第十話 セミテリオの新入居者 その八
(でも、虎さん、赤いのは、虎さんの頃でもあったでしょう)
(赤いって、アカのことですか。危険思想の)
(いえいえ、赤い光)
(提灯ですか)
(提灯なら、私の頃にもありましたのっ)
(いえ、そうではなくて、ほら、いやぁ、困ります。ユリさん、ちょっとお耳を塞いでください)
(えっ、なんで)
(あっ、そちらの赤い灯りですか。なるほど、ユリちゃんには耳の毒)
(えっ)
(あるにはありましたよ。僕は行きませんでしたが)
(高校二年の終わりにね、行かないかって誘われたんですよ。もう世の中から消えちゃうからって。でも、あんな所、怖くてね。怖いって、命落とすわけじゃないけれど、でも金払って病気染されるなんてごめんですからね。金払わなくてもいくらでも女の子なんて周りにいましたしね)
(ユリ、なんとなくわかったような。えっ、でもそれって、本当ですか)
(えへへ。そんなところです。いや、ですからね、世の中なんて、そんなもんなんですよ。うまく立ち回らなきゃ損。表向きと裏の実態はおおいに異なる。真面目に、世間さまに顔向けできるように正直に、悪い道に入らず、なんてね、血迷い事なんですよ)
(なんか、ユリ、富実さんが怖くなってきました。慇懃無礼な方だと思ってたのに、なんだか裏の世界の人みたい)
(いやぁ、しっかり表の社会人でした。ご心配なく。人並に恋愛し、人並に浮気し、あっ、しかし人並以上にってのもありましたが。まぁ、あんなもんでしょ。いや、あんなもんだと思っていたんですがね、こちらの世に来る少し前になってからは反省の日々)
(富実さんと反省ってなんだか似合わなそう)
(ですねぇ。自分でも思いますよ。反省する様になってからも、柄に合わないって申しましょうか。いやぁ、反省なんてしたことなかったから、これって反省なのかと気付いて、反省している自分に愕然というか。きっと似合わない事してしまったからこちらの世に早々と参ってしまった、なんてことはないでしょうけれど)
(反省って、そんなに悪いこと、やっぱりしてらしたのでしょうか)
(ユリさん、はい、いや、何と申しましょうか。何でも、やっている時にはそれがその時の自分の思うまま、これでよい、これがかっこいい、これがベストなんてね思っていたわけですよ)
(ベストとは最良という意味でござる)
(ああ、ロバートさん、ありがとうございます。ああ、この前まで私がいた日本と、こちらのみなさまとでは、言葉遣いが違うようですね)
(僕は、意味は分かりますが、敵性語ですからね。仲間内ですら人の耳のある所では使いませんでしたね)
(敵性語ですか。その言葉自体が、私にはアナクロ)
(穴が黒いのですかのっ)
(いや、え〜と、古い言葉って申しましょうか。あれは英語だと思うのですが、フランス語でしょうか。ロバートさんか、カテリーヌさん、おわかりになりませんか)
(わたくし、存じませんわ)
(アナクロという英語ですかな。存じませぬが、もしや、another clockとかですかな)
(えっ、いえ、別の時計ではなく、別の時代というような)
(それ、アナクロニズムですよ。略してアナクロ)
(そうそう、そうでしたっけ。ご隠居さん、流石です)
(私にはさっぱりわかりませんのっ)
(anachronismですな。はいはい、昔の言葉や方式を持ち出すという)
(anachronismeですわね)
(希臘語由来ですな)
(わたくし、羅甸語だとばかり思っておりました)
(ギリシアとかラテンってどこにある国なのかしら。ユリ、知りません)
(ギリシャはまだありますよ。ラテンは、あれっ、ラテンという国は、昔もなかったと思います。どなたか、ラテンという国をご存知ですか。いや、それぞれの、あちらで生きてらした時代にはそういう国があったというような。いや、でも、ラテンアメリカというのがあって、いや、あれは国の集まりの名称ですし、そういやラテン音楽ってのも、あはは、ベサメムーチョとか、♪マラゲーーーーーーーーーーニャ♪って息継ぎなしで伸ばすのとか歌っていた、え〜と、何て言ったっけ、メキシコの楽団、そうそう、トリオロスパンチョスの公演何度か、へへ、連れて行ったのは毎回違う女の子。ラテン続きでホテルニュージャパンのラテンクォーターに連れてって、巻き舌の練習なんて言って、懐かしい、もうあれから半世紀か)
(ラテンという国は、かつてあったようななかったような、羅馬の近くにあった国の名前ですな。ただ、かれこれ二千年以上前のことですな。で、その、今、富実さんがお歌いになられた)
(そうなの。ユリ、ラテンというそんな古い国のことより、今お歌いになられたゲーーーーーーーーーって伸ばされたのがとても気になって。変な歌、ですか)
(ああ、私も歌えませんよ。この部分だけ。ラテン音楽のね、トリオロスパンチョスが歌っていた歌でね。ゲーの他にもあちこち伸ばす歌でした)
(ゲーと伸ばすお歌は、わたくしはちょっと、何だか気分が悪くなりそうですわ)
(マサ、ゲーもこの身ではできませぬの)
(だんなさ〜、また)
(嘔吐とは、身体に悪い物を出すことですから、汚いが必要。出さねば身体に悪いのですよ)
(まぁ、ご隠居さんまで)
(いや、僕は医者としての見解を述べたまでで、マサさん、すみません)
(マサさん、日本語の歌ではなくて、メキシコの歌ですから、たぶんスペイン語だと思いますよ)
(まぁ、然様でございますの)
(ゲーは汚くとも芸は身を助く、ですの)
(だんなさ〜)
(あはは。彦衛門さんは面白いお方ですね。もし私と同時代に生きてらしたら、さぞかしご一緒に楽しめたでしょう)
(いや、私は、先ほどの、ゲーの歌の後に富実さんが述べられていたお話に少々危ない匂いを感じましたのっ。女子を騙す様なお話をなさってたようでしたのっ)
(彦衛門さん、人聞きの悪いことおっしゃらないでくださいよ。騙すとか騙されるなんて。それほど悪いことはしてませんよ。私の頃の女の子って、騙されたふりだけでね。純情可憐なんて程遠いのばかりでした。いや、妻以外は。それに、私の悪さなんて、確かに悪いのかもしれませんが、一応見極めつけてましたから。はい、世間様から見たら、親から見たら、悪いこと、ってぐらいはもちろん分かってましたよ。でも、自分としては、それが悪い事とは思っていなかった。周りのみんながやっている、やりたいと思っていることをやっていただけでね。ひどい法律違反をしたわけでもなし。先公やポリ公の世話には一度もならなかったし。へへ、巧く立ち回ってたもんだ、あの頃から世慣れしてるのがこのトミー様)
(こう、ってどういう意味でしょうか)
(こう...ですか、カテリーヌさん、このようにというような)
(はい、いえ、それは存じてますの。わたくしのわからなかったのは、ただ今のトミーさんのお話の中ででてきたこうなんです)
(こうなんです、ですか。私、そう申しましたか。あっ、先公、ポリ公、うわっ、あっ、あれは独り言のつもりだったんですが。うわっ、本当、こちらの世では気をつけないと怖い怖い。口に出して言ったつもりはなかったのに)
(ユリにも聞こえました。ご自分に様をお付けになってましたし)
(うへっ。用心用心)
(いえ、ですからね、富実さん、ここでは、ほら、音というものではなく、心での会話ですからね、表向き善人を装っても、裏や奥に潜む悪意も伝わってしまうんですよ。ある意味楽でしょう。繕う必要はなし。地のままで)
(そりゃ、たしかに、私、地のままならば、ポリ公、先公と思っていたが、う〜ん、しかしポリ公も先公も小金は持っていたから、内心馬鹿にしても大事な顧客。まぁ、私の顧客の対象ではなかったけれど。信用度が高く、小金を持っていて着実な小心者)
(ほらほら、聞こえてますよ)
(うわっ)
(あのぉ、それで、そのこうとは何でしょう)
(公という意味でして。つまり公人、いや、私立の場合、公務員ではないが、それでもまぁ、教師とは公人だろうし)
(では、様やさんのような意味なのでしょうか)
(いや、違いますよ。カテリーヌさん。ははは、富実さん、ご説明いかがですか)
(え〜っ)
(僕も関心あります。そのような表現が今のあちらの世では使われているのでしょうか。官吏ではなく官僚と呼ぶようになったのは気付いてましたが、そういうご職業の方々には、様の代わりに公人の公を使うのでしょうか)
(いやぁ、そのぉ、今のあちらの世というより、たぶん、昨今の若者はもう使っていないやもしれず。え〜と、私が若かった頃には、公を付けるのが流行ってたのはたしかなんですが。しかし、大人が使うことばではなくて、そのぉ、ほら、中学生や高校生の、特に男の子は、社会に反発するっていうか、こう、意気がって、世間を小馬鹿にして、世間の代表みたいな、学校の先生や警官を自分たちと対等どころか下に見ようとする。ほら、先生も警官も真面目で法律守って生きているでしょう。だから、馬鹿にして公ってつけるわけですよ。だから先公、ポリ公。で、そう呼んでいるからってとがめられても、公人なんだから公を付けた、殿さまみたいに敬った言い方だしなんて言い訳もできるってところがね、所詮若さの馬鹿さなんですよ。で、はい、すみません。地の私は、つい、あの二十歳前後の馬鹿な若者に戻ってしまいまして、つい、あの頃のように公を使いました次第でございます。カテリーヌさん、ユリさん、そして虎さん、ご理解いただけましたでしょうか)
(正しい日本語ではないということでしょうか)
(いえ、カテリーヌさん、そのぉ、正しいかとおっしゃられると困るのですが。私が若い頃には使っておりました。ただ、大人が使う言葉ではありません)
(僕は、知っていてもいいかもしれない言葉なのかもしれません。いや、知っていたとて、今更あちらの世に戻れるわけではなし、使い道はないのですが)
(もしかして、武蔵君なら使うのかもしれない、ねっ、虎ちゃん)
(武蔵君は、どちらかというとそういう段階ではないような)
(武蔵君とはどなたでしょう)
(いえ、今はこの辺りにはいらっしゃらなくて。でも、そこのお墓のお爺さまの所によくいらっしゃる、え〜と、十四五歳の)
(そんなに若くしてこちらの世に。またどうして、交通事故ですか、それとも何かお病気で、いや、今の時代、いじめの自殺でしょうか)
(自殺ではないって。でも、どうしてこちらの世に来たのかきくとね、恥ずかしがって教えてくれないの。でお爺さまも、言わないでと孫に言われているからと口ごもって教えてくださらないし。無理にきく訳にもいかないでしょう。武蔵君ってね、可愛いのよ。虎ちゃんみたいにひねてないの。その内こちらに戻ってくると思います)
(武蔵君は可愛いですのっ。あの子にお爺ちゃんと言われても腹立ちませんのっ)
(なんだか、僕は武蔵君と比べられているようで)
(たぶん、武蔵君と虎之介殿の年齢差は大した事はないのでしょうがのっ、どうもね、虎之介殿にお爺ちゃんと言われるのは、釈然としないものがあるのですのっ。武蔵君は、可愛らしい)
(ああ、なんとなく、私、わかりました。反抗的になっていく前の、まだこども、少年期の可愛さでしょう。たしかに、虎さんには、少年期の可愛さはもう無いですねぇ。もう、いっぱしの大人のつもりの様な危なさ、角々しさはありますね。そう、まさに虎さんの年齢頃から私が使っていたのが、先ほどの公ですよ。あっ、もちろん、社会人になってからは使いませんでした。その辺りは要領よく立ち回ってた、ってことですよ。私が要領いいのは、生まれつき、いやぁ、あの家にいたら、要領よくなったんでしょうね)
(まぁ、要領の良いご家族だったのですか)
(いやぁ、みんながみんな要領良かったわけではなかったんですよ。ああ、でも要領のいい遺伝もあったのかなぁ)
(要領のいい遺伝って)
(いやぁ、そもそもね、伊予の国から手に手をとりあって上京してきた祖父母がね要領良かったというか)
(まぁ、手に手を取りあってなのですか。わたくしも英吉利の夫と手に手をとって、船ではるばる日本まで参りましたのよ。仏蘭西から夫の国にドーバー海峡を渡りました折も手をつないでおりましたの。日本に向けての旅の途中、エジプトでもインドでも、船の上から手をつないで珍しい町並みを眺めておりましたが、いざ横浜上陸の折には、ここでわたくしどもの生活が始まるのだと、希望よりも恐ろしく、言葉の通じない国でどうしようと不安でいっぱいで、夫の手をしっかり握りしめておりましたのよ。エジプトからインドを経由して日本に参りますと、肌の色は少しずつ明るくなって、でも、こちら、みなさま黒い髪の方ばかりでございましょう。みなさまお背があまり高くなくて、目が細くて、みな同じお顔に見えてしまいましたの。それに、お着物の方ばかりで、私が参りました頃はまだ初夏でしたが、夏になるとほとんど裸体みたいな殿方もいらして、目のやり場に困りましたわ。そういう時にも恐ろしくて、夫の手をしっかりと握りました。ごめんなさい。それに臭くて)
(船でいらしたのでしたのっ。港町が潮の香するのも、魚臭いのも当然ですのっ。他国の港町も魚臭かったと存じますがのっ。魚の種類が違うと臭いも違うものですかのっ)
(あっ、はい、いえ、彦衛門さま、でも、港ではなく、街中が)
お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、再来週水曜日に再会いたしませう。