。すみません、つい癖で。のらくろ、たしか途中で止められましたよね)
(わたくしが存じておりますのは正ちゃんのですわ。のらくろはご隠居さんがおっしゃいましたの)
(で、ご隠居さん、いかがです。たしかのらくろ、途中で止まりましたよね)
(そんなこともあったような、なかったような)
(そうだったんですか。のらくろは、私も読んだことありますよ。あっ、戦後ですけれどね。床屋に置いてあったんで。あの程度で検閲が入っていたのですか。へぇ〜。ああ、それで彦衛門さん、ドラえもんが検閲されたという話は私は耳にしたことないです。最近の漫画はかなり過激でも、それでも検閲が入って出版さしどめって滅多にないと思いますよ)
(そのどら衛門のどこでもだとは、何ですかのっ)
(え〜と、どこでもだ、ではなく、どこでもドアって言うんです。ドアって扉のことですよ。その扉を開くと、どこにでも行けるという、便利な道具でね)
(ほうっ、今のあちらの世界は、私の頃に比べると隔世の感があるとは常々思っておりましたがのっ、扉を開くとどこにでも参れるとは、然様に便利な物まで発明されたのですのっ)
(いや、彦衛門さん、本当にあるものではなく、漫画の中の作り物ですよ)
(しかし、漫画とはポンチ絵、すなはち、現実を風刺するものではないのですかのっ)
(彦衛門さん、そんなことないですよ。今は、もう小説の変わりにどんどん)
(小説とは所詮文字をたしなむ女の暇つぶしですのっ。悦には禁じておりましたのっ)
(ええっ、小説って読んではいけないものだったんですか)
(然様ですのっ。くだらない作り物の話で、世の中を風刺する悪ですのっ)
(あらだんなさ〜、そんなことございませんわ。わたくしも色々、お借りしたり、買ったものをお友達に回したりしておりました)
(マサはとうのたった女ですからのっ、構いませんのっ。しかし処女には目の毒、心の毒、ましてや武士たるもの、四書五経はともかくも、小説などというものに手をだすなど軟弱至極ですのっ)
(へぇ、お爺ちゃんの頃ってそうだったんですか)
お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。