第十話 セミテリオの新入居者 その十四
(ははは、やっぱり遺伝ですかね。そうユリさん、祖父母に加えて、すぐ下の妹の久美もね、駆け落ちしたんですよ。隔世遺伝ですかね)
(あら、こちらでも富実さん、隠し事ですか)
(いえ、別に隠していたわけではなくて)
(駆け落ちはどちらになさったのでしょう。お爺さまとお婆さまは四国から東京でしたわね。で、妹さんは、世田谷からどちらに)
(久美は、駆け落ちというか同棲というか。厚木の米軍基地の近くの、相手のアパートに転がりこんで)
(米軍とは、もしや我が輩の)
(その通りです、ロバートさん)
(たしか、終戦直後マッカーサーが降り立ったのが厚木の海軍飛行場でしたね)
(まぁ、マッカーサーが、ですか)
(おや、マサさん、マッカーサーが誰だか知っているのですか)
(僕だって知っていますよ。フィリッピンから尻をからげて逃げ出したアメリカ軍人でしょう)
(あら、そうでしたの。それはわたくし、存じませんわ)
(そうですか。降り立ったのですか。帝国海軍飛行場に。帝国軍人は辛かったでしょうね)
(辛いと感じていたのは軍人で、兵や庶民はね、怖かったというのを思い出しますよ。兵隊って何をするかわかったもんじゃない。で、敗戦のすぐ後、間もなくやってくるだろう占領軍に女子供は襲われる、男子は去勢させられる、殺されるなんて言われていましたし。そりゃね、鬼畜米英と呼んでいたわけですからね。あはは、今思うとね、あの頃ああ言っていた連中は、自分たちの兵が何をしてきたか知っていたからってのもあるんでしょうね。でも違った。まぁ、兵隊は兵隊、若い男の集団ですからね、それに報道規制されていましたから、占領が終わってから、実はいろいろとあったらしいとは耳にしたこともありますが、でも、大日本帝国の軍隊と占領軍の軍隊ではだいぶ違ったようですね。日本は外地で奪って、戦後半世紀以上経ってもいまだに恨まれている。一方、占領軍は奪うよりも与えて、いまだにララ物資が感謝されているってのがあるでしょう。ただ、あの頃はそんなこと思わなかったですからね、最初は恐ろしかった。で、どんな権力を振りかざしてくるんだろうか、どんな無茶難題を吹きかけてくるんだろうなんて思っていたら、案外、庶民に対してはなんてことなくて。それに、しばらくすると占領軍は家族を連れて来たんですよ。たしか、マッカーサーも家族連れだったと思いますよ。日本が外地を占領していた時にも、そりゃ家族連れも一部あったとはいえね、規模が違う。都内だけでも何カ所も、広い敷地にどんどん家を建てて連れて来た子供達用に学校も作って、でしょ。あの頃、日本人でさえ食う物に困っていたから、この上、占領軍兵士に食い物を奪われるのかと戦々恐々だったのに、占領軍は自分たちの食物を持って来たどころか、日本人にも配った。そんなこと、帝国の軍隊がやったとは聞いた事は無かったですよ。奪われれば憎む、施されれば、プライドは傷ついても飢えはしのげますからねぇ。西洋かぶれになった連中がどんどん増えたのは、もちろん、別に食物ゆえだったという訳でもなくて。なんか、米兵ってラフだったでしょう)
(あっ、それ、私も何となくわかります。背が高くて色が白くてというのは真似できないけれど、なんとかあの格好良さはまねできないものか、とね。なんていうか、スマートなんですよね。私は、戦時中の日本の兵隊って見た筈なんですが覚えていません。でも、映画なんかで見ると、なんだかやぼったい、で、がちがちで、薄汚くて、よれよれで、でしょ。で、にこりともしない。家の親父なんかも、ああだったのか、なんてね。でも、私が記憶に残っている小学校の頃から、街中の占領軍っていつもこう笑顔で、いかめしくなかったんでね)
(そうそう、あの余裕が戦争に勝利した大元の理由かとも思ったり、いやいや、占領軍ゆえの余裕なのか、とも思いました。何しろ、街中走り回るジープだってへなへなじゃない、がっしりした金属で。庶民の鍋釜まで金属供出させられた日本が負けたのも無理ないなんて思いましたよ。まぁ、僕は、占領軍のおこぼれで助かりましたがね)
(ご隠居さん、お医者さんでもでしたか)
(はいはい、以前もこちらでお話したことありますが、ふふふ。煙草とかメリケン粉とかね、夜中のヤミの診察料代わり)
(へぇ、そうだったんですか)
(男子、笑うべからず、ですな。我が輩も笑わぬ日本人には面食らいました。街中では笑うでしょう。でも、官吏や軍人はにこりともしない)
(男子は笑うべからずなのですのっ)
(そうそう、それですよ、彦衛門さん。私が小学生の頃も高校になっても、授業中、特に体育なんかでにっこりしていたら叱られましたよ。あれ、なぜでしょう)
(私もそう教わりましたのっ)
(わたくしも、温をそう育てました。幼い頃はにっこりされて喜んでおりましたが、学校に上がる頃からは、男の子は笑顔を見せてはいけない、と)
(でね、授業中なんかは笑顔見せちゃいけないのに、いざ銀行に勤め始めたら、いつも笑顔を顔に貼付けたようなね。別に銀行じゃなくてもそうでしょう。他人の前では無表情よりは笑顔。どうともとれる曖昧な笑顔がいい、ってことになっているでしょう。あれ、何なんでしょうか。たしかに、私など就職以来四十年そうやってましたからね、曖昧な笑顔はこれまた習い症というか癖というか、顔の筋肉がそうなってしまいましたよ)
(そうそう、富実さん、それがね、ユリには慇懃無礼に見えるの。だって本心からの笑顔じゃないって感じです)
(ユリさん、すみません。もうね、この商売長年続けてきましたからね。でもね、一歩銀行の外に出たら、無表情でしたよ。自然にね。地下鉄やJRの中で、おっと、JRってのは、国電のことですが、つり革につかまってにこやかにしていたら、きっと気味悪いでしょうしね)
(マサさん、彦衛門さん、国電は、省電のことですよ)
(あ〜、そういえば、私の祖父母も両親も、いつまでも省電って言ってましたっけ)
(たしかに。ふむ。なるほど)
(えっ)
(いやぁ、笑顔が気味悪がられる、ですか)
(ご隠居さんにも覚えございます、でしょ)
(いや、そうではなくて。ふむ。いやぁ、僕、考えていたんですよ。なんかね、口角を上げているだけで鬱にならないって説があってね)
(はぁ)
(つり革につかまっていなくとも、電車に乗っていなくとも、道を歩いている時、人間って無表情ですよねぇ。いやぁ、人間っていうか、少なくとも日本人は、道を歩いている時、無表情でしょ。特に一人で歩いていたら。まぁ、話し相手がいる時には別なんでしょうがね)
(はぁ)
(ってことは、無表情で歩いている間は鬱になりやすいのではないか、なんてね。ということは、周囲に人が多い都会に住むと、鬱になりやすいのか、なんてね)
(あのぉ、にこやかに歩いていたらいけないんですか。ユリなら、いつもにこにこしていました。だって、道歩いていたら、面白いでしょ。あちらの樽の角から猫がネズミをくわえて出て来たり、それを追いかける別の猫、それを追いかける野良犬を見たり、ご近所の植木の枝にとまる雀とか、生け垣のお花がもうすぐ咲きそうだとか、閉まった戸口の奥からご夫婦の喧嘩の声や赤ちゃんの泣き声が聞こえて来たりして、そういえば、ここのお宅では少し前に男の子がお生まれになったんだっけ、とか、羽根つきしている女の子の鼻緒が切れそうになっているのを見つけたり、とかね。街の中を歩いていたら、いろいろと思ったり考えたり、見ていると面白いから、つい、ユリ、にこにこしていました)
(そりゃね、ユリちゃんはいいだろう。箸が転げても笑う年頃。同じくらいの年頃でも、僕はそういうわけにはいきませんでしたね。いい年して、男がみっともない、などと言われかねない)
(虎さんの頃はたいへんな時代だったのですねぇ。私など、いつもわいわいがやがや。今思うと、あの頃って、年齢的にも時代的にも、我が物っていうか、周囲が目に入らないというか、周囲も高校生がわいわいがやがやしていても気にとめないっていうか)
(僕の頃は、高等学校生は帝大に進むのが決まっていたようなものでしたから、心身ともに壮健で真面目にひたすら謹厳実直、いやぁ、それから外れた者もそれなりにいましたよ。僕は病で、少し上級生だと女や酒に、もう少し上級生だと赤にうつつを抜かしたりってのもね。けれど、周囲の目は、独特でしたよ。選民意識というか、持たされていましたからね。あの年齢独特の我が世の春という感覚はわからないでもないのですが、国際連盟脱退や支那事変と暗雲たれこめる中、来る冬を前に春の感覚は持てず。まして病に侵されていた僕はね。うらやましがっても仕方ないとはいえ、生まれた時代で随分損得があるものです)
(虎さんは、私より何年お先に生まれたのでしたっけ)
(僕は昭和元年と同じ大正十五年です)
(ということは、私より十五年お先に生まれてらっしゃる。十五の違いはそりゃね。私も戦中生まれですが、それでも、記憶にあるのはほとんど戦後のことですし、農家育ちでしたから食糧難というのも経験していませんし)
(後から生まれる方が、病気の治療方法もどんどん発明されますし、虎さんももう少し長生きしていれば、結核は治せるようになりましたしね。もっとも新しい病気も時々発見される)
(ご隠居さん、そうですよねぇ。AIDSなんて、昔はなかったんでしょう。私の頃にあったら、どうしようかって思いましたよ)
(ほうっ、富実さんはそういう)
(まぁ、それも二十歳過ぎぐらいまでの事ですよ)
(ほぉっ)
お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。