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第十話 セミテリオの新入居者 その九


(まぁ。横浜や東京が臭かったのですか)

(いえ、今も。ここでは滅多にございませんが、それにもう慣れましたし)

(何の香でしょう)

(おつけもの。女中が床下から毎日出してかき混ぜているあの変な)

(あら、ぬか漬けかしら。おほほ、確かに臭いですわね。でも美味ですのよ)

(わたくし、最初の頃は気味悪くて。気味悪いと申しては何ですが、たまにお口の中が真っ黒な方もいらして)

(お歯黒でしょ。ユリも時々お年を召された方に驚きました)

(あっ、それでしたら、私も驚いたことありますよ)

(えっ、トミーさんがですか。トミーさんの頃にもいらしたのでしょうか)

(はいはい。戦後も、ごくまれでしたが、いました、いました。驚きますよね。げらげら笑った老婆の歯が白くないってのはね。虫歯だらけだと思いましたよ)

(わたくしもお歯黒いたしたことございましたのよ。でもだんなさ〜が、文明開化の世には似合わぬと。お歯黒をいたさなくなりましたら、何か、白い歯を見せるのが恥ずかしくて)

(まぁ、マサさまもお歯黒なさってらしたのですか。日本の方のなさる事にいろいろと気味悪く思っておりましたこと、今では申し訳なくて)

(自分の常識と違う世界を見ると、驚くのは当然でしょう。そこで嫌悪感から拒絶して、坊主憎けりゃ袈裟までになるか、それともありのままを受け入れるか、一定の距離を置くか同化するかは人それぞれ)

(西洋からいらして、日本を蔑げずまれなかったのはご奇特ですな。我が輩など、二流国と言われた亜米利加から参りまして、さらに下等な日本の文化にどっぷり遣ってしまい、仲間内では外交官としては失格者扱いする者もおりました。そういう態度こそが外交官としては失格だとも思わないでもなかったのですがな)

(ロバート殿、二流国からいらしてさらに下等な日本とおっしゃいましたのっ)

(彦衛門さん、我が輩は日本を下等な国とは思っておりませんでしたな)

(日本が下等でしたかのっ。いや、確かに、西洋に負けるな、追いつけ追い越せの如き思想はございましたがのっ)

(僕も書物で知っているだけですが、そこでしょう。幕末の攘夷論とは。異質な文化をどう捉えるか。あの頃から第二次世界大戦の頃も、国によって優劣があるとか、文化文明に優劣があるとか、劣った国だから支配してよいなどという考えで、西洋諸国も酷かったが、日本も大陸や半島、南方で同じ考え方をしましたからね。で、偉い政治家がそういうならば、民も従ってしまった。だから誰それは何人だから偉い人、誰それは何人だから馬鹿にしてかまわないとかね)

(なんだか難しい話しになってきましたね。私、そういうの苦手でね。だって、なんだかんだと言って、つい最近だって、欧米人にはにこにこするし、アジア人にはなんとなくうさんくさい目を向けてるでしょう。そんなもんですよ。そんなもんだからそれ以上語ったってどうにもならない、でしょ。そりゃあね、文化人とか学者とかいろいろとおっしゃってるみたいですけれど、そう簡単に人は変わるもんじゃなし)

(ふむ)

(あはは、いや失敬。それよりも、カテリーヌさんと御夫君の来日時のお話し、もっと伺いたいですね。私が生まれる前の日本がどんなだったか、それこそ西洋人の目から見た劣った国がどんなだったか、面白そうですよ。あっ、これ、別に自国文化を卑下しているわけではないですよ)

(自国文化の卑下とは、なんですかのっ)

(いやぁ、今、いや、つい最近まで私がいたあちらの世界では、そういう議論もされていたわけでね。戦後の日本のあり方が卑屈だとされて、戦争を始めたことや戦争に負けたことを教科書にどう書くかなんてことを政治家や政治家に踊らされた連中がかしましくてね。そんなことどうだっていいのに。踊らされる連中は暇なんでしょうかね。うっかり卑下しているかのような発言をすると、メディアもネットも大騒ぎ)

(網が騒ぐとは何ぞや)

(網、あ〜、ネットとはインターネットのことですよ。ほらサイトの)

(あっ、例のたくさんいらっしゃる斉藤さんのことでしょ)

(いえ、ですから、う〜ん、テレビや新聞やパソコンで騒ぐ訳ですよ)

(あっ、斉藤さん家はあまりよくわからないけど、ユリ、テレビは見たことあります)

(ユリさん、要するに、あちこちの人がテレビや新聞で騒ぎだして、それに乗ずる人が出て、ということです)

(何やら、幕末時の論争と似ておりますのっ。テレビはなかったのですがのっ)

(いやぁ、南京大虐殺があったかとか、天皇は神だとか)

(ああ、あの論争ですか。虐殺された人数が、とかでしょう)

(そうそうご隠居さん。あれだって、事実は、そんなもの、自分の目で見なきゃ信じられない、無理ってものでしょ。で、どっちの政府が言っていることを信じるかって。そんなの難しいですよ。だから両論併記するのか、そりゃ間違いだ、とかね。日本人のくせに大虐殺があったと言うのか、韓国人のくせにあの頃の日本の統治には良いこともあったと言うのか、それぞれ国辱ものだと糾弾されたりね)

(従軍慰安婦の問題もありますねぇ)

(そうそう、あれだって、慰安婦だったって言う人がいて、その人たちは軍部にかどわかされたと言う。軍部はその証拠は無い以上、そのようなことは無かったっていうんでしょう。あったという人となかったという人がいたら、どっちが正しいか。わからないじゃないですか)

(僕は、有無の話しになると、法律で判断するしかないと思うのですよ。それで僕は司法の道を志しておりました。僕の頃と異なって、今の司法は証拠がより重視されているようで、富実さんのお話に出てきた件も、証拠をどれだけ集められるかから始まるのでしょうか。冷静な議論が求められるのでしょうね)

(虎さん、虎さんが亡くなる前後の件ですからね、もう随分経っている。証拠がどれだけ集められるのか疑問ですよ。それでも冷静な議論とは行かない。それと、証人もどんどんあちらの世からこちらの世に転居してきてますしね。ただ、事実ならば、どれだけ隠しても白日のもとにさらされる日が来る。あちらの世ではごまかせても、こちらの世ではごまかしはききませんしね)

(もう鬱陶しい話はやめて、マダムかテリーヌの来日時のさぞかし麗しきロマンスを拝聴いたしたいものです)

(いえ、それほど。それよりも、元はトミーさんのお話でしたわ。いえ、トミーさんのおじいさまとおばあさまが手に手をとりあってのお話でしたのよ)

(いやあ、祖父母のこととはいえ、お恥ずかしい話ですしね)

(うわっ、何。ユリ知りたいです。いつ頃のことかしら。富実さんのおじいちゃまとおばあちゃまでしたら、え〜と、私よりはお先に生まれてらっしゃいますね)

(え〜と、何年生まれだったかなぁ)

(まぁ、ご自身の祖父母さまのお誕生年をご存じないのですか、まぁ)

(マサ、私たちの生まれた年を、孫は知っておりましたかのっ。朝子や綾子、先日会った摩奈が知っておりますかのっ)

(あら、そうですわね。たぶん、無理かしら。悲しいですわ)

(いやぁ、そんなもんだと、私も諦めてますのっ。マサ、玄孫の摩奈が生まれた年を覚えていますかのっ)

(あら、もう随分昔のことですもの。忘れてしまいましたわ。冬でしたわねぇ)

(綾子が生まれた年を覚えていますかのっ)

(あら、存じませんわ。摩奈よりもっと昔ですもの)

(では、孫の朝子のは覚えていますかのっ。もっとも、朝子が生まれた頃は、マサがこちらで私と一緒になる前ですからのっ、私はこんなにこちらで動き回れるとは知らぬ存ぜぬでしたがのっ、マサは朝子が生まれた頃はまだあちらの世にいたのでしたのっ)

(はい、あら、でも、朝子は外地で生まれましたでしょう。生まれた年は覚えておりませんが、生まれたことにした日は覚えておりますわ)

(おっ、流石に孫ともなると覚えているのですかのっ)

(いえ、あら、だんなさ〜にお話したことございませんでしたかしら。本当は朝子は年の暮れに生まれたそうで、でも、悦が、だんなさ〜の亡くなられた日を朝子の誕生日として届けたそうです。碧さんもそれでかまわないとおっしゃったとか。ですから忘れようもございませんわ。ましてやどなたでも覚えやすい日ですもの)

(どなたでも覚えやすい日って、あっ、ユリ、思い出しましたっていうか、うふふ)

(ユリちゃん、いくらもうこちらの世に来ているとはいえ、いえ、いらっしゃっているとはいえ、命日を笑うというのは失礼だろう)

(いえ、だって、誰だって覚えてられるし、それにめでたい日なんだもの)

(めでたいって、そりゃぁ、誰にだって死なれてほっとする人はいるのかもしれないが、それにしても、目の前にいらっしゃる方の命日をめでたいは、失礼にも程がある)

(まぁまぁ、虎之介さん、あの、わたくしでもおめでたい日だと思いますのよ)

(お婆ちゃん、いくらなんでも。それほどお爺ちゃんは非道い方だったのですか)

(いえいえ。虎之介さんにお婆ちゃんやお爺ちゃんと呼ばれる方が失礼かもしれませんの)

(うっ。失礼いたしました。マサさんまで彦衛門さんと同じ様におっしゃるとは)

それで、あのね虎之介さん、日本中でおめでたい日なんですのよ。命日とはいえ、元日なんですもの)

(あっ。そういえば、以前お話なさってらした)

(はい。おめでたい日でございましょう。それだけにわたくしはてんてこ舞でした)

(朝子の誕生日を私の命日にしてくれたのかのっ。今度悦に会ったら礼を申せねばならないですのっ。朝子は私の生まれ変わりのようなものなのですのっ。で、マサ、朝子の誕生日は私の命日だから覚えているようですがのっ、生まれた年は覚えてますかのっ)

(いいえ)

(孫の生まれた年を忘れてしまうのですからのっ、孫が祖父母の生まれた年を覚えていなくとも当然ですのっ)

(はい......)

(まぁ、亡くなられた年は、過去帳を見れば分かりますよ。家系図が作られて、そこに書いてあればこれまた分かる。ただ、過去帳には戒名のみ書かれる場合もあって、生前の名前がわからなくなることもありますしね。どうも、日本人は、過去のそういうことはどうでもいいと思うのでしょうかね。僕、韓国人の家系図、図というか本のようになっているのを見せてもらったことがあって、驚きましたよ。細かく、もう五百年ぐらいは簡単にたどれるらしいですからね。日本は、役所でも、どんどん過去の戸籍など廃棄してしまうらしい。墓参りだって、仏壇にだって、毎日って人は、最近どれほどいるのでしょうか。そんな時間がないからなのか、過去にこだわっていたら生きていけないからなのか。あはは、そんなもんですよ。僕たちが、だんだん薄くなっていくように、忘れられていく。よっぽど悪いことをするか、よっぽど権力を握りでもしない限りね)

(わたくしも、きっともう忘れられておりますわ。でも、わたくしも、子孫がどこに何人いるのか存じませんし、会いに行くには遠すぎますし。寂しい)


お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。

お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。


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