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第十話 セミテリオの新入居者 その十八

(面白い、ですか。まぁね、他人の不幸は蜜の味だそうですからね)

(不幸、だったんですか)

(だって、電話もさせてもらえず、その時、私はまだ旧姓のままですよ。まだ正式には結婚していないわけですよ。急に訪ねた実家で何か事が起きたら、うっかりしたら、結婚式まで挙げたのに、新婚旅行にまで行ったのに、部長の娘を射止められなかったという烙印が生涯つきまとうかもしれない状況だったんですよ。ひやひやもの。で、今みたいに高速道路がない、まぁ、今に比べれば道は空いていましたが、世田谷が近づくにつれ緊張してきて。多摩川を渡った頃には、煙草の本数は増えるわ、喉は乾くわ。で、喉が渇いたと言えば、澄ました顔して、宿を出る時に魔法瓶に入れてもらったお茶をついで口元に持ってきてくれる。今ならペットボトルで自分の飲みたい時に飲めばいいが、あの時には、喉が渇いたといちいち口にするのもはばかられてね)

(ペットボトルとは何ですのっ)

(だんなさ〜、ほら、摩奈があの時に墓石に水をかけてくれた時のあの器のことですわ)

(おぅおぅ、あれですのっ)

(なるほど、ペットボトルでね。結構ここを知っているつもりでしたが、その手口は目にしなかったなぁ。なるほど。あれっ、でも、ここのセミテリオにも桶と柄杓が事務室脇に用意されてますよ)

(でございますわね。以前は、それぞれのお家のお名前が書かれてあって、他所さまのをお使いしても構わないのでしょうけれど、何か遠慮してしまって。家のも作って頂いたのですが、どうして綾子も摩奈も使わなかったのでしょうねぇ)

(作って頂いたのは何時のことですのっ)

(だんなさ〜がこちらに入られた時に)

(私はまだ気で漂っておりますがのっ、桶や柄杓はもう朽ちておろうのっ)

(ですわねぇ)

(それでもね、まだ車にクーラーが付いていないのが普通の頃でよかったですよ。クーラーが付いていたら、初夏だというのにこちらは寒気がするくらい冷や汗かいているってのに、チラッと横を見たら、帽子を少し斜めにかぶった嫁が、膝を揃えて背筋を伸ばして微笑んでいました)

(くうらぁとは何でしょう)

(え〜と、ほら、空調。空気を冷やすんです)

(空気を暖めるのなら分かるのですのっ。火鉢とか。しかし、冷やすというのは、おっ、団扇ですのっ)

(彦衛門さん、また、ユリが聴きたいお話の邪魔するっ)

(いやぁ、じゃぁ、ユリさんは、くうらぁが何だか分かるのですかのっ)

(ほら、あれでしょ。あの時、彦衛門さんいらっしゃいませんでしたっけ。夢さんと一緒に電車に乗った時、あの時に電車の中の空気が何か違うような)

(おっ、それ、我輩は参りましたが、彦衛門殿はご一緒でなかったのでしたな)

(でも、先日播州にご旅行なされたお帰りには新幹線に乗られたんでしょう。きっと新幹線の中もひんやりしてませんでしたか)

(あら、だんなさ〜、たしかに。夏でしたのに窓も開けず、どなたもお扇子も使わないのに汗もかかず涼しげなお顔でしたわ。窓を開けたら、皆さん飛び出してしまわれるからなのでしょうけれど、あの様な速さは怖くて冷や汗ぐらい出てもよろしいのに。扇風機も付いてませんでしたでしょう)

(そうでしたかのっ。マサ、あの時は、ほら、摩奈の一件で私は相当参っておりましたからのっ。気付きませんでしたのっ。それに、私共、気の存在。暑さ寒さを感じぬ身)

(そうなんですか。便利ですねぇ)

(まぁ、便利といえば便利なのですがのっ、しかしながら、出るものが何もないというのはですのっ、辛いものですのっ。食えずひねれず、これちと面白くない、いや、かなり面白くないのですのっ)

(だんなさ〜)

(話を元に戻せばいいんですのっ。ユリさん。では、自動車の中で嫁女が団扇で風を送っていたということですのっ、富実殿)

(いえ、そもそも、クーラー、空調、冷房はまだ車に付いていない頃でしたし、え〜と、団扇もなくて)

(団扇が無いとは、団扇ももうあちらの世から消えてしまったのですかのっ)

(いえ、団扇はまだありますよ。扇風機も。で、今の車にはクーラーは標準仕様だと思うのですが、オリンピックの頃はまだバスや電車にもたしか空調は付いていなかったですね。扇風機が付いていたかなぁ)

(扇風機というものは、団扇を何枚も回すようなものですのっ、あれは見たことはありますのっ。団扇や扇風機と同じように、風を送る機械が、自動車や新幹線に付いているってことですかのっ)

(いえ、ご隠居さん、クーラーって、冷風が出て来るわけですよね)

(そうですねぇ)

(で、その冷たい風はどうやって作られるですかのっ)

(さぁ。ご隠居さん、ご存知ですか)

(いや、僕も知りませんが。まぁまぁ、彦衛門さん、ともかくも、冷たい空気が出て来るようになっているわけですよ。で、たしかに、オリンピックの頃には、まだクーラーの付いている車は、あったのかもしれませんが、僕は乗っていませんね。車にクーラーが付くようになったのは、電車より後だったかなぁ。同じ頃だと思いますよ。たしか、タクシーに乗ってクーラーが付いていると嬉しかったのが、かれこれ四十年程、いや三十年程前でしたか)

(富実さん、ユリに続きを)

(あら、ユリさん、ごめんあそばせ、でも、わたくしも気になっていることがございますの。奥様のお帽子、斜めにかぶってらしたお帽子、どんな形でしたかしら)

(カテリーヌさん、お帽子なんてどうでもいいじゃないの)

(あら、ユリさん、あちらでは、いえ、あちらと申しますのは、あちらの世のことではなくて、西洋では、お帽子は大事なんですのよ。女性にとりましては流行が)

(ユリ、お帽子なんて、夏の麦わらくらいしかかぶったことないもん)

(まぁ、ユリさん、そうでしたの)

(そうよぉ。お帽子なんて結った髪に邪魔です)

(まぁ)

(嫁の帽子ですか。どう言ったらいいか。え〜と、丸いこのくらいの、ほら、チーズみたいな形で。あれをピンか何かで髪に留めてたんじゃなかったかなぁ。あの頃のおしゃれですよ。そういえばああいう帽子、最近ではみかけませんね。本当、帽子とはいえ流行廃りがあるもんなんですね。で、私はそんな嫁、いや、まだ正式には嫁になっていなかったが、横目でちらちらと見て、ため息ついて、また煙草に火をつけて。実家への最後の曲がり角を曲がってからはのろのろと)

(で)

(ユリさん、ほんと、楽しんでますね)

(はい。ユリ、そういうドキドキするの大好き)

(簡易舗装の区道から我が家に通じる短い砂利道を車が入ると、音がすごくてね、すぐに太郎兵衛が気付いて)

(太郎兵衛さんってお爺さまですか)

(あはは、祖父は幸吉って名です。太郎兵衛は、その頃家にいた秋田犬で。砂利道を入ってきた私の車に吠えて。で、納屋の耕耘機の前で煙草を吸っていた祖父が顔をあげて、私達だとわかると目を見開いて、何も言わず慌てて前につんのめるように玄関に走って行って。で、玄関からは、祖母と母を振り切るようにして和美兄さんが出て来てね、嫁は助手席から降り立ち、先頭にいた兄にお辞儀をして、兄は抱きつかんばかりに喜んで、両手で嫁の手を握りぶんぶん振り回してね)

(よく覚えてらっしゃいますこと。ユリ、楽しめます)

(いやぁ、あの瞬間は、たぶん五分どころか三分もなかったんですよ。それまでの緊張が最高潮に達した瞬間。最悪の事態を想定していたのは私でしたが、祖父母も両親も予想外の最悪の瞬間を体験してしまったのかもしれません。それまでみんなが隠していたことがばれた瞬間。知らぬは太郎兵衛と兄のみ。いや、兄も、分かってはいたと思いますよ。知能障害があったわけではないですからね。で、それまでは、結納の時にも挙式の時にも自分が出席できないことはわかってはいたんだと思います。でも、突然目の前に嫁が現れたわけでしょう。写真では見ていた嫁の実物が、それもにこやかに。ただでさえ感情を押さえられない障害だったので、もう、とても喜んで、涙流して声上げて。元々言葉が定かでないものですから興奮状態の兄の声は言葉にもなっていなくて。祖父母や両親と一緒に兄を鎮めようとしながら、私が横目で嫁を見ると、嫁は手をふりまわされながらも微笑んでいるんですよ。負けた、と思わされました。いくら結婚前に調査済みで兄の状態を知っていたとはいえ、もしかしたら何度も頭の中で練習していたのかもしれないが、あまりの自然さに驚きました。まるで、ずいぶん前からの知り合いのように、幼馴染だったかのようにふるまっていました。いや、ふるまうというと演技のようですね。いや、自然そのもの、で、おいおいわかってきたのですが、あれが嫁の本質だったのか。幼稚園から一貫してミッション系だったので、いわゆるキリスト教的博愛心の持ち主なんだ、なんて最初の頃は思ってもいたんですがね。もしや、我が兄のことを知って、余計に私との結婚を決めたんじゃないだろうかとまで、こちらは勘ぐりましたよ。あっ、ミッション系とはいえね、初対面のその日、皆に挨拶して、兄もようやく落ち着いてから、嫁はご仏壇はどこでしょうか、って。でもね、ほら、家、祖父母から東京でしょ、でまだその頃祖父母健在で、仏壇なんてなくてね、あはは、家の中の仏壇の有無までは調べてなかったんでしょうね。あの時ばかりは、落ち着いていた嫁も少々あせっていましたっけ。ってなわけで、嫁と兄の出会いは難なく。それまでの家族や私の杞憂も消えて。おまけに、母が変わりました。農家の跡継ぎを奪って行った嫁だと思っていたわけですから、まあ、その点は変わらなかった訳ですが、自分が可愛がって気にかけていた長男ににこやかに振る舞える嫁、それも、末の二人の娘達よりよっぽど長男に優しい嫁なわけでしょう)

お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。

お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。


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