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第十話 セミテリオの新入居者 その十三


(あっ、ロバートさん、ありがとうございます。で、急須

のコーヒーを置いて、なんだか、急須のコーヒーというのも味が変わる様な。まぁ、いいですか。で、隣室に布団を敷いた仲居さんが下がった後、ひたと私の顔を見つめまして、真剣な顔をするんですよ。冷める前にとカップに注いだコーヒーをソーサーから、あっ、ロバートさん、大丈夫です。言い換えます。湯のみと茶托ですね。つまり、湯のみを茶托から持ち上げる手が止まりました。いえ、止めました。怖いというのではなく、私の真意、深意を探ろうとでもするような、真剣な目つきでした。夕食の時までは可愛い新妻だったのにね。何事かと。ここまでようやく漕ぎ着けて、披露宴までの慌ただしさや新婚旅行の甘い思い出が、まさか音を立てて崩れるのではと危惧した方が良いのか、俺は何か間違ったことをしたのか、一瞬混乱しました。あの時のぞっとする思いは、何か旧悪が暴露されたような、もしや大学生活の前半までの悪事、まぁ、悪事といっても人並みの悪事がばれていたのか、などと頭をひどく回転させまして、あれこれ思い当たる節の有無を点検しつつ、そこは慣れた銀行員の表向きのにこやかさを顔に貼りつけたままね。で、嫁が言うんですよ。何時になったら、みなさまにお目にかかれるのでしょうか、とね。明日、少し早めに立って、世田谷のご両親さま、ご祖父母さまにご挨拶にお伺いいたしたいと思っております、なんてね。慌てましたよ。実家への挨拶は来週末にでもなんて予定だったんですから。そう言ったんですよ。そうしたら、いえ、予定通りにしたら、みなさまにはまたお目にかかれないでしょう。私、お兄さまにお目にかかりたいんです、ときました。しらばっくれてね、あれ、会ってなかったっけ、なんて言ったんですが、また真剣な目で私の目を見つめるんです。その目が潤んできて、涙がこぼれそうになって。私、一昨日式を挙げてあなたの妻になりました。と言われてね。で、その時、私、気付いたんですよ。確かに式は挙げた、だがまだ入籍していない。帰宅してから夫婦揃って芝の役所に届けを出す予定だったんですよ。つまり、その時点ではまだ法律上は私は実家の姓で、まだ養子に入ってはいなかったんですよ。焦りました。まぁ、世の中の通例ですとね、銀行のお偉方の前で挙式した訳ですから、結婚したことにはなるんでしょうが、入籍していないってことは、うっかり兄に会わせたりしたら、もしかしたら破談されるのか、夕刻までの高揚感も、これからの銀行での出世もここで終わりか、部長の一人娘を射止めそこなった烙印が付いてまわるのか、と絶望したり、いやぁ、あれだけ皆の前で結婚したのだから、しかも新婚旅行まで来て、今更破談なんて、嫁の方にも押された烙印が付いてまわる訳だし、そんな世間体の悪いことがこの清純そうな嫁にできるのだろうか、いや、清純そうなのは見かけだけなのか、俺は騙されていたのかなどと混乱しましてね。でも、こぼれそうな涙を押さえて嫁が語ったことは、私の想像をはるかに超えた高潔さで、それ以来嫁には頭が下がりっぱなしとなった初兆の瞬間でした)

(うわっ、富実さん、おやめください。恥ずかしい)

(えっ、ユリさん、何が。あっ、いえ、違います、それじゃなくて、あの)

(ははは、ユリさん、誤解ですよ。そもそも字が異なる)

(私には何のことか分かりませんのっ)

(ああ、おほほ)

(マサさままで、おやめください)

(マサ、私には分かりませんのっ)

(いえ、だんなさ〜、お分かりにならなくても構いませんの。でも、ユリさん、お恥ずかしいことではないのですよ。ユリさんの時にもお祝いなさったでしょう)

(あっ、はい、お赤飯炊いて。驚いたのに、痛いのに、恥ずかしいのに、お赤飯なんてと思いました)

(おめでたいことですもの)

(でも、でも、恥ずかしいです)

(恥ずかしく思えたものでしたわ。でも、時が経つと)

(ユリさん、無ければ子を成せませんからね)

(ユリは結婚してませんからっ)

(ユリさん、子を産み育ててこその命なんですよ。子、孫、曾孫とつないでいくことがね、動物たるものの宿命と申すか、DNAの戦略ですからね)

(おっ、出ましたのっ、例のできの悪い何かが明かされるでしたかのっ。犯罪の捜査に使われるものでしたのっ)

(彦衛門さん、犯罪の捜査にも使われるようになりましたが、そもそもは、遺伝子の、つまり、親から子、子から孫へと伝わって行くものでして)

(親が悪い事をすると子も悪い事をする、というのは、たしかにありますのっ)

(いや、それは、僕はそうは思っていませんよ。その、犯罪ということだけではなくて、例えば、彦衛門さんが、彦衛門さんのお父さんにどこか似てらっしゃるとか、マサさんとマサさんのお子さんがにてらっしゃるとか、そういうことで。つまり、代々引き継いでいく性質、ではないなぁ、どう説明したらいいでしょうか。え〜と)

(つまり、家名を継ぐ、養子を貰って家名を継ぐ必要があるわけですのっ)

(天孫降臨、神武の御代から代々繋いでこられた皇室は敬われるのですものね)

(いえ、マサさん、それも一寸違いまして。そもそも、皇室でなくとも、あちらの世に生まれた人には誰にでも両親二人、祖父母四人、曾祖父母八人、曾曾祖父母が十六人と、どこまでも何千年前に遡ってもいた訳ですからね)

(以前ご隠居さんが話してらしたことでしたわね)

(はい、カテリーヌさん、そう。どなたも、大層昔から命がつながってきていて、だからこそあちらの世に生まれ得た訳ですよ。で、代々、引き継いで行く体質というか性質というか、そういうものを伝えて行くのが遺伝子であり、DNAであり、ということでして。あれっ、何の話でしたか)

(トミーさんが茶托から湯のみを持ち上げた手がお止まりになったのでしたな)

(そうそう。富実さん、続けてください。ユリちゃんに構わず)

(虎ちゃんっ)

(構っていたら恥ずかしいんだろう)

(虎ちゃんっ)

(え〜、では、続けさせて頂きます。嫁が目に涙を浮かべて、私の目をじっと見つめて語り始めたのでした。一昨日に式を挙げて、あなたの妻になりましたのに、あなたはまだ私に隠し事をなさってらっしゃいます。どうしてお話になっていただけないのでしょうか。私はまだあなたの妻にはなりきっていないとおっしゃるのでしょうか。そう言われて、焦りました。何か隠していたっけ。いや身辺整理は入行前にとっくに終えている。銀行員たるもの、貸すのが商売とはいえ、借金はしていないし、賭け事も学生時代の麻雀やパチンコ程度で入行以来皆無。何かあったっけ、などとね。でも嫁はじっと見つめてくるわけですよ。私、あなたからお話になるのを待つつもりでした。でも、一昨晩も昨晩も今もお話していただけませんのね、と。何か話すことはあったっけ、無い筈。隠さなきゃならない事などはなから無い筈。そう言っても、妻はじっと見つめるばかり。しびれをきらして、何の事か問うと、ご家族のことです、と。父も銀行員の端くれですから、いえいえ、端くれなんてものじゃなかったのですが、当然あなたのご家族のことを調べました、と。まぁね、今と違って、あの頃は就職先の企業が応募者の身上調査をするなんて当たり前の時代でしたからね、そもそも応募というより紹介状中心でしたし。ましてや金を扱う銀行でしたから、僕の家族のことを銀行が調べていたのは当たり前、その上で上司が僕を部長の義理の息子候補に紹介したのでしょうしね。怪訝な顔をしていた私にね、妻は言うんですよ。結納の前に、父が調べて、お兄様やお妹様のことを知って、私に、それでも結納するのか、そういう身内のいる相手と身内になる覚悟はできているのか、断るなら結納の前に、と申してました、とね。父は、その内に生まれるであろう子に、遺伝するやもしれぬ病や性格かもしれないからと、知り合いの医者にも尋ねて、遺伝性はないだろうとまで言われたと伝えられたそうで。遺伝性がなくとも、日々の生活はたいへんだろうし、あちらの家に入るのではないとはいえ、おつきあいをしないわけには行かないだろうし、覚悟はできているのか、とお父様に念を押されたそうで。先ほどお兄様に会わせていただきたいと申しても、おとぼけになられて。いや、それはちがったのでした。まさか、私が責められているありもしなかった隠し事が兄や妹のことだなどとつゆ思わずだったのですがね。嫁は、身内になった以上、もう隠す必要はないのに、隠そうとしている私は非道いと。隠すのは、あなたがお兄様をそういう目でご覧になっているからなのでしょうか、とまでね。いやぁ、私は、兄のことは語らないのが慣れ症になっていただけでね、で、そう申せば、なぜでしょう、と来た。なぜと言われても、困りましたよ。そんな事、深く考えたことなかった。いや、何事でも、私、深く考える質ではないですし、いや、なかったですし、いや、やはり今でも、こちらの世に来ても、深く物事を考えるなんて、似合わないんで。でも、母がずっと隠してましたからね、隠すのが当たり前だったわけで。で、そう伝えたら、でも、私はあなたの妻ですから、隠されるのはかえって辛いです、とね。お兄様の症状も、お妹様が駆け落ちをなされたことも、妻になった私にこの先ずっと隠しておかれるおつもりでしたか、と。いやいや、おいおい分かることだとは思っていました、と申せば)

(駆け落ちって、お爺さまとお婆さまのことではなかったでしたっけ)

お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。

お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。


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